いくつものラインと、「自由」 『ライン』エピソード5〜10長岡秀貴著/HID BOOKS 〈書評〉

最近体調もかなり復活し始め、あいかわらず夕方近くには脳はぼんやりするものの、そのぼんやりがやってくるまでの時間が、1ヶ月前と比べてもだいぶ引き伸ばせるようになってきた。脳の回転具合も、血圧上昇のためのそのぼんやりさがやってくるまでは、以前のようにデュアルコアプロセッサのように働き始めている。
それで調子に乗り病気が再発しては仕方がないので、スタッフには甘えつつ早めの退社をしているのだが、やはりハイテンション気質は変えようもないというか、表現を変えると高血圧気質はどうしても変えようもなく、体調が大丈夫なうちは張り切ってしまう。
たとえば昨日などは、ピンチヒッターで僕が「スモールステップセミナー」の講師(の一人)を引き受けたのだが、目の前に困っている親御さんが10人もいらっしゃると、どうしても熱く語ってしまう。
たとえば一昨日などは、今度茨木市でオープンする「セカンドプラッツ」のネットワーク機関顔合わせ会のようなものがあったのだが、そこでもやはり張り切ってスピーチしてしまった。
以前からその傾向はあったものの、病気のあとは特に、「自分が必要とされていれば、自分を必要としている人たちに尽くす」というのが顕著になってきた。いろいろ本を読んでいると、大病のあと人は誰もがそうなるようだ。

そんな日常が始まったせいか、「隔日刊」と銘打ちつつも早くも「週2刊」に戻りつつある当ブログであるが、前回取り上げた長岡さんの新刊『ライン』をやっと読み終えたので簡単に書評しておこう。
前回のエピソード1〜4もよかったが、今回の5〜10もいい。僕は超早起きということもあって実はさっき読み終えたのだけど、涼しい朝の風を感じつつ、時々は爆笑しながらも何度もジーンときてしまった。これはファンが増えるのもわかる。長岡さんはとても魅力的な人なのだ。
前回書いたとおりこれまで氏は2冊本を出版している。僕は未読だが、それらは自叙伝的なものだという。本書にもエピソード9の入院話の中に、少しだけ16才の頃の大病の思い出が綴られている。そうか長岡さんも若い時から大病しているんだ、だからこそ、これほどの支援に対する迫力が生まれてくるんだ、と自分の病気をまたもや振り返りながらしみじみ僕は思い至った。
死との境界(ライン)に接して初めて沸き上がってくる、“他”とのつながり。無理してエゴを捨てるというわけでもなく、無理して他者に入っていくというのでもない。“他”としかいいようのない自分以外のすべてがとりあえずは自分よりはるか以前からあり、というかこの世界はそうした“他”で満たされたものであって、そう考える自分も“他”の地盤の上で成り立っているという実感。
レヴィナスもデリダも必要はなく、ただ「死」に接した者が直感的になぜだかそのことをつかみ、そしてこちら側に持って帰ってくるその実感。その実感を長岡さんも持って帰ってきたんだなあと、他の2冊もまだ読んでいないのに僕はしみじみしてしまった。

ラインは本書ではどちらかというと「親も含む当事者が越える“線”」のことを示しているように思われるが、それは人と人をつなぐ線でもあると思う。エピソード5・6は、ひきこもりと非行(この言葉は軽すぎるが)というまったく別の現象を綴った章ではあるが、子どもや保護者と氏がつながったり離れたりするさまは、まさにそこに一本の線を感じる。
その線は、氏と子ども・親が物理的に離れたあとも見えない線として繋がり続ける。それは長岡さんの片想いのようなものかもしれないが、それもまた支援であると最近の僕は思ったりもする。だから、物理的別れから数年たったあと子どもから電話がかかってきたときに、なぜか氏はいつもは出ないそうした電話に何気なく出たりするのだ。

支援とは、いつのまにかそうした“ライン”ぎりぎりのところで展開されるエピソードになっていくことも多い。僕も、これは支援なのか濃密な人間関係なのか、それとも「転移/逆転移」なのか、わけわからん、とつぶやいたことも病気前は度々あった。そんなとき、支援者というラインを踏み越え、子どもや保護者の側に自分はいるときもある。
病気をする前は僕はそういうのをどう捉えればわからなかったが、今は、どっちでもいいと思うようになった。それがどういう名称で理論化できる関係だろうが、結局は「自由」になった者の勝ち、だ。
長岡さんは働く目的について、「自由になるためだ」と即答するが(p242)、僕はまったくその通りだと思うと同時に、支援/被支援の結果、そこにいる者たちが支援/被支援の関係が生じる前よりも「自由」になればいい、とも思う。
プラッツのスタッフや親御さんに怒られるかもしれないが、自由は自立よりも大事だと思うのだ(自立の結果として自由になるのではあるが)。

長岡さんは泣き虫だ。子ども・若者・保護者の前でよく泣く。僕も面談中時々ほろりとするけれども、氏の態度を見習わなければいけない。自由になるためには、子どもや若者や親の前で、まずは泣いたり笑ったりしなければいけない。★