「海外旅行」は、スモールステップ理論確立のための過程だった① 〈支援の最前線〉6

以前も書いたかもしれないが、僕がプラッツのスタッフになったのは00年5月で、プラッツ初代名物塾長の蓮井学さんが亡くなってすぐあとだ。その蓮井さんが亡くなる前後のエピソードや亡くなる前の僕が知っているだけのエピソードを綴るだけで本が3冊くらい書けてしまうだろうが、今回は触れない。
これも以前に書いたように90年代の僕は基本的に「さいろ社」という個人出版社の社員だった(90年代中頃からフリー、後半は支援者として独立)。でもあれはなぜだったのか理由もすでに忘れてしまったものの、淡路プラッツが「淡路プラッツ」として名前を持ち、現在の建物に入居したことを記念する宴会に僕は出席している。93年か94年初頭だったと思う。あのとき、宴会の中心に蓮井さんがどんと座ってビールを飲み、そのまわりを今は沖縄に帰って仕事をしているプラッツ3代目塾長のK君(当時はボランティア。しかし初代とか3代目とかスゴイです。ちなみに2代目はNPO育て上げネットスタッフI君)ほかの若いスタッフたちがバタバタとお手伝いしていた。
そんな宴会の賑わいの中で「淡路プラッツ」という名前が決まったのだった。プレースとかプラースとか、英語やフランス語(これはどうだったかな)の候補が並ぶ中、ドイツ語のプラッツが正式名として決定したのであった。確か出席者がみんな酔っ払いながら、ふらふら手をあげつつ多数決で決まった名前だ。僕もふらふらとプラッツに手を挙げた。理由は、何となくプラッツは語感として歯切れがいい、ただ単にそれだけだった。

90年代は、そんな感じで僕は外からプラッツを見ていた。一か月に一度程度蓮井さんに呼び出されて徹夜の飲み会に参加したり、さいろ社の取材や僕の個人ミニコミの取材なんかでいろいろ話を聞かせてもらった。それらの会話のなかで、徐々に「子どもが動き始めるまで『待つ』ことは現実に可能なのか」といった議論が練り上げられていったことは今でもよく覚えている。
僕は僕でわりと忙しい日々を送っており、蓮井さんやプラッツのことはどちらかというと優先順位は低かった。でも時々そうした機会を通して会う中で、「プラッツというところは海外旅行が好きな団体なのだなあ」という印象を持つようになった。
蓮井さんはとにかく、会うたびにどこかに旅行していた。韓国、香港、台湾、ニュージーランド。そしてそのたびごとにおもしろい話題を提供してくれた。ニュージーランドでは若者にスカイダイビングをやらせたいと思ったのだが若者だけでは無理だろうから自分も仕方なく(たぶん酔っ払って)飛んだとか、韓国ではこんなことがあった、香港では……と、まあ挙げたらきりがないほどたくさんのエピソードがある。

僕ははじめ、蓮井さんがあまりに楽しそうに話すものだから、「このオヤジ、仕事にカッコつけて遊びやがって」と内心呆れるというか羨ましいというか、微妙な感情を抱いていた。それは実は、蓮井さんだけにではなく、他の不登校支援者にも抱いた感情だった。今は四国で臨床心理士をしているSさんという人もそうした「遊び」というか「レク支援」のプロだったが、彼が不登校の少年たちとキャンプに行った話などを聞くたびに、「こいつ、仕事にカッコつけて遊びやがって」と思っていた(ゴメン、Sさん)。
90年代は、そのような、「大人が思いっ切り遊べば、不登校の子の心も開かれる」というような牧歌的なムードは確かにあった。それで当時の不登校の子どもの何割かは確かに元気になっていった。

だから、そうした遊びの意味、また、その集大成としての「海外旅行」の意味付けは後回しにされていたと思う。また、蓮井さんにしろSさんにしろ、あまりに魅力的な人たちだった。あの蓮井さんが、あのニュージーランドまで、あのスカイダイビングをしに子どもを連れていくのだから、子どもはやっぱり元気になるだろうといったあたりで意味付けは終了していた。★(書きながら結構重要なテーマだと気づいたので、何回かに分けることにします)