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アニメの話をしながら、魂と魂が触れ合っている〜〈支援の現場〉3

前回の〈支援の現場2〉では、共感とアドバイス(指示)のさらに下のほうに、「魂と魂の混じりあい」としか表現できない領域があるとした。話がここまで降りてきてしまうと、どうもミステリアスでマジックな感じになってしまうのだが、まあ仕方がないと僕は思う。
臨床心理の先人たちも、このへんまで来ると、それぞれ独特の言い回しになってくる。僕が知っているだけても、その不思議な感じは河合隼雄やユングに代表されるが、フロイトもなんとなく怪しいし、ラカンも科学きどりではあるが限りなく怪しい。この領域は他の分野もひきつけるらしく、河合隼雄には文学の村上春樹がつながり、フロイトには哲学のドゥルーズやデリダがつながっていく。
村上春樹やデリダやドゥルーズは、その「魂と魂が交じる場所」に惹かれながらも、臨床の現場にやってこないところに彼らなりの倫理を感じる。文学や哲学の領域の中で、人間の無意識と無意識の交流(こんな書き方をするとドゥルーズに叱られるが)を淡々と綴る。僕はそんな彼らに憧れるが、彼らが決して破らなかったその倫理を簡単に踏み越えてしまった。魂と魂が交流する場所にこそ、支援の本質があり、僕はどうしても避けて通ることはできなかった。僕には文学や哲学の才能がまったくないというのも事実なのだが、それと同じくらい、人が人を救うことができる可能性があるその場所を無視して生きることができなかったのだ。

では僕なりにその場所について書いてみよう。見た目は何も起こっていない。ただ、僕とひきこもり青年の二人の人物が会話しているだけだ。会話内容も、悩みの告白でもなんでもなく、ただの雑談であることが多い。そして、その雑談自体は、アニメの内容を二人で振り返っていくというたわいもないもの。
ただ、最近のアニメには、「人の心を底のほうから揺さぶる」ものが時々ある。我々の雑談は、主としてそうした作品を取り上げることが多い。話し合う場面も、はじめはオープニングの絵や声優の話など、あちらにいったりこちらにいったりするものの、徐々にいくつかの重要なシーンに向かっていく。
それはたとえば、『エヴァンゲリオン』24話で、渚カヲルという人物が殺される場面において登場人物たちに何が起こっていたのか、ということについて、ああでもないこうでもないと色々話す。話すのは、圧倒的に僕のほうが多いだろう。この時点でカウンセリング大失格なのだが、これが話…

これは「社会的エコロジー」か? 〜「予防」ではなく 〈支援システム〉2

もうこれ(淡路プラッツのグランドデザイン)を書いてから一年半たったみたいだ。ここでは、淡路プラッツ(というか全国にたくさんある青少年自立支援施設すべてに共有できるだろう)のこれまで/これからの取り組みとして、「早期対応」「自立支援」「予防」の3つがあり、「予防」が課題であると簡単にまとめている。
詳しくは同原稿を参照していただきたいが、早期対応は不登校支援に代表される「問題が起きてからいかに迅速に対応するか」ということを示す。プラッツの支援内容で示すと、大阪市の委託事業である「大阪市不登校児童通所事業」の一部がこれに対応する。不登校支援は子どもの学校からの「卒業」という時間との競争でもあるので、早期対応次第で深刻なひきこもりになることを避けることができる。
自立支援は「生活」と「就労」の2つの自立に分けることができる。プラッツのメニューであれば、フリースペースに定期的に通えたり、そこで料理したり、メンバーたちと出かけたりすることが、「生活」に該当する。その段階を終え、「社会」が射程に入ってきたとき、「トライアルジョブ」といった独自メニューや、大阪府の委託事業である「ニートによるひきこもり雇用支援事業」へと誘う。また、大阪府内に5つもある地域若者サポートステーションに接続していくこともある。この段階が「就労」に該当する。
「早期対応」と「就労」はまだまだ課題はあるものの、なんとか形になっている。だから、その形を微調整していけば、これからもこの2つはなんとかなるだろう。

問題は「予防」だ。この原稿を書いた当時、この予防という言葉というか概念が非常に伝わりにくかったことを鮮明に記憶している。いろいろ誤解も与えたみたいで、その点はすごく反省している。だが当時は、この言葉しか僕には思いつかなかった。
予防という言葉を聞いて、主にふたつの反応があった。ひとつは、同調というか賞賛の言葉だった。それは主として支援者からいただいた。長くひきこもり支援をしている人からは、おそらく長期化するひきこもり支援に疲れたという意味も込めながら「これからは予防だよ!」と言っていただいたし、直接ひきこもりの支援をしていない支援者からも、幼児期・小児期・初期思春期の各段階でいろいろな予防法を考える必要があるということには概ね賛同いただいた。
しかし、予想していたことではあるが、保護者からの反応はよく…

