2011年6月28日火曜日

スモールステップ自立支援のフレームワーク

昨日ふらふらとヨドバシ梅田に行き、そしてふらふらとマックブックエアーを買ってしまった。初号機は20万円くらいしたが、最近のは8万円台でさらに軽く、性能もよい。出たのは去年の秋で、その頃僕はマックブックエアーどころではなく、趣味であるIT機器研究もどうでもよくなるくらい、自分の身体で精一杯だった。
あれから半年近く過ぎ、ふらふらとマックブックエアーを買うくらい余裕が出てきた。僕にとっては、アップル製品購入=仕事のやる気が充実という構図があり、自分ではまだまだ体力には自信がないもののどこかで余裕があるのだろう。
今回のこのブログも、プラッツでいま、ひとり別室にこもり書いている。ちにみに今までは自宅で、メインマシンのマックブックプロに向かっていた。しかしブログ作業も、いまどきのNPOにとっては、それは代表の暇つぶしではなく、立派な広報作業の一つなのだ。ツイッター→ブログ→ホームページ→セミナーや面談の申し込みという一連の流れを構築するためにも、このブログを充実させていくことは重要な仕事の一つとなる。

まあそう言いながら、いまもお一人お客様がやってこられたので、これからブログ作業を続ける部屋を探さなければいけない。今までのようなクオリティーをもつブログはやはり家で書いたほうがいいんだろうな、と思いながらも、とにかくマックブックエアーを買ったんです、ということを報告したかったのです。

ところで、6月5日の当プログに、「スモールステップ支援のチャート式最新まとめ」としてスモールステップ支援を簡潔にまとめてみた。だが、支援者ではない読者から、少し難しいという声があり、さらに、プラッツ機関誌「ゆうほどう」207号に「スモールステップ自立支援のフレームワーク」という原稿を書いてみた。今回は、これを転載してみよう。



プラッツのホームページに僕は週2回でブログを書いている。その6月5日のブログに、「
スモールステップ支援のチャート式最新まとめ」という記事を書いた。この記事は、ここ5年ばかりのプラッツの活動をコンパクトにまとめたものなので、それなりの感慨はあった。
その内容を、以下により簡潔に記してみよう。

★社会への参加の状態
まず、若者の「社会への参加状態」を、以下の10段階に分ける。
1.親子断絶型ひきこもり→2.外出不可型ひきこもり→3.外出可能型ひきこもり
4.心理面談型ニート
5.就労面談型ニート→6.短期「就労実習」型ニート→7.長期「就労実習」型ニート→8.短期非正規雇用型ニート→9.長期非正規雇用型ニート→10.正規雇用
スモールステップセミナーを受講されている親御さんにはおなじみの段階区分だろう。本人は、1はまったくの孤立で引きこもり、2は家族との会話は可能だが外出不可、3は外出可能だが支援施設にはつながっていない、という状態にある。
4は、プラッツのような支援施設に出てくることはできるが、就労(就学)への活動はできない状態。従来、この段階の位置づけが明確ではなかった。長い間この段階は、「
居場所」「フリースペース」等で呼ばれてきた。
5以降は表記通り、10は社会の経済状況も大きく影響するからここでは「あがり」程度で位置づけ、1~9まで、プラッツ(平均的な青少年通所型支援施設のひとつと捉えよう)の場合、普通3~4年はかかる。
3年前に出した『ひきこもりから家族を考える』(岩波ブックレット739)では、これほど細分化されておらずもう少し大雑把だった。

★三つの「背景」
a.精神障害……統合失調症、双極性感情障害(躁鬱病)、強度の強迫障害等。統合失調症の「陰性」が単なるひきこもりとして扱われることもある。また、cの発達障害が精神障害のさらに背景にある場合もある。
b.性格の傾向……ひきこもり的性格。内向的、繊細、プライドが高い、うたれ弱い等。これは非常に曖昧な位置づけであるため、医師によっては、人格障害等にしてしまう場合も。
c.発達障害……広汎性発達障害、ADHD、軽度の知的障害等。現在、広汎性発達障害にアスペルガー症候群と高機能自閉症をどのように統合するかということが議論になっているそうだが、支援現場では、個々の特徴(無口、空気が読めない等)を見据えた上で、ポジティブな面を引き出しネガティブな面が目立たないような環境をつくりあげる、ということにつきる。そのために有効な福祉資源も使用する(このときネットワークは必須)。

