涼宮ハルヒはおたくとは別世界にいる

僕は退院後、すっかり新聞の価値を見なおしてしまって、駅で毎日買っている。将来、雑誌は消滅するだろうが、新聞は一定部数を維持すると思う。あのサイズと料金的な手軽さから、どこからでも好きな記事を読める新聞は、もしかして今、もっとも「デジタル」なメディアではないかと思っている。結局、メディアの元祖が最もデジタル的だったのではないかということ。

で、昨日日曜の朝日新聞書評欄を呼んでいると、出たばかりの『涼宮ハルヒ』シリーズ最新刊がなんともういきなり100万部を超えたと紹介されていた。当然僕も、発売日に即購入している。しかしいきなり100万部はすごい。あの赤面ものの水嶋ヒロ『kagerou』以来のスピードではないか。
内容は、僕はまだ50ページくらいしか読んでいないが、なんか難しい。何才か知らないがたぶん若くして大金持ちになった作者は、きちんとSFに向かい始めたのかもしれない。だが基本設定がライトノベル読者向けにできた物語なので、どんなにSF具合を凝ったとしても無理がある。半病人の僕には文庫本の字も小さすぎてつらく、途中でほったらかしたままだ。

以前どこかで書いたが、涼宮ハルヒシリーズはアニメも含めて、直接おたく(もちろん日本のオタクの何割かはひきこもり・ニートだ)の“萌え”心に訴えかけはしない。“萌え”を含むアニメカルチャーのさまざまな概念(ネコミミとかも入れてしまおう)にどっぷり浸っている消費者(つまりはひきこもり・ニートを含むおたくという巨大市場)の心をどうすればキャッチできるか、ということが物語を進めていく動力でもある。
ハルヒが会長を務めるSOS団のテーマは実は、「会員を増やしたいけど、勧誘は失敗し続ける」ということにある。「会員を増やしたい」→「そのためには主力客層であるおたくを狙う」→「そのためには現役女子会員にメイド姿をさせる」→「メイド現役会員とともに勧誘にハルヒ会長は出かける」→「勧誘はなぜか失敗」→「元の5人におさまる」というこを“エンドレス”に続けているというのがこの物語の骨子でもある(問題作に「エンドレスエイト」というタイトルの回もあった)。

なぜ失敗するかというと、ハルヒがキョンという語り手男子学生を好きだからであって、ハルヒは口で「勧誘」と言いながら行動ではいつもキョンといっしょにいたい。そのツンデレぶりはまさにおたく向けの物語かもしれないが、ハルヒや他の現役女子会員が勧誘のためにバニーちゃんになるなど、ある意味おたくの精神的領域を穢している。バニーちゃんやネコミミは、勧誘のためになるものではない。その世界になりきるために自己をいったん脱ぎ捨てるための行為だと、たぶん、本物のネコミミちゃんたちはこんなことは言わないけれども、このようなことは心の核で思っていることだろう。
つまり、コスプレとは、「メタレベル」(こうすればウケるだろうと狙ってするもの)で行なうものはなく、まさにその世界そのものに自らを「投企」するものなのだ。ある意味かぎりなく実存的行為なわけです、コスプレであり、おたくとは。

だが、ハルヒは平気で勧誘のためにメタレベル的行為としてコスプレしてしまう。こうした行為が三人称描写の中で批判されることなく毎回行なわれるというこの作品は、純粋なおたく(ひきこもり・ニート)向け作品ではない。おたくの行動様式をかなりクールに分析された上で成り立っているのがこの作品だとも言えるだろう。

で、前回の当ブログでも抱いた疑問がここでも浮上する。自分たちの世界に向けてあるいは自分たちの世界そのものの作品・タレントであると見せかけながら、実は別世界に立ってモノを売りまくっているハルヒやAKBを、なぜおたくは(そしてひきこもり・ニートは)支持するのか、と。
僕はやはり、日本のおたくはやさしい人達なんだと思います。やさしいというか、寛容というか。たぶん僕も寛容なんでしょう。★