すべての映画はエヴァンゲリオンで終わったかもしれない〜2011「映画」〜





というタイトルは、一般的なものではなくて、「僕にとってのすべての映画」という意味で、まあふだんの当ブログ読者にはあまり関係ないテーマかもしれないが、いまは恒例の四国・香川県へ帰省中であり、帰省するとどうもマイワールドに還ってしまう癖が僕にはあるのでご容赦を。
まさに、「私に還りなさ〜い♫」ですね(なんのこっちゃ)。

で、前々回は音楽について今年を振り返ったような気がしているので、今回は「映画」について振り返ってみようと思う(「本」はまたの機会に!)。

で、考えた結果が「エヴァ」だった。今年はエヴァ新作もなーんにもないのに、である。だって、音楽と同様、病後の僕は映画を観るパワーをすっかり失っており、アニメさえ「廻るピングドラム」も全然観ていないというありさまだ。ましてや、実写の映画なんて、なんていうか、「お腹いっぱい」という感じなのだ。

こう見えても僕は、シネマ哲学カフェの常連であり、中学生のときに「エマニュエル婦人」と「ゴッドファーザー」を見て以来、すっかり洋画にハマって中学時代は毎月『ロードショー』を買ってスクラップしていたというプチ映画マニアだ。
それが、最近はすっかり映画が遠くなった。蓮實重彦ではないが、「映画から遠く離れて」いる。その理由は音楽と違ってまだわからない。音楽は生命への入り口だったが、映画とはなんなのだろうか。

で、巡り巡ってたどり着いた映像は、「エヴァ」だった。

この頃の僕の頭の中は、エヴァンゲリオンの「魂のルフラン」が延々ループしており、エヴァ本編を見なおす体力は残っていないものの、今さらながら、30才ちょっとでこの作品を作り上げた庵野監督に脱帽し続けている。

今回ユーチューブでくっつけた下川みくにバージョンの「魂のルフラン」の映像には、主要人物・アスカのたくさんのカットが繋ぎ合わされており、それらのカットは「思春期のゆらぎ」そのものだ。
これらが入ったTV版のエピソードを見るだけでも、思春期の本質は理解できる。虚勢・偽善への嫌悪・性衝動・親との決別/親以外の他者への渇望等々、無理してサリンジャーを読まなくても、アスカ一人のエピソードを追っているだけでも十分だ。

だがエヴァの本質は思春期ドラマではない。まさに、生命のリフレインと魂のありかを直球でそれは表現した作品だ。
実はそれは現在も続いており、具体的には新映画版の中で表現されている。TV版を受けた上での「赤い海(経営流行言葉のレッドオーシャンではありません)」から新映画版は始まり、登場人物たちの「前のエピソードと似ているようでズレている」それらのあり方は、いま、この物語の中核である「魂のルフラン/リフレイン」そのものを描いていることが想像できる。

すごいのは、こうした物語の中核が、15年前のこの「魂のルフラン」の歌詞や、旧映画版「まごころを君に」の諸エピソードや、もっというと、TV版オープニング「残酷な天使のテーゼ」の0.数秒のカットの中に埋めこまれていたことだ。

この、魂のルフランというテーマに、庵野という一映像作家は生涯を縛られている。エヴァ以降、キューティーハニーやらなんやら変な実写映画ばかり撮っているが、それは、この「魂のルフラン」からいまだ逃れられないという証でもある。おふざけ実写で息抜きして体力を貯めて、15年毎に庵野は「魂のルフラン」に向かう。
まるで、庵野の魂自身がルフランしているように。この頃僕はそんな超オタク作家・庵野のことをすごく尊敬するようになった。

ミッションインポッシブルの新作が公開されようが、良心的邦画が立て続けに製作されようが、ポルトガルのペドロ・コスタ監督の新作が公開されようが、僕はやはり「エヴァ」に還る。その理由はいまだ不明。できれば来年解き明かします。でも、このまま謎でもいいかな。★