★支援の三段階
A.アウトリーチ支援……上記1~3が対象、保護者面談中心、時には訪問も。
B.生活体験支援……上記4が対象。この中で、「スモールステップのスモールステップ」として、①会話・ゲーム等のコミュニケーション体験、②料理・清掃等の日常生活体験、③スポーツ・外出等のレクリェーション体験という段階がある。
C就労体験支援.……上記5~9が対象。ちなみに、多くのサポートステーションではAとCしかないため支援が定着しない。成功しているサポステは何らかの形でBをとりいれている。

★二種類の支援スタイル……◯通所型支援(地域若者サポートステーションやNPO等)、◯宿泊型支援(NPO等)。数は少ないが良心的な宿泊型支援は効果抜群である。
 以上を表にまとめると、下のようになる。三つの背景を知りながら、1~9のスモールステップをゆっくり進んでいく。「三歩進んで二歩下がる」のペースで。★

支援の3段階
通所型・宿泊型


社会への参加の状態
背景に、精神障害・性格の傾向・発達障害
アウトリーチ
・保護者面談
・訪問

1.親子断絶型ひきこもり
2.外出不可型ひきこもり
3.外出可能型ひきこもり
生活体験
コミュニケーション(会話・ゲーム等)
日常生活(料理・清掃等)
レクリェーション(スポーツ・外出等)


4.心理面談型ニート(自立支援施設とつながった最初の段階。心理面談を基本に、左欄①~③を順に)

就労体験
右欄59の順で

5.就労面談型ニート
6.短期「就労実習」型ニート
7.長期「就労実習」型ニート
8. 短期非正規雇用型ニート(8より賃金発生)
9.長期非正規雇用型ニート
スモールステップ自立支援のフレームワーク tanaka tosihide /awajiplatz 2011



2011年6月23日木曜日

ナイナイ岡村の目 〈日記〉

今日はプラッツI統括リーダーとともに、某所へ講演に行った。こじんまりとした会だったが、Iリーダーの話も小気味よく、途中までは僕も聞き役だった。でもせっかくだからと、後半は僕も結構しゃべった。久しぶりの講演で、ちょっと血圧も上がったものの、やはり目の前に困った人たちがいると僕も燃えてきて、熱烈にしゃべってしまった。あとで少し反省したが、どこかで自分をコントロールしており、この調子で徐々に講演に関しても復帰していくのだと思う。

で、帰ってきて夕食をとり、風呂に入り、さあもう9時半だし寝るまであと1時間だルンルン(僕は毎日10時半に就寝)残りの時間は読書でもしようとつぶやいていたところ、そうだ、ブログを忘れていたと思い出した。
このところ、以前お世話になった人から頼まれている原稿を朝書いており、今朝も少しだけ書いてから出かけた。それはいずれこのブログでも紹介する。そういえば『季刊福祉労働』という業界誌に、ひきこもりスモールステップ支援理論の最新バージョンを書いたのが、今日送られてきた。それも近々プラッツホームページで読めるようにしたいと思っている。
そんなわけで、原稿的には適度に忙しい日々を楽しく過ごしているのだが(原稿はいくら書いても血圧は上がらない)、肝心のブログを忘れていた。

といってももう今日の分の脳は使い果たしたなあ。今日帰って少し考えたことといえば、ナイナイのゴチを見ながら、岡村ももう41才なんだよなあ、以前はよく女子芸能人と浮名を流していたが、最近はすっかりモテナイ君代表みたいになっており、隣の佐々木希を見る目付きもまるで舐め撮りカメラのようにいやらしいなあ、と思ったことくらい。
けど、岡村って、2ちゃんねるでは人気あるらしい。僕は2ちゃんはニュースくらいしか見ないけど、あの手厳しい2ちゃんのほとんどの書き込みは岡村に好意的だもの。
この頃は自分の結婚話題をネタにしておりテレビでもよく自分の恋愛観なども語っているが、まるで41才とは思えない初々しさ。その無防備さが何とも好感を持てる。たぶん、以前のさまざまな噂話は本当に噂話だけだったんだろうなあと思わされる。

