「動的ひきこもり」の実態把握が必要だ  8/27、ドーンセンターでのシンポジウム報告

昨日、大阪・天満橋のドーンセンターで、「ニートによるひきこもり雇用支援事業報告会」があり、たくさんの人に集まっていただいた。行政(大阪府の山本氏)・大学(大阪大学の井出氏)・NPO(NOLAの佐藤氏)だけでなく、同事業を体験し就職した若者も壇上で自分の体験を報告してもらった(プラッツは基本的に若者が人前でしゃべるというイベントはしないが、同事業は特別)。
僕はいつもの司会ではなく(司会は統括リーダーの石田)、ひとりのパネリストとしてしゃべらせてもらった。病から1年たち、小さなセミナーの講師はぼちぼち再開しているが、大規模なものは今回が復帰後初めてだった。
当ブログでも時々書いているが、不思議なことにアガリ症の僕が、病気後はまったく上がらなくなった。
今回もまったくアガることはなかったが、どうも会の趣旨とはかけ離れた発言を自分だけ展開してしまったようだ。だから、会のあとはちょっと反省したのだけれども、参加者のアンケートを見ると、それほど評判は悪くはなかった。むしろ、評価されているほうが多かった。大病のあとの励まし票ということを差し引きしても、僕の伝えたかったことはそれほど的外れでもなかったようだ。

僕が伝えたいことはただひとつ。我々の国は、我々がずっと恐れてきた超少子高齢化社会にすでに突入してしまっている。だが、ドラスティックな改革ができない我が国の政治(国民性)は、おそらく年金制度に根本的に手を付けられないままあと10年20年と時間がすぎるだろう。
だが、「制度」として劇的な改革はできないものの、「現場」として地道に粘り改革していくことが得意なものも我が国の特徴だ。年金における「現場」とは、つまりは若者と女性と高齢者がより働き年金を支払うということに尽きる(高齢者が支払う年金とは結局同世代負担になってしまうが……ああ曖昧な思想の我が国よ)。

これとひきこもりやニートの支援がなぜ関係するのか。たとえば、ひきこもりの数(内閣府調査「広義のひきこもり」を基準とすると)でいえば、出現率1.79%で考えてみると、大阪では277万人の若者(15〜39才)のうち、約5万人となる。
5万人と聞いて、ひきこもりやニートの支援者や、保護者、そして当事者自身も含めて、この数字(277万人分の5万人)に頷くと同時に、少し首を傾げるだろう。なぜならその数字は、「静的」実態は反映しているが、「動的」実態は反映していないからだ。

「静的」実態とは、文字通り、調査時点での当事者の状態を示す。調査時点で、「ふだんは家にいる」「コンビニには出かける」「自室から出ない」等を聞いたとき、若者のうち1.79%は広い意味でのひきこもりになる。
だが、若者支援者、あるいは若者の保護者、そして繰り返すが当事者も含めて、おそらく「あれ? そんな聞き方でいいのかな」と思うだろう。というのも、ひきこもり当事者の社会への「不参加」とは、「一時的にどっと落ち込む」というものではなく、それこそスモールステップを長い時間をかけて「下る」ようにして不参加状態が中心の生活になるものだからだ(だからこそ、ひきこもり支援とはそのスモールステップを逆に上がっていくものだと僕は提唱している)。
また、そのような「逆スモールステップ」といった「下り坂」イメージばかりでもなく、時々働いては時々ひきこもり、時々友人とカラオケに行く、といったような、流行語で言うと「ローライフ」的生き方に、結果としてなっている若者もいるだろう。
重要なのは、それら「逆スモールステップ」型も「ローライフ」型も、年金支払は親が負担している、あるいは支払っていないということだ。

生き方としては、僕はこのような「逆スモールステップ」型も「ローライフ」型も尊重する。尊重するどころか、本音でいえば逆に憧れる。まさに、東日本大震災と福島原発事故という時代の屈折点以降に現れた、現代を象徴する生き方かもしれないとも思う。
だから個々の生き方としては支援の対象どころか逆に微妙に憧れる生き方ではあるのだが、独特なあり方であり憧れの対象でもあるこの「動的ひきこもり」実態(動くひきこもりということではなく、長期に渡る動的生活状態の把握という意味)にある若者が、おそらく異常なほど多くなっているのではないか、と僕は直感している。
だから昨日のシンポジウムでもこうした実態にある若者の数はどれくらいなんでしょうと問いかけてみたが、今のところは具体数はつかめていないらしい。「動的ひきこもり」という概念が今はないのと、そのような存在を正確に把握することが社会にどんなプラスの影響を与えるかがまだ見えていないからだ。

動的ひきこもり当事者のほとんどは、年金支払い者ではない。親が支払っているか、未払い者だ。おそらく前者が大半を占めるだろうから、つまりは「動的ひきこもり者は統計的にはどこにも現れない普通の非正規雇用」という扱いになる。
この層がいったい何人いるのか。僕の直感では、おそろしい数が存在するはずだ。そして、そのほとんどは支援を求め、いつかは完全に社会参加したいと思って「動的ひきこもり」状態にある。
根本的な改革ができない我が国の年金制度を維持させるために、若者の就労支援は、我が国の社会システム維持の根幹にかかわる政策ということになる。その突端として「ひきこもり・ニート就労支援」はあると僕は認識し始めるようになった。
だからこそ、若者の就労支援は持続させていかなければいけないし、ひきこもり・ニート支援は「動的ひきこもり」を常に対象とできることからも続けなければいけない。つまり、この層はおそらく膨大な数が存在するにもかかわらず、時々「ひきこもり」になって初めてマイノリティとして顕在化するのだ。そして、この膨大な層が地道に就労し年金を地力で支払うことで、我が国の根本的社会システムの維持が可能になる。

それにしても、15年前には超マニアックなジャンルだったこの分野が、まさか日本の社会システム維持の突端になるとは思いもよらなかった、というのが僕の本音だ。

こんな深刻な問題だからこそなのか、人々はそれほど焦ってはいないようだ。僕も、自分の寿命はおそらくあと長くて25年(このまま減塩生活が成功すれば)だと思っているので、関係ないといえば半分は関係ない(年金受給者と支払者の数が拮抗するのは40年後)。
また、猫が自分の寿命を知らないように、ヒトも健康なうちは未来の不幸を直視しないですむようプログラムされた生き物なのかもしれない。
でも、僕は大病後、政治家になるのはやめて、今の青少年支援NPO代表でいこうと思ったからなあ。だから65才まではしぶとく支援・提言し続けます。あ、その頃は年金受給は75才なのかな。そうなると寿命が尽きてるなあ。★