猫は自分の死を知らない 〈近況〉

本来なら今回は、前回の続きである『リトルピープルの時代』の終わりまでの部分を書評する回なのだが、何しろこの本は「痛い」(痛い理由は前回参照)。今は2章の真ん中あたりなのだけど、仮面ライダーとウルトラマンを「リトルピープル」と「ビッグブラザー」に対比して論じる姿はあまりに前世紀末的(ポストポストモダン的とでも言おうか)であり、前回も書いたとおり、「死」と「(原発の)永久事故」で覆われた現代の我が国にはそぐわなさすぎる。
それに加えてここ数日は、季節外れのプレゼンテーション仕事が入っていたり、今日は今日で今から四国へ帰省することもあり、あまり落ち着かなかった。昨日のプレゼンは、あまりに集中し熱弁をふるいすぎて、終わったあとは電池切れのアンドロイドのように眠くなったものの、春頃と比べても、僕はかなり元気になった。

そういえば、もうすぐ、今月の19日で、僕が脳出血で倒れてから一年になる。
倒れた日は、ちょうど休み明けの日ですごく張り切っていたところまではよく覚えている。次の記憶は9月になっていて、個室で時々目を覚ましベッドサイドに誰かいる、というシーンが蘇る。そこから記憶は徐々に建物を建てるようにして構築されていき、淀川キリスト教病院の売店で新聞を買ってはベンチで延々読みふけるという入院生活へと移る。
19日に倒れ、9月のはじめ頃はうつらうつらしており、9月の2週目頃からいわゆる「記憶」が始まる。かといって手術後の10日間は昏睡状態だったわけでもなく、家族・友人の話では、僕は看護師相手にいつも以上に饒舌に語っていたそうだ。それも、少子高齢化社会を支える若者のあり方についてなど、政治家顔負けの熱弁だったという。

いくら術後回復が早かったとはいえ、自分の記憶がまったくないというのはものすごく不思議なことで、変な話だが、自分が一度死んでしまったような感覚がある。そして、ラッキーにも後遺症がまったくなく、今はこのようにして大事なプレゼンテーションの仕事にも行けるようになっているから、確かに、退院間際に医師や看護師や理学療法士から言ってもらった「本当に拾った命なんだから、それはたぶん、あなたにはもう少しやることがあるということなんでしょう」という言葉通りなのかもしれない、とやはり今もよく思う。
そんな無私な感じは今も続いており、社会と再接続したいという若者がいれば、自分のできる範囲のなかで何らかのかたちでお手伝いしたい。復職後は管理・経営の仕事ばかりになってしまったけれども、その立場なりにできることはたくさんあるはずだ。こうしてブログを書くことだって、広い意味では、日本の若者の苦境を周知していく作業の一つであり、これはこれで大事なことだと思っている。

そんな感じで、あれからもう一年がやってきた。告白してしまうと、その19日が来るのがすごく恐いのだけど、その日はできるだけ仕事は入れないようにしてのんびり過ごすことにしよう。
猫は自分の死を知らないと、この1年以内に誰かから言われたことがすごく頭に残っていて、他の人に試しにこのことをいってみると、全員きちんと意識していた。
僕は、猫は、つまりは動物は自分の死を知らない、なんてことを考えたことがなかった。それだけ「人間中心主義」の近代にまみれた人間だったということだが、このたびの病気をくぐり抜けて無事この世界に復帰して、今ここに生きていることの現実性をものすごく実感している。
食生活はまるで小学生の頃に戻ったように、決まった時間に食べ、量は子どもの頃よりはだいぶ減ったものの、ご飯をゆっくり噛んでおかずもゆっくり食べていくと、ゆっくりお腹が充実してきて、気持ちもゆっくり落ち着き始める。そのあと、コーヒーを飲みながら、無音の部屋で1時間以上新聞や週刊誌をぼんやり読む心地よさ。このようにして1日は過ぎていくが、このようにして寿命はまた1日費やされる。

けれども、健康になればなるほど、自分がいずれは死ぬということを忘れてしまうものだ。健康になればなるほど、それは客観的な死になる。だからたぶん、もう少しすると、今はしらけきって読めないミステリーも読めるようになるだろう。ミステリーの死は、完全に客観的なもの。それはまるで、猫の死とは正反対にある。他人事としての死と、自分が死ぬということを知らないという死。
人間の一生はうまくできていて、赤ちゃん時代は、みな自分の赤ちゃん時代を知らない。そして喃語をへて徐々に言葉を獲得し、同時に自我が形成される。そのあとは青年期・成人期・老年期という人生コースをたどったあと、いつか死ぬ。死ぬ手前、よほどの急病だったとしても、意識は最後は落ちて、ひとつひとつの記憶が残らないようになっていく。
言葉が自分から離れて、ということは、その時の状態はだから自分では表現できない。そして死ぬ。
人生のはじめと終わりは、言葉と記憶と自我から解放され、ということは自分の状態を捉えられないということではあるが、恐怖からも快楽からもほど遠い状態に置かれる。そのように人は生まれ、死んでいく。その意味では、猫ともあまり変わらないかなあともこの頃は思い始めた。
このように、ポコッと浮いた島のようにして人は生きて死んでいく。その最初と最後は記憶という呪縛から解き放されてる。いわば、おいしいとこどりしていいように人生ははじめからプログラミングされているようにこの頃の僕には感じられる。だから、欝病等の事情はあるにしろ、やはり自殺はもったいない。
猫も人も、おそらくその最初と最後は知らないまま、生まれて死んでいく。今の一瞬を生ききる、というニーチェやドゥルーズの言葉が、今の僕には、自然と溶け込んでいるようだ。★