芸能人は、たとえお笑いであってもそこそこモテてそこそこなところに着地していくというのが多くのパターンだが、岡村は、現実に結婚できない多くの若者達と同じような、「一生懸命なんだけど、どうしようもない」というある種の現代性を漂わせている。それは、本人が意識して出している雰囲気ではなく、どうしても滲み出てしまう何かだ。佐々木希は、それに気づいて若干及び腰で横に立っている。岡村はそんな佐々木希に気づいていない。その悲しさも、ある種の現代性があって、僕も岡村のことが非常に好きだ。★

2011年6月20日月曜日

生き残った、ということ 〈東日本大震災と我々〉1

淡路プラッツのような小規模の団体・ホームページ・ブログでも、ありがたいことにフォローしていただいている方々がいらっしゃる。そんななかの何人かから、「今回の東日本大震災について、そろそろなにか書けることがあれば書いてください」とおっしゃっていただいた。
確かに、震災直後は僕も大勢の人たちと同じように、追悼の気持ち以外は何も考えることはできなかったが、あれからもう3ヶ月が過ぎた。原発と政治は相変わらず超もたもたしているが、ニュースや新聞では少しずつだが復興は進んでいるようだ。僕の友人でも複数東北に出かけているし、プラッツスタッフで福島にボランティアに行ったものもいる。
僕は自分の体調が不安で、東北でのボランティアはできない。代わりに、自分にできる範囲でのわずかな義援金は行なってきた。それに加えて、このブログでもそろそろ何かを書いてもいい時期なのだろう。だからこその、冒頭のような声があると思った。

被災地にボランティアに行った人の現実の体験談とは別に、グーグルで「東日本大震災 ひきこもり」で検索してみた。すると、数はそれほどないものの、「生き残った」エピソードと「流された」エピソードが現れた。震災を機会に復興に力をかす若者、母親の説得も聞かず無言で津波にに流されていった若者、それぞれの個別的な出来事があった。
でも僕は残念ながら、やはりまだ、今回の地震と津波について直接書けないようだ。今回の震災のいくつかの出来事からひきこもり問題の何かを抽出し、少し抽象化して語るのは、やはり「暴力的」だと思う。「言語化することは原始的暴力なのだ」と僕は哲学に学んでいたが、今回の地震と津波という出来事に関して、つくづくそう思う。
おそらくそれは「不可避の」暴力だから、普通の肉体的暴力とは違って、倫理と責任の意志があれば行使してもいいのだろう。いや、他人への思いやり(倫理)と他人との齟齬も覚悟した決断(責任)があれば、その原始的暴力(地震と津波に関する言語化)を行使すべきなのかもしれない。
でも、最近の僕はそんなステージから下りることにした。倫理を重視する同じような立場でも、決断より追悼を重んじるステージに移動した。

直接大震災を書くのではなく、僕は、自分の体験と合わせて、「生き残った」ということについて書く。
この頃はだいぶ元気になってきて、仕事にも週4日、1日5時間くらいはこなせるようになってきた。5時間を過ぎると、頭がすごくぼんやりしてきて、血圧も上がってくる。今の目標は、何よりも脳卒中の再発防止だから、スタッフには申し訳ないと思いつつ帰ってくる。そして夜の10時半には寝てしまうのだ。
そんな最近であはあるが、新聞や本で大病をしたり亡くなった人の記事や文章を見たり、自分がもしもしそうなってたら(実際三分の一の確率で死んでいた)とよく想像する。そして、「よく自分は元気に生き残ることができたなあ」としみじみひとりつぶやく。生き残ったとしても重い後遺症でリハビリに励むことがむしろ普通の病気だ。そうした方たちには申し訳ないと思いつつ、「よくぞ自分は生き残ることができ、短期間で職場に復帰できた」と正直なところ考えてしまう。

