その「真っ黒な青空」は僕も知っている 『I(アイ)』いがらしみきお/小学館

現代漫画の極北。間違いなく傑作。

■生と死の先にある「答え」

このブログでも毎回書いているように、ネットを駆使しながらも、僕は基本的に新聞と週刊誌で情報を得ている人間だ。特に新聞は、どこからでも読めるし、どこにでも持ち運びできるしで、その形態そのものが「究極のデジタル」ではないかと思っている。

マスコミのなかではおそらく一番最初に生まれ、インターネットが出てきた頃には一番最初に廃れるだろうと言われながらテレビよりもしぶとく生き残っている新聞の強みは、究極的にはそのデジタル性にあると思う。

まあそれはさておき、東日本大震災のあと朝日新聞にはたくさんの有名人のインタビューが載ったが、僕の心をいちばん捉えたのは、漫画家いがらしみきおのインタビューだった(6/7「許して前を向く日本人」)。
その中身はこちらの公式サイト「ぼのねっと」から調べていただくとして(全文載ってないかも)、全体の印象が、「ああこの人は一度死をくぐり抜けてきた人かもなあ」と思わせてしまうような、静かだけれども深くて底のないような印象を抱かせるものだった。


その記事か、別の記事だったかのかは忘れたが、いがらしさんが今話題作を描いているという。それは『I(アイ)』という作品で、どうやら「死」や「神」が主題なのだそうだ、ということを知った。だから6月に本屋に行って探したのだけれどもそれっぽい本は置いておらず、売り切れたのかなあと思っていた。


が、昨日近所の紀伊国屋に行ってみると、いきなり平積みで置いてあった。それは新刊で、やっとこの8月に出たのであった。帯には、「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」とある。


■真っ黒な青空


イサオという主人公のひとりが、エピソードの各所で、この我々が当たり前だと思っているこの世界の成り立ちの、その当たり前さを平然と崩す。そして時々、暗闇のようなものが現れる。


いや、暗闇というと「光の陰」のような印象があるから正確ではない。光の裏側としての影ではなく、まずその暗闇があるとしか言いようのない暗闇なのだ。それは、光が前提となった闇ではない。


ではそれは、「黒」と直接的にいうべきだろうか。いや、黒と言ってしまうと、ひとつの色を示すことになってしまうから(「色彩がある」という前提を了承していることになるから)それもまた違う。イサオは、「真っ暗で何も見えないはずなのに、真っ暗なものが見える」という具合で、決してはっきりとは説明してくれないし、彼はそんな説明する力ももっていない。


物語の2ページ目に、イサオが生まれる前に見ていたものが一言で記されており、それは「真っ黒な青空」だったそうだ。
今ある言葉でそうした暗闇的なものを表現しようとすると、そんな「真っ黒な青空」になってしまうのだろう。真っ黒な青空と書いた途端に、実はイサオが見ていたものは遠ざかってしまうのだが、仕方がない、言葉とはそういうもの。
そして我々はそんな言葉を通してしか、表現とコミュニケーションができない。


■真っ黒な青空があるから一人ではない


真っ暗なものは振動しているという。その振動しているものの向こうに「神さま」がいるかも、ということで1巻は終了するが、この「神さま」は作者のサービス精神だと僕は思う。
生が終わったところ(あるいは生が終わりそうな病気の場面、あるいは生が始まりそうな出産の場面)のどこかで「真っ黒な青空」が振動しており、その向こう側があるかもしれない。このあたりがこのマンガの核心だろう。


2巻以降、マンガは仕方なくストーリーを求めてしまうだろうから、おそらく作者の深めたいテーマはこれ以上は深まらないと思う。物語に作者は縛られ、テーストは薄まっていく。生と死の極限について関心がある方は、この1巻だけ買えば十分だと思う。


いがらしさんはこれまで、ガンと脳梗塞を患っているという。ちなみに僕も、2010年8月に脳出血で倒れ、9月はじめ頃に意識を取り戻すまで、このような暗闇イメージに度々とらわれていた。
退院後、いろいろな本を探してみたが、僕の感じたあの感覚に、最も近いシーンを作者は描いていた。そしてその作者も、僕に近い大病に襲われていた。


初めてこの「真っ黒な青空」のシーンと描き方を見たとき、僕はなぜだか自分は一人ではないと安心してしまった。この、「真っ黒な青空があるから、我々は一人ではない」ということが本作の究極のテーマだと思う。★