受容とアドバイスのさらに“下”にあるもの 〈支援の現場〉2

支援の仕事をしていて、古くて新しい問題がある。それは、「どこまで受容・共感し、どこから助言・アドバイスするのか」という問題だ。
古典的なカウンセリングの場合、助言・アドバイスはタブーなのだけれども、思春期(現代の思春期は前回も書いたとおり10代から40才頃までと対象年齢が異常に幅広い)相手の場合、単に受容・共感だけしていると、すぐに「飽きられて」しまう。
たとえば河合隼雄さんの本にあるようにはうまくはいかない。こちらがこれはうまく受容できていると思っても、相手は「田中さんと話していてもつまんねー」と言う。この「つまんねー」の裏には、力動もクソもなく、単につまんないのだ。言い換えると、「せっかく会ってやってるんだから、もうちょっと楽しいことしようよ」というメッセージを相手は送っている。
かと思って、こちらが友だちに話すようにして(あるいは仕事仲間に話すようにして)接すると、たくさんの“地雷”がそこには仕掛けられている。不用意に、あるいは友だちに話すように何気なく話していては、一言でいってしまうと、相手を傷つけてしまう。その地雷ポイントは相手によって違う。
けれども、その地雷ポイントをいつまでも恐れていては、思春期(繰り返すが10代〜40代前半と幅広い)の人たちには決して近づけない。

単に「聞く」だけでは、相手は突き放されているように感じることが多いようだ。しかしこれがまた難しく、徹底的に聞かなければいけない時もある。それは、多くの場合、当事者が何かによって激しく傷ついている状態のときだ。けれどもここでもまたややこしいが、その傷ついた人の横でカウンセリングの教科書が教えるようにじっと黙って座っていても、単に時が流れていくだけだ。
時には、教科書が教えるように、放っておいても当事者が流れるように話し始める時もある。そういう時はでも、僕の経験では圧倒的に少ない。往々にして、肝心な話題に触れないままあっという間に時は流れ、最後の最後になって少しだけ話し始めるということになる。偶然にもそのあと時間があれば、人によってはカウンセリングは続いていく。しかし、その時点から1時間はさらに続くものだし、1時間続かせたとしても、満足するのはカウンセラー側になってしまう。よくあるパターンは、お互いに疲れるということだ。
僕の場合は、あきらかに相手が落ち込んでいたとしても、相手が話し始めるまでひたすら待つことはしないようにしている。こちらに時間がない(もうこれからはそんなに多くはしないだろうが、多いときで1日6〜7件面談をこなしていた)のも理由だが、話のもっていき方で、案外当事者はすっと話し始めることがあるからだ。

僕は、見た目で相手がすごく落ち込んでいるように見えても、できるだけ明るく相手に話しかけるようにする。かといって軽い話題でもなく、かなり深い話しかけをする。それは、その対象者が抱える悩みにまっすぐ問いかけるものであることが多い。
たとえば、ある特徴的なコミュニケーション(具体例は書かない)で他者との関係がとりにくい場合、その特徴的なコミュニケーションについて問いかけてみる。その特徴的なコミュニケーションのつらさについては、その当事者と僕はそれまでに十分話し込んでいる。僕は、基本的に、他者とコミュニケーションしたいという欲望をもつ人間を尊敬している。そのことを十分伝える。だが、その方法によっては、また時代・文化・慣習によっては、そのコミュニケーション欲望は空回りしてしまう。それは非常に残念だけれども、人間世界にとっては基本的なありようだ。それを世間では「誤解」という。
コミュニケーションの欲望は尊重する。そして、コミュニケーションにはいつも誤解が生じる。このような基本スタンスを僕はもっている。そしてそのことを当事者にできるだけ平易な言葉で時間をかけて伝えるようにする。
そのようなやりとりをふだんから僕はその当事者と日常会話の中で交わしている。そして、相手が落ち込んでいる日、そのようなやりとりのなかの一つの話題を持ち出して聞き始めてみる。たとえその話題が空振りだったとしても、ひたすら沈黙を続け当事者に拷問を強いるようにして会話を待つよりは、振った話題を呼び水として、その日当事者が抱えている悩みが現れ、30分ほど話して徐々に笑顔が現れてきたりする。

たぶん、地雷ポイントのすぐ近くに、その人が話したいこと、あるいはその人がずっと悩んでいることが潜んでいる。それはひたすら待っていてもなかなか出てこない領域だし、かといって乱暴に話しかけても蓋がしめられてしまうエリアだ。そこに達するのはすごく難しい。
僕は、上のコミュニケーション論のように、現代の日常会話ではなかなか出てこない話題・考え方をふだんから平易な言葉で伝えるようにしている。また、そんな小難しい議論ばかりではなく、たとえば自分の職業観・友人観等について、自分に隠された偏見っぽいものにもふれながら話すようにしている。そして、当事者たちにアドバイスしてもらったりする。そんなアドバイスが案外役に立ったりするのだ。
受容かアドバイスか、という二者択一ではなく、ふだんからフランクに接する。まあフランクというよりは、お互いの魂と魂で接するといったほうが近いかもしれないと僕は思う。それを前提にした上での、受容でありアドバイスだ。

※当連載は、「支援の現場」や「支援の対象」や「支援システムのシステム」といったいくつかのサブタイトルをつけながら、毎週いったりきたりします。

※田中の近況
僕の病気については、右欄をご参照ください。
先日、リハビリがわりに雑誌の取材を受けてみた。スタッフに手伝ってもらいながらも、何とか1時間の取材をこなすことができた(僕の場合、身体的後遺症はないのだが、疲れやすい・血圧がすぐに上がってぼぉーっとする等の症状がある)。なんとかやっていけるかもしれないと、少し自信になった。



※田中俊英 たなかとしひで
編集者、不登校児へのボランティア活動をへて、 96年より不登校の子どもへの訪問支援を始める。00年淡路プラッツスタッフ、02年同施設がNPO法人取得に伴い、代表に就任。03年、大阪大学大学院文学研究科博士前期課程(臨床哲学)修了。著書に『「ひきこもり」から家族を考える』(岩波ブックレット739)、主な共著に『「待つ」をやめるとき〜「社会的ひきこもり」への視線』(さいろ社、05年)、主な論文に「青少年支援のベースステーション」(『いまを読む』人文書院、07年)等。