こうした思いは、元気になればなるほど強くなってきている。今の僕は、ここに何らかの因果関係を持ち込むことはしない。たとえば「神のご加護で」とか「祖先に守られて」とか「祈りのおかげで」となれば、それは当然宗教になるものの、この25年間、がちがちのポストモダン哲学で洗脳されてしまった(さらに、宗教を基本的に否定する近代的価値観がベースにある戦後日本で生まれ育った)僕の脳は、残念ながらすぐにはそうならない。
かといって、「自分だけがなぜ生き残ることができたのか」という倫理的問いもたてることはない。ひたすら、倒れる前とほぼ同じような状態で生き残ることができたラッキーさに思いを馳せるのみだ。
だからしょっちゅう、僕はラッキーだった、とつぶやいている。むしろそこに、生き残ることができた後ろめたさ、何かの力で生き残ることができたという因果関係、これらもろもろを意図的に排除している。
ひたすら、僕はラッキーだった、と思うことにしている。

人間が小さく見えてしまうという、変な感覚が今の僕にはあって、それはスケールが小さいというような比喩的意味ではなく、また離人症的な意味でもない。山や川や海といったまわりの自然に比べると、いかにも一人ひとりの人間のサイズは小さく、ついでに言うと人間がつくったもの(ビルとか)もかなり小さいということだ。
単に、ひとつの山よりもひとつのビルのほうが圧倒的に小さいという、理性的に考えれば当たり前の物理的比較の問題なのだが、その物理的事実があっさりと僕に迫ってくる。そうか、ビルより山のほうがはるかにでかいんだ、という事実は、僕にとって新鮮だ。病気の前までは、人間がつくったビルのほうが、うっかりすると山よりも大きく思えていた。意識が、山ではなく(人間がつくった)ビルのほうに集中する傾向があったと言い換えてもいいのかもしれない。
人間が小さいのではなく、そもそも人間は物理的にはそれほど大きくなかったということ。今は、すべてをフラットに見ている。

人間はそもそもそんなに大きくはない。死ぬのも生き残るのも、やはり偶然が大きく左右する。存在することには大きな意味はないが、意味はないわけではない。その背景に、神や宇宙の力を信じるのは個人のお好みで。
確実に言えるのは、存在しているということは、ラッキーだということだ。そこで、仕事をするかどうかということには大した意味はない。それこそ個人のお好みの問題。同じお好み問題でも神を信じるかどうかのほうが重要なお好みのような気もするが、今の多くの若者は、そんな悠長なこと、そんな根源的なことを考える暇はないほどたいへんだろう。
だから僕は、そうした仕事の悩みをもつ若者に対して以前と同じようにきちんと支援していくつもりだが、まあ、仕事で悩む前に根源的「お好み」問題はある。こっそり僕はそういうトークを(そうしたトークを望む)若者とするだろう。★

2011年6月16日木曜日

『もしドラ』は決断主義を超えるか

前回書いたように、病気後僕は新聞ばかり読んでいるのだが、ここにきて普通の本が読めるようになってきた。だが以前のように哲学書のみという偏向な読書傾向ではなく、どちらかというと軽くて読みやすいものばかりを買っている。
どうせならいつものアニメチェックと同じように、売れている本チェックもしてやれ、ということで、この頃はベストセラーものにも手を出している。その流れの中で、『もしドラ』を買った。そう、あの、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、だ。
『もしドラ』はアニメや映画(主演は前田あっちゃん!——しかしどこにでもAKBは出てくる。そして、現代の若者問題をそれなりに扱おうとしているこのブログにも頻出するということは、AKBは若者問題研究の必須テーマでは、なんて真面目に思ってきた)になっているとのことで、いわば時代の象徴的作品なのかもしれない。
この本を書店で見たのは碓か数年前だから、ぼちぼちと、ロングテールに、しぶとく売れ始め、いつの間にか時代の象徴的作品になってしまった。
僕はあのあざとい表紙をずっと心のなかで小馬鹿にしながら、告白すると、ずっと気になっていた。「ドラッカー」も「マネジメント」も単語としては知っていたが、これも告白してしまうと、「経営学」を僕はちょっとナメていたところがあって、25年前の大学時代からそれは変わらなかった。
経済学のほう、ケインズとかマルクスとかはわりと若い頃から読んではいた(なかなか理解できなかったが)。でも、経営学は、入門書をちょっと手にとっただけでも、エセ心理学みたいな、顧客と労働者をナメているみたいな、変なアルファベット略語だらけ(PEST,BRIO,KFS等、わけわからん)みたいな、とにかく、「本物志向」で青臭かった当時の僕(こんな学生、当時は珍しくなかった)からすると、どうも取っ付きやすすぎて逆に怪しい学問の代表、それが経営学だったのだ。

