棺 〈病気のあとで〉3

首相は4月になって復興を唱え、テレビでは復興に向けてのいろいろな活動が報告されている。復興は喜ばしいことだが、一方では、自衛隊が今日も30数体の遺体を発見したと報じられている。自衛隊その他のみなさんの活動は本当にたいへんだ。それよりも、遺族のみなさんの悲しみを想像すると、どうもまだまだ復興に気持ちがまっすぐに向かっていけない、というのはたぶん僕だけではないだろう。
でも何よりも、突然命を奪われた方々のことを想像する。

僕は脳出血で倒れたあと、10日ほどの記憶がない。その間、どうやら僕の意識は清明だったらしく、病院内で普通にしゃべっていたという。仕事のこの先の計画について、日本の少子化社会について、熱く熱く看護師さんたちに語っていたそうだ。
そういうのを聞くと、今までの僕の熱い仕事ぶりは何も無理していたわけではなくあくまでも地であって、ものごとに対するポジティブな接し方も哲学を学んで無理やり会得したわけではなくて自分の性格的なものだったんだなあと納得してしまう。何しろ意識でコントロールしていたわけでもないのに、この社会をいかによく変えていくかということを本気で論じているんだから。まあ、それが性格でよかったなあということと、それを現実化させるための能力を有しているかどうかは別の話。たぶん、そうした能力は僕にはあまりない。

意識が回復したあと、人間を見る目が変わったような気がする。まだうまく言えないのだが、街を歩いていても、一人ひとりの存在感をあまり感じない。
いや、病気以前であれば、一人ひとりの仕草や言葉、視線、ふるまい等を自然とチェックしていた。それはカウンセラーとしての職業病だったかもしれない。一人ひとりのそうした動きを察知することで、内面を探ろうとしていた。
でも今は、一人ひとりが猫のように見えてしまう。いや猫でなくてもよく、犬でもいい。あるいはペンギンでもいいし、何かの花でもいい。猫にしろ桜にしろ何らかの生命的内動性はあるにしろ、その内動性の詳しい中身にはあまり関心がない。いや、そこに関心を寄せるのは猫に失礼かもしれないと思っている(仕事の場合は当然別で、きちんと寄り添います)。その生命体を動かす何らかの駆動組織があって、それにより生命体によって決まった寿命を生きている、そのほうが僕には重要で、そのことを無条件に尊重してしまう。
以前の僕であればこれを単に、エゴ以前の生命欲動の尊重みたいな感じでかっこよく短縮していたのだろうが、実はそういうのでもないような気がしている。だからこうしてだらだら書いてしまう。

猫も人間も同じように生きており、同じように死んでいく。死んだあとはどうなるかはわからない。その魂の問題はわからないけれど、死んでいく過程は同じだ。飼い猫のトロオは、死期を悟ると僕の布団の上では寝ず、どんなにこちらに連れてきても台所の隅へと這っていき、最後は胃の中のものをすべて吐いて死んでしまった。僕が朝方起きたときは、上半身は冷たかったけれども、下半身はまだ暖かかった。あんな場合、魂はどうなっているんだろう。今の僕は、そこまで考えないようにしている。またそれに対して、日本の死への教育のなさとか宗教文化の貧弱さといったことも考えないようにしている。
なぜなら、トロオと変りない生命体である僕は、ラッキーなことに脳出血を生き抜き、まだしばらくの間生命体として活動できそうだからだ。生命体としての活動は、健康な人にはわからないと思うけれども(僕もまったくわからなかった)、たくさんの生命活動ができる層をいくつも積み重ねていって初めてそれが可能になる。僕は術後半年たってやっとその活動可能な入口に戻ってきた。

死は常にそこにあるけれども、せっかく入口に戻ってきたのだから、死を考えない時間を楽しもうとしている。それが今の僕かな。
死があるからこそ生が可能になると、デリダが『声と現象』の最後のほうでやかましいほど繰り返していたが、あの頃デリダは大病でもしたのかしら。その本は難しくてきちんとわからなかったが、さすがにそれだけ繰り返されると頭に残っている。死があるからこそ生が可能になる。

そしてその生の価値は、どんな人でもそれほど大差はない。どんな生物でも、とでも言い直そうか。トロオも桜もデリダも同じ意味で、生きている間、生きている。だからその生が終わった時は、同じような価値と意味で、死ぬ。
テレビで、日本のテレビには珍しく、時々震災で亡くなった人の棺が映しだされる。その中には土葬される予定の遺体が入っている。どれだけその人が生ききり、死んでいったかは僕にはわからないし、わかろうとすることが失礼だ。遺体と棺と、それを覆う土が今起こっていることで、僕はそこを考えるから、まだ復興のことは語ることができない。
桜と棺とトロオと今の僕と将来の死んでいく僕はいずれもつながっており、だからこそ日々を楽しもうということになるのだが、まあ僕は本当に運がよかった。
あらためて、哀悼の意を表します。★