システムを自力ではつくれないこの国 〈社会〉

おかげさまで、今月書いたいくつかの書評が評判がよく、いろいろな人に評価していただいた。書評の評判がいいということは、つまりはその元になっている本(工藤さんや長岡さんの本)が非常によく書けており、かつタイムリーだったということだ。
この前は、僕の地元(兵庫県)の紀伊国屋のビジネス書欄で、工藤本が平積みになっていた。表紙のあの写真に微笑みかけられたので微妙に恥ずかしかったが、両書とも今時代が求めている本だということは確かだろう。

昨日は傷病手当中の休みの日で、久しぶりにブログのことも何も考えずに梅田に行って買い物してきた。身体がだんだん元気になってくるとやはり以前の習慣が復活してくるもので、なんやかやいっても80年代が心の故郷である僕は、コムデギャルソンのTシャツを買ってしまうのであった。
ギャルソンも、川久保玲が引退しまうと、あとはどうなるんだろ。「my energy comes from  freedom」と堂々と書かれたTシャツを、川久保玲引退後も作れるんだろうか。

そのfreedomTシャツではなくて、もっと変なTシャツを昨日は買ってそれを着て今日はプラッツに出勤しているわけだが、今日も書評は書かない(一昨日の長岡さん講演で買った『ダッセン』は読んでますが)。今日もだらだら日記です。

昨日かな、朝日新聞を読んでたら「生活保護」の特集をしており、平松大阪市長をはじめとする三人のそれぞれの意見が載っていた。生活保護もそうだが、障害者年金も含めて、多くの若者の生き方(経済的成り立ちといったほうがいいか)は、そうした公的システムと、ある程度の自助努力を組み合わせた上で、それぞれがそれぞれなりに経済的になんとか維持していくという方向にシフトしていくだろう。
たとえば、障害者年金で何万円、アルバイトで何万円、親からの(ないしょの)仕送りで何万円、計15万円、といった具合だ。これを、生活保護何万円、アルバイト何万円、親の(ないしょの)お小遣い何万円、計13万円と言い換えてもいい。
いずれも所得としてはかなり低いが、非正規雇用労働のみで月収13万円の人も現在別に珍しくないから、ライフスタイルとしては最低限の収入ではあるが、なんとか食べてはいける。だが、超高齢化社会の社会システム維持を考えたとき、生活保護や障害者年金はたしか国民年金支払いが免除になったはずだから、これらが増えすぎると国全体は痩せ細る。

だから、生活保護や障害者年金を収入の柱にする若者が増えすぎてしまうと、社会全体がやせ衰えてしまうので、やはり働ける人はそれなりのペースで働いたほうが、社会全体がやせることを防ぐことができる。
そうなると、公的扶助だけではなく、また正社員のようなリジッドなシステムでもなく、もっといくつもの自助努力が絡んだ収入システムを組み合わせていく必要がある。現在巷で言われる「中間労働」とは、それらに向けての提言だと僕は解釈している。
ここには、有償ボランティアも含まれるだろう。とにかく、僕らの国は、新しいシステムを生み出すことが極端に苦手な国だ。新しいシステムは、知識人が知識人村の中で提言し観念的に実践しやがて潰れていくのが常だ(地域貨幣とか)。

とにかく僕らの国は新しいシステムは自力では作れない。それを前提として始めるしか仕方がない。
そうなると、生活保護・障害者年金、有償ボランティア、非正規雇用、契約社員、これら今ある制度を上手に組み合わせた「中間的生き方」を産み出していくしかない。そして、親世代=団塊世代にはみんなできるだけ長生きしてもらって、超高齢化社会の恩恵を自分たちだけではなく子ども世代もできるだけ長く享受していくということも欠かせない。
そのためには当然、働けるものはそれぞれのペースで働き、それが中間労働といわれようがどうよばれようが、とにかく年金を支払える者は支払う。年金システムは、たとえば第三次世界大戦が始まって終わってまた根本的にゼロにならない限りは、この国ではおそらく根本的には変わらない。今あるシステムに上乗せしていくしかないのだ。
それは声高に叫んで始めるものでもなく、我々支援者が、できるところから始めていくしかないと僕は思う。★