いまから思うと、当時はまだマルクスの影響が大学にも出版界にもぷんぷん残っていた頃。当時流行の柄谷行人にしろ浅田彰にしろ、マルクスを読んでなければ話にならなかった。経営学なんて、あとまわしのあとまわしだったのだ。
で、『もしドラ』だが、そのエッセンスをひとことで言ってしまうと(ストーリーは省く)、やはり、「人をいかす!」ということにつきるのではないだろうか。そのために、人に責任を与え、人の意欲を尊重し、人や組織を競争させる、このあたりが『もしドラ』の核にあたるのでは、と思ったのだが、いかが。ドラッカーの『マネジメント』が各所で引用されているが、わりと難しい文章で、その大著を完読するのはたいへんだろう。その真髄は『マネジメント』そのものにあるにしても、もしかして僕は、みなみちゃん(『もしドラ』主人公)だけで終わるかもしれない。
で、これではいけない、こんなことではまた哲学書に戻ってしまうぞと思い、次に、『9割がバイトでも最高のスタッフに育つディズニーの教え方』という話題の本を買った。50万部くらい売れているらしいから、これもまた「いま」を象徴するといってもいいだろう。
こちらは『もしドラ』よりもうちょっと実践的だが、『もしドラ』と同じく、ある程度小規模の組織(ピラミッド組織でいうと「支店」や「営業所」単位)をどうすればうまく運営できるかということがテーマなのは同じだ。
まず「ミッション」(たとえば「客の幸福」)をたて、その次に「行動指針」(たとえば「安全性」「効率性」等)を考える。そうした理念体系を整えた組織のもと、「声かけ」「笑顔」「誇り」など、スタッフ間のコミュニケーションのコツを伝授するのはいつものビジネス本どおり。なるほどなあと読み終えたものの、この本もまたそれだけで終わってしまった!

で、より本格的な経営戦略の本みたいなものを最近は研究している。まあそれはそれでおもしろいものの、25年前に抱いた「あやしさ」を脱却させてくれるものには出会っていない。出会うまで、自分の健康に注意しながらも努力することにしよう。
それとは別に、この頃僕は、もしかしてこれはある種の「新しい潮流」では、とも思うようになった。ある種の、というよりは、「10年代の」といってもいいのかもしれない。
思想好きの方であれば、「セカイ系から決断主義へ」というテーゼがあることはご存知だろう。エヴァンゲリオンに代表される「世界の危機に一人で立ち向かう90年代的私(そしてひきこもってしまう私)」から、バトルロワイヤルに代表される「そこから逃げようのない状況の中で決断していく00年代的私(決断・直面した結果ひきこもってしまう私)」へ、この20年間で若者をとりまく状況は変わってきたと言われる。
正直言っていまの僕には、本当の若者の現実を知らない絵空事っぽい話だなあとも思えるのだが、その思想を代表する本(宇野常寛氏等)を読むと、なるほどなあとも思わされる。まあ、「セカイ系から決断主義へ」というテーゼは、その世界ではプチ流行になったことは事実だ。
で、僕が病気療養しているあいだに2011年となり、本屋のベストセラー棚に行くと、『もしドラ』のみなみちゃんの表紙と『マネジメント』のドラッカーの恐い顔の表紙がずらりと並んでいる。
漫画コーナーに行くと「決断主義」の代表的なマンガ『ガンツ』は相変わらずずらっと並んではいる。その両者(『もしドラ』と『ガンツ』)の間には、深くて黒い溝はあるものの、決断主義で行き詰まった若者世界を突破するものとして、もしかして『もしドラ』のみなみちゃんは生まれたのかもしれない、とも思う。みなさんはどう思う? 決断主義から経営学的割り切り主義あるいは経営学的マニュアル主義へ、社会は思考を止めたまま(思考し続けるのは結構しんどいから)進むのか。このブログでも考え続けていこう。★