受容とアドバイスのさらに“下”にあるもの 〈支援の現場〉2

支援の仕事をしていて、古くて新しい問題がある。それは、「どこまで受容・共感し、どこから助言・アドバイスするのか」という問題だ。
古典的なカウンセリングの場合、助言・アドバイスはタブーなのだけれども、思春期(現代の思春期は前回も書いたとおり10代から40才頃までと対象年齢が異常に幅広い)相手の場合、単に受容・共感だけしていると、すぐに「飽きられて」しまう。
たとえば河合隼雄さんの本にあるようにはうまくはいかない。こちらがこれはうまく受容できていると思っても、相手は「田中さんと話していてもつまんねー」と言う。この「つまんねー」の裏には、力動もクソもなく、単につまんないのだ。言い換えると、「せっかく会ってやってるんだから、もうちょっと楽しいことしようよ」というメッセージを相手は送っている。
かと思って、こちらが友だちに話すようにして(あるいは仕事仲間に話すようにして)接すると、たくさんの“地雷”がそこには仕掛けられている。不用意に、あるいは友だちに話すように何気なく話していては、一言でいってしまうと、相手を傷つけてしまう。その地雷ポイントは相手によって違う。
けれども、その地雷ポイントをいつまでも恐れていては、思春期(繰り返すが10代〜40代前半と幅広い)の人たちには決して近づけない。

単に「聞く」だけでは、相手は突き放されているように感じることが多いようだ。しかしこれがまた難しく、徹底的に聞かなければいけない時もある。それは、多くの場合、当事者が何かによって激しく傷ついている状態のときだ。けれどもここでもまたややこしいが、その傷ついた人の横でカウンセリングの教科書が教えるようにじっと黙って座っていても、単に時が流れていくだけだ。
時には、教科書が教えるように、放っておいても当事者が流れるように話し始める時もある。そういう時はでも、僕の経験では圧倒的に少ない。往々にして、肝心な話題に触れないままあっという間に時は流れ、最後の最後になって少しだけ話し始めるということになる。偶然にもそのあと時間があれば、人によってはカウンセリングは続いていく。しかし、その時点から1時間はさらに続くものだし、1時間続かせたとしても、満足するのはカウンセラー側になってしまう。よくあるパターンは、お互いに疲れるということだ。
僕の場合は、あきらかに相手が落ち込んでいたとしても、相手が話し始めるまでひたすら待つ…

「思春期」を整理整頓してみると 〈支援の最前線〉1

もはやすっかり文化人となってしまった精神科医の斎藤環さんが、たしか「思春期は終わらない」と題して『月刊少年育成』に寄稿したのは何年前だったか。僕が同誌に連載する前だから、10年以上前になるだろう。
斎藤さんは、当時社会問題化しつつあったひきこもり現象を例にとりつつ、思春期は10代で終わりという時代は過ぎましたよ、これからは20代あるいは30代前半も思春期に含まれますよと警鐘を鳴らしたのであるが、時代は10年経って見事にそのとおりになってしまった。それどころか、40才前後でも気分はまだ思春期という人は珍しくない(ひきこもりに限らない)。
これは日本人全体が高齢化していることと関係していると思うが、ここではそこまで話は広げない。ここでは、年初ということもあって、現代の「思春期」の支援状況をさらっと整理する。
僕は、思春期をL(Low)・M(Middle)・H(high)の3段階に分ける。Lは10代前半、Mは10代後半から20才頃まで、Hは20才頃以上を指す(この区分が常識化しているのであれば、ごめんなさい)。
思春期とは、自我と社会的位置の不安定さのど真ん中にいること、とここではシンプルに定義しよう。従来は、「思春期」と「若者」をイコールでつなぐのはやや無理があったが(「若者」は、自我と社会的不安定さの出口にいることも多いから)、現在は、思春期と若者はかなりリンクする。そして、支援の必要な若い人達は、すべて何らかの意味で「思春期」に属すると言っても過言ではない。
だから、思春期の視点で若者を捉えると、支援する際にも大いに役立つ。

L思春期が直面する現象的課題は、なんといっても不登校だ。不登校は単なる現象にしかすぎないから、その裏には、いじめ・虐待・非行等がある。当事者の状態によって、支援内容は細かく決定される。
H思春期が直面する課題は、社会的自立の問題、言い換えると「就労」の問題がある(大学生の不登校も問題だが、この場合の不登校の課題は、L思春期の不登校と違って、直近に控える就労を見据えて、ということになる)。ここから、ニートやひきこもりの問題が派生する。
M思春期の課題も不登校ということになるが、実は、この層が現在支援システムから最も縁遠い。きつい言葉を用いると、「放置」されている。支援の現場や行政からすると、LとHで手一杯だから、そこまで手がまわらないというのが本音だろう。
また…