「魔女」ではなく「障害」


■会話が妨げられない

僕は発達障害の人と話すのがすごく好きだ。
これは単に趣味の話をするのが好きということだ。アスペルガー系の人は堂々と自分の趣味を教えてくれるし、軽度の知的の人やADHDの人はいくぶん恥じらいながらもふだんは隠している自分の趣味を教えてくれる。いずれも博識で、特にアスペルガー系の人の知識はいつも必ず感心させられるほどの量と深さだ。

僕も実は彼らに負けず劣らずの知識はあるつもりで、わりと細かいことに関して謎を抱えたりしている。
たとえば、エヴァンゲリオン世界にとっての「月」の意味について、あれはイコール「死」を象徴していると思うのだが、おもしろいことに僕のそうした疑問と発達障害の人が抱える関心は一度も重なったことがない。けれども我々の話は、たぶん盛り上がっている。

「エヴァQ」のプロモ


おそらくそこには、会話を妨げるもの——説教・諭し・話題転換——がないからだろう。
ある意味「おばちゃんの会話」と同じで、お互いがお互いのしゃべりたいことを話していて、噛み合うことをあまり求めていない。
まあまったく噛み合わなければやはり会話は成り立たないものの、極端な話、お互いが笑って頷きあうことができれば、満足できる会話コミュニケーションが成り立っている。

■友達を求めている

アスペルガーの人の会話は「データ」中心で、おたくの人の会話は「テーマ」中心だから、このふたつは似ているようで違うんですよーと、倒れる前に僕は講演でよく説明していたが、まあ、会話によって関係を深めることをそれほど求めていないという点ではあまり変りない。
ここでは、互いの「関係」は二次的なものとなっていて、データやテーマを伝達することが中心だ。

そういえば、僕は大学生の頃、文芸部という超マイナーで僕にとっては超楽しかったクラブに入っていたが、あそこでの会話もそのようなものだった。
延々志賀直哉について話す人がいたり延々筒井康隆について話す人がいたり。僕自身は、孤独だった高校時代を埋めるような勢いで、延々サリンジャーについて語っていた(恥ずかしい……)。

でも、発達障害の人は「友だち」を求めている。データの話の先にいつか出会うであろう友だちを夢見ていることは確かだ。その思いは端から見ていても切ないほど。

僕などは、データを伝えることができる人がいるだけで、まあそれを友だちとして割りきってしまえばいいと思うのだが、そうもいかないみたいだ。そのあたりは、世間で流通している漫画やドラマの影響を受けているのかどうか知らないが、「深い」人間関係を求め、孤立している。

■「障害」で摩擦を緩和させる時代

現在話題になっている発達障害は、現代日本社会にとっての発達障害という意味で、その時その時の社会のありようとは無関係に「障害」となる身体障害や知的障害(軽度除く)とは違う。

社会との関係性の上で障害になっているという意味では、やはり精神障害と似ている。
フーコーの著作をがんばって読まずとも、たとえば統合失調症(精神分裂病)は、時代や社会によって意味付けが異なる、なんてことは少し想像力を働かせればわかることだ。

現代は、個人の特徴が社会との間で摩擦を生むとき、「障害」という言葉でその摩擦を緩和させようとする手法を持った時代なのだ。「霊媒師」とか「魔女」では摩擦は緩和できない。

「障害」「障碍」「障がい」、微妙に表現をくふうしながらも、「ショウガイ」はとりあえずコンフリクトを緩和する。
僕は、そんな時代の支援者なのだから、その流れに乗って当事者が少しでも楽になることができるのであれば、「魔女」ではなく「障害」という言葉を受け入れる。何より、当事者たちがその言葉によって楽になっている。

■「変な大人」だらけだった70年代

これはいつもの定義論。
僕の不思議は、僕との二者コミュニケーションではあれだけ盛り上がるのに、なぜ3人以上になると彼/彼女は沈黙がちになるのか、ということだ。

最近の僕の結論は、現代の会話では、一定の話題の深まりと会話内容の統一感が求められ、みんなでそうした会話行為を共有するという規範が働いているということだ。
そして、アスペルガー的「オレオレ会話」は敬遠されることになるのであるが、敬遠された時点で敬遠されたアスペルガー君/さんが孤独になってしまうというのも現代の特徴だろう。
その敬遠された人に近寄って、「オレオレ会話」の続きを聞きたいという人も、実は敬遠される。話下手な人なんかは、「オレオレ会話」の人が横にいるだけで楽になるかもしれないのに。

こう考えると、発達障害というものは、実に現代日本的なものだと思えてくる。自己主張が規範にある欧米では、アスペルガーの人はどういう点で困っているのだろう。今は調べる気力がないが、ぼちぼち専門家に聞いていくことにしよう。

今のところは、「オレオレ会話」する人はそういう「キャラ」だということで、現代日本的「場」に受け入れてもらうしかない(そのためにも受け入れ可能なルールをつくる)。僕としての希望は、そうした「場」をつくりだしている成員一人ひとりが、そうした「場」をつくりだしているのは自分たちであり、そしてこの現代日本であり、そしてこの現代日本はやがて「次の現代日本」パラダイムへとシフトしていくということを自覚してくれたらなあ、ということだ。

今の日本は、有史以来最強の「和」を重んじる時代ではないかと僕は疑っている。僕が記憶する近いところでも、70年代はずっとずっといい加減だった(今でいう「変な大人」だらけだった)。
明治とか、近代以前の(「自我」が発明される以前の)江戸とか、もっと遡ってたとえば室町とか、実はこんな「和」社会では実はなかったのではないか。★