2011年6月13日月曜日

涼宮ハルヒはおたくとは別世界にいる

僕は退院後、すっかり新聞の価値を見なおしてしまって、駅で毎日買っている。将来、雑誌は消滅するだろうが、新聞は一定部数を維持すると思う。あのサイズと料金的な手軽さから、どこからでも好きな記事を読める新聞は、もしかして今、もっとも「デジタル」なメディアではないかと思っている。結局、メディアの元祖が最もデジタル的だったのではないかということ。

で、昨日日曜の朝日新聞書評欄を呼んでいると、出たばかりの『涼宮ハルヒ』シリーズ最新刊がなんともういきなり100万部を超えたと紹介されていた。当然僕も、発売日に即購入している。しかしいきなり100万部はすごい。あの赤面ものの水嶋ヒロ『kagerou』以来のスピードではないか。
内容は、僕はまだ50ページくらいしか読んでいないが、なんか難しい。何才か知らないがたぶん若くして大金持ちになった作者は、きちんとSFに向かい始めたのかもしれない。だが基本設定がライトノベル読者向けにできた物語なので、どんなにSF具合を凝ったとしても無理がある。半病人の僕には文庫本の字も小さすぎてつらく、途中でほったらかしたままだ。

以前どこかで書いたが、涼宮ハルヒシリーズはアニメも含めて、直接おたく(もちろん日本のオタクの何割かはひきこもり・ニートだ)の“萌え”心に訴えかけはしない。“萌え”を含むアニメカルチャーのさまざまな概念(ネコミミとかも入れてしまおう)にどっぷり浸っている消費者(つまりはひきこもり・ニートを含むおたくという巨大市場)の心をどうすればキャッチできるか、ということが物語を進めていく動力でもある。
ハルヒが会長を務めるSOS団のテーマは実は、「会員を増やしたいけど、勧誘は失敗し続ける」ということにある。「会員を増やしたい」→「そのためには主力客層であるおたくを狙う」→「そのためには現役女子会員にメイド姿をさせる」→「メイド現役会員とともに勧誘にハルヒ会長は出かける」→「勧誘はなぜか失敗」→「元の5人におさまる」というこを“エンドレス”に続けているというのがこの物語の骨子でもある(問題作に「エンドレスエイト」というタイトルの回もあった)。

なぜ失敗するかというと、ハルヒがキョンという語り手男子学生を好きだからであって、ハルヒは口で「勧誘」と言いながら行動ではいつもキョンといっしょにいたい。そのツンデレぶりはまさにおたく向けの物語かもしれないが、ハルヒや他の現役女子会員が勧誘のためにバニーちゃんになるなど、ある意味おたくの精神的領域を穢している。バニーちゃんやネコミミは、勧誘のためになるものではない。その世界になりきるために自己をいったん脱ぎ捨てるための行為だと、たぶん、本物のネコミミちゃんたちはこんなことは言わないけれども、このようなことは心の核で思っていることだろう。
つまり、コスプレとは、「メタレベル」(こうすればウケるだろうと狙ってするもの)で行なうものはなく、まさにその世界そのものに自らを「投企」するものなのだ。ある意味かぎりなく実存的行為なわけです、コスプレであり、おたくとは。

