2011年8月10日水曜日

「決断主義」と若者  『リトルピープルの時代』序〜2.2章 宇野常寛/幻冬舎


■「決断主義」とは

最近当ブログは読者数的にも好調で、今回も前回のような「現場で使える」ネタにしたかったのだけど、で、実際使えるネタになると思っていたのだけど、残念ながら超マニアックなネタになってしまった。その「マニアックさ」=現実感のなさについてなら、本書を取り上げる意味があるかもしれない……。

今回取り上げた本と同じ著者が書いた『ゼロ年代の想像力』(早川書房)は、「セカイ系」と「決断主義」の対比で有名になった。僕も時々拡大解釈して引用させてもらっているが、セカイ系とは、『エヴァンゲリオン』に代表される「“僕”の半径数メートルの悩みを、セカイ的危機と戦うことで乗り越える」(より拡大解釈したかな?)というようなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。

「決断主義」とは、「そんな“セカイ”みたいな大きなものはすでにないのだから、半径数メートルで常に起こるさまざまな出来事をその都度“決断”して乗り越えよう」みたいな、これまた超拡大解釈かもしれないが、まあそんなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。『バトルロワイヤル』とか『ガンツ』などがこれに入る。
「決断主義」の説明はこの本の前著



■ひきこもりと「セカイ系」

僕は一時期、ひきこもりとは、この「セカイ系」的思考を背景にもつ人達だと考えていた。
『エヴァ』の主人公シンジは、映画版最終回で結局何も決断できず何も行動しない。
「自分のまわりにある“セカイ”はすべて自分の敵、というか自分のことをわかってくれない存在だから(自分は本気を出せばエヴァに乗れるのに)引きこもろう」という何もしないシンジが、まるで僕が日常的にかかわっていたひきこもり青年たちと同じ思考をしていたからだ。

実は僕自身にもそのような思考は流れており、だから告白すると、ひきこもり支援は僕にとってそれほど「仕事」ではない。仕事というよりも、何というか、“同志”支援のような感じだったのだ。僕がもし今20才で時代や社会が00年代以降であれば、僕はたぶんひきこもっただろうという意味で。

「決断主義」にはもう一つピンとこなかったものの、自分の青少年支援仕事と重ねあわせて短絡的に、「つまりは半径数メートルの世界でいいから、自分にできることをしろということね」と勝手に拡大解釈し(これはマジで拡大解釈だ)、「“外部”に敵はすでにおらずすべては“内部”になったみたいだから、まあとりあえずできることからやるか」みたいなノリで、僕は青年の自立支援を堂々とすることにした。

実は僕が、支援理論的な面はさておき思想的な面で堂々と自立支援することにしたのは、「決断主義」のおかげではなくデリダやドゥルーズのおかげなのだが(そして前々回書いた鷲田先生のところの「臨床哲学」教室での議論や論文執筆のおかげなのだが)、まあそれはいいか。どちらにしろ、宇野氏の『ゼロ年代の想像力』は、00年代の文系議論に何らかの影響力を与えたことは間違いない。

■痛い本

そんな氏の新刊が本書で、僕はとりあえず3分の1くらい読んでみた。幻冬舎(メジャーどころという意味)からの刊行で、新聞にも大きな広告が載っていたので超期待していたのだけど……。1部は村上春樹論、2部はそれを受けてのサブカルチャー論。

「……」がついていることからおわかりのとおり、今のところこの本は、僕にとって超「痛い」。基本的に本には“魂”が宿っているような気がしていて僕は短絡的に批判したくないのだけど、珍しくその誘惑にかられそうだ。かといってデリダのように、細部を読み込んで結局は自分の議論にすり替えていくという技を出す気力も出てこない。

何となくこの本は、80年代から延々と続いてきた「現代思想」の流れが、進化の行き止まりにたどり着いた代表的なものになるような気がする。引用論文も(たぶん、あえてだろうが)ほとんどなく、思想的背景あるいは思想的根拠のようなものも東浩紀氏(思想家/社会学者/オタク評論家)くらい。

いや、引用論文なんてのもどうでもよく、僕が今のところ同書に入り込めていない理由はただひとつ、この本は、「東日本大震災」以降に出版されたにもかかわらず、思想や哲学として、「死」や「原発事故」にまったく触れていないからだ(今読んでいるのは、2.2章までです)。
別に東日本大震災のルポルタージュを書けと言っているのではなく、また、出版時期からしてほとんどの文章は震災以前に書かれたものだろうから書きなおせと言っているのでもなく、本書のような「時代の切り取り方」が現代の人々と世界が抱える問題とはかけ離れてしまったのではないかと僕は思っている。

■1Q84に続編はない

「世界/壁/ビッグブラザー/大きなもの」から「決断する個人/卵/リトルピープル/小さなもの」へ、という世界の切り取り方は、果たして我々にとってリアリティがあるのか? 序章ではそれらは福島にもつながると予告しているから僕は悩みを解くようにして読み進めているが、今のところそれは現れていない。

たかだか数十年単位の、それも西欧世界の一部(戦後日本も入る)に限定された問題設定(セカイ系・ビッグブラザー/決断主義・リトルピープル)と、時間を超越した問題設定(死・永久事故)を比べると、優先順位は明らかだ。僕は、宇野氏の予測とは異なり、村上春樹は『1Q84』の続編は書かないと思う。リトルピープルよりも、大事なことがある。現代思想の袋小路の論者よりも、ジョギングマニアの文学者は気づいている。

でも今思い出したげと、『1Q84』の本家リトルピープルは、もろ「死」とコミットメントする存在たちだったような……。おっと、宇野論ではなく、村上論になってきた(よほど本書が辛いのか)。

でも、まだ2.2章まで、です。ちょい苦痛ですが、最後まで読んでみます。★