なぜ「子ども」か② 〈東日本大震災と我々〉

前回このタイトルをつけた理由は、今回の原発事故に際して子どもの健康や命が第一に守られてようとしているが、あまりに子どもが突出しているように感じられ、子ども以外のマイノリティ(たとえば超高齢者・認知症高齢者・障害者等)の健康や命と順列をつけているようだがそれでいいのか、ということを、やんわりと述べるつもりだった。
だが、僕の脳は血圧でやはりぼんやりしており、子どもが放射能に関して大人の何倍も感受性が高いということがその第一の理由であることにあとで気がついた。また、子どもは放射能に関して知識をもつことができないから不利、という理由があることも知った(この点は極度の認知症や知的障害も当てはまるが)。

僕はつまりは、子どもを守るというその議論の裏には、あからさまに「この国をつくり維持する次世代だけは保護する」という動機があるのではないか、あるのだとすれば、それは悪いことではないのだから、「この国の将来を担ってくれる子どもたちをまずは守ろう」と直球でPRしてほしい、と言いたかったのだと思う。
30年、50年先を考えて政策を進めるのが政治であり行政なのだから、それはまったくわるくはない。わるいどころか、では、その子どもたちが大人になる頃の将来の「この国のかたち」をどうすることがベターなのか、という議論にも直結する。
そうした重要な議論がもしも「子どもたちを守ろう!」提言の裏にあるのであれば、むしろそれを全面に出し、「〜のような国になる日本を将来支える子どもたちをまず守ろう」と、直球でPRしてほしいのだ。

そうすることで、社会的弱者として守る必要のある超高齢者や障害者との区別もできる。守られる意味がはっきりすれば、守る側の社会にも混乱は起きない。超高齢者や障害者は福祉のため、子どもは将来の日本国家のため、と守る意味を明言すれば、2ちゃんねるあたりのくだらない逆差別議論のようなものは防げるのではないかと、まあこんなはっきりとした物言いではないにしろ、このようなことを今回は書くつもりだった。

でも、単に(といったら子どもに失礼だが)、子どもは放射能に対する感受性が高いから守ろう、という話だったのですね。それは当然そうすべきだから、それ以上まわりが言うこともない。

けれども、あと10年もすれば今の子どもは20代になる。福島第一原発周辺はものすごく奇妙な原始林になっているかもしれない。あと20年すれば、今の子どもは親になり(一人世帯も今より減りはしないだろうが、親になる人はなるだろう)、福島第一原発周辺はさらに奇妙な原始林になっている。あと30年すれば(その頃僕はもう死んでいる)、今の子どもは社会を支える中核になり、福島第一原発原始林はそれほど変化なく封印されたなか放射能を出し続けているだろう。
あと50年たてば今のこどもは老人になり、そろそろ順番に病気を患い始める頃だが、福島第一原発のメルトダウンした原子炉は変わりなく何かの問題を抱えているだろう。チェルノブイリが今もそう変化ないのと同じことが、確実に福島周辺でこれから先何十年も何百年も続いていく。

僕は自分が大病をし死に近いところまで行ったせいか、このような想像をすぐにしてしまう。そしてこの想像はそれほど外れないと思う。メディアや地元以外はすぐに忘れたり隠蔽するだろうが、地元は忘れようがないし、僕のような一部の人間は福島のことを考え続けるだろう。

そうした国に日本はなった。だから、子どもたちの議論をきっかけに、これからのこの国のかたちを真剣に話し合っていかなければいけない。今回の事故と地震で「戦後」は確実に終わった。
でも、思いやり深いこの国は、その思いやり深さのために、話し合いでシステムをつくるということが恐ろしく苦手だ。僕はこんな思いやり深いこの社会が超苦手だけれども(理性的な僕の物言いは人々の中にはなかなか溶け込めない)、血圧に注意しながらも必要とされることには取り組んでいきたい。

なーんて、結局熱く書いてしまいました。★