だが、ハルヒは平気で勧誘のためにメタレベル的行為としてコスプレしてしまう。こうした行為が三人称描写の中で批判されることなく毎回行なわれるというこの作品は、純粋なおたく(ひきこもり・ニート)向け作品ではない。おたくの行動様式をかなりクールに分析された上で成り立っているのがこの作品だとも言えるだろう。

で、前回の当ブログでも抱いた疑問がここでも浮上する。自分たちの世界に向けてあるいは自分たちの世界そのものの作品・タレントであると見せかけながら、実は別世界に立ってモノを売りまくっているハルヒやAKBを、なぜおたくは(そしてひきこもり・ニートは)支持するのか、と。
僕はやはり、日本のおたくはやさしい人達なんだと思います。やさしいというか、寛容というか。たぶん僕も寛容なんでしょう。★

2011年6月9日木曜日

おたくとひきこもり予備軍が楽しむ女性ジェンダーの自立 〈社会〉1

実家の四国で3日間のショート休養をしてきた。僕の脳もいよいよあちこちの回路がつながり始め、あとの課題は持久力のみとなってはきたが、今回病気になっていろいろいいこともあった。その第一は、盆正月は帰省していたが長らくご無沙汰気味だった母親との関係が、病気後、自然体でやわらかなよい関係になれたということだ。
母は70才、僕は47才、互いに同じ大きな病気をしている。父は残念ながら10年少し前に亡くなったものの、これまでも盆正月は帰省しており決して関係は悪かったわけではない。だが、やはり僕の精神は「仕事という“竜宮城”」へ浦島太郎のように出かけっぱなしになっており、特にこの5年ばかりは従来の人間関係とはとんとご無沙汰だった。そしてそのまま死ぬまでご無沙汰なのだろうと思っていた。でも、不思議なもので、病気というメッセンジャーが僕を竜宮城から引き出した。

そして僕は、自分で買って帰ったお土産を食べながら実家のテレビをぼんやり見ていた。実家にはいつの間にか光ケーブルがやってきており、ケーブルテレビというものを普通に見ることができた。10年前と変わらず音楽ビデオチャンネルは存在し、最近の音楽研究でもしてみるかと思いしばらくそのチャンネルにとどまると、AKB48が出てきた。たぶんあれは、前田敦子だろう、その人が顔をしわくちゃにしながら走り続けるというビデオだった。
前田敦子と前田敦子ファンには悪いが、前田敦子のしわくちゃ顔はある意味「芸能人」「アイドル」「イコン」を捨てている。そこにいる前田敦子は、アイドルではなく、人間だ。泣き、笑い、怒り、悲しむ、普通の人間としての前田敦子がそこにいた。それはあまり作りこまれた表情ではなく、体育の授業中の高校生のように、単にしんどそうに汗をかきながら顔を歪めて走っている。
それはだから、「女の子」でもない。女の子ジェンダーの前に、体育授業中の高校生であり、そこには女の子やアイドルという属性がほとんど見られない。
汗かき高校生、ついでに女子。そこにいる前田敦子はそんな人物を演じていた。

AKB48はたぶん、今一番売れている女性ジェンダーアイドル+タレントのはずだ。ということは、このような、「女の子」の前に「体育授業中の高校生」というイメージが十分商品価値を持つということだ。

少し前にこのブログでも書いた、京都アニメーションの代表的な作品は「けいおん!」という女子高生バンドもののアニメだ。僕は、AKBの元ネタは京都アニメーションにあると書いたのだが、それを読んだ友人が「なるほど〜」とツイートしてくれた。僕は、そんなことみんな気づいた上で楽しんでいると勘違いしていた。
「けいおん!」もAKBも、主な客層は「おたく」であり数百万人単位で存在する「ひきこもり予備軍」だ。「けいおん!」声優ライブもAKBライブも、そんなファンたちで埋め尽くされている。よく知られているが、「けいおん!」の監督は女性であり、そのインタビューを読むと真面目に女子高生を研究していることがよくわかる。
その研究の方向性は、従来のおたくアニメがもつエロティックさに向かうのではなく、女子高生の日常性に向かう。女子高生は学校や家でどのような行動をとるのか、友人同士ではどのような会話・メールをするのかなどを真面目に研究している。そして作られたのが「けいおん!」であり、研究した割にはかなり脱日常(親が出てこない等)しているが、人物たちの振る舞いは「男性を意識した女性ジェンダー」ではない。
現代女性としてオシャレをしそれなりに言葉遣いを意識してと、社会から求められる女性ジェンダーから決してずれることはないものの、登場人物たちは、あきらかに「女の子」の前に「現代高校生」なのだ。

AKBにしろ「けいおん!」にしろ意図されたエロスは当然挟み込まれている。水着、パンチラ等、あからさまに出てくるものの、だがそれは我々の日常の中でもそうであるように、ジェンダー性以外のその他の中にあえなく吸収されている。友人同士の葛藤・笑い、水着も含んだファッション性、将来予測される職業等、高校生には、ジェンダーも濃密に背負いながらもいくつもの関心・悩み・葛藤・希望がある。

それがつまりは「生きる」ということではあるが、以前であれば、このような「生きる」が描かれる舞台は、主として男性ジェンダーの世界だった。女性は、その男性がどう生きて行くかを考えるための一つの「装置」として機能してきた(夏目漱石からエヴァンゲリオンまで100年間)。
今、やっと、女性ジェンダーの世界の中で「生きる」ということが描かれるようになったと僕は思う。男性ジェンダー世界の装置でもなく、「女の子」でもなく。
それを支持しているのがおたく&ひきこもり予備軍というのもおもしろい。女性ジェンダーの日常性から離れるためにアニメ・アイドルに向かっていた男たちが、巨大で有効な市場と判断され、市場(おたく&ひきこもり)自らそれを消費することを楽しんでいるように僕には見える。

エロスはついででいいのかな。
前田あっちゃんを見ながらそんなことを考えたのであった。★

2011年6月5日日曜日

スモールステップ支援のチャート式最新まとめ 〈支援の最前線〉9

今日から実家の香川へプチ療養に帰るので、1日早めの更新をしておこう。

昨日、プラッツで全体スタッフ会議があり、そこでI統括リーダーが上手に当法人の支援スタンスを説明してくれた。僕が説明するともっと硬くなってしまう。わかりやすいなあと思いながら聞いていたのだが、いわばその「元ネタ」は僕だから、ここであらためて「チャート式」的に整理しておこう。なお、元ネタの元ネタ(直接の元ネタではないが重要なヒントをいただいた方々)は、某H政大のH先生だったり、この前当ブログにも登場した某こころのKセンター元ワーカーさんだったり、何人かの僕の尊敬する方々である。
何人もの現場経験と研究知見があって初めてこのような「チャート式」は完成する。わかりやすさの影には、膨大な汗と真剣さが隠れている。また、以下は、厚労省のガイドラインともそれほど齟齬はなく、混乱は与えないはずだ。

すべては「スモールステップ」形式で記される。
★まずは、若者の「生活の状態像」から。
1.親子断絶型ひきこもり

2.外出不可型ひきこもり

3.外出可能型ひきこもり

4.心理面談型ニート

5.就労面談型ニート

6.短期「就労実習」型ニート(例.淡路プラッツの「トライアルジョブ」1回2時間×8日)

7.長期「就労実習」型ニート(職業訓練校含む)

8. 短期非正規雇用型ニート

9.長期非正規雇用型ニート(8と9について、ニートは働けない人なので矛盾表現だが、挫折した場合容易にニートに戻るためこのように表現する)

10.正規雇用
ちなみに、三年前に出した『ひきこもりから家族を考える〜動き出すことに意味がある』(岩波ブックレット739)では、これほど細分化されておらずもう少し大雑把だった。


★若者それぞれの「背景」もここに加わる。
a.精神障害
統合失調症、双極性感情障害(躁鬱病)、強度の強迫障害等。統合失調症の「陰性」にひきこもりが含まれていることもある。また、cの発達障害が背景の背景にある場合もある。
b.性格の傾向
ひきこもり的性格。内向的、繊細、プライドが高い、打たれ弱い等。これは非常に曖昧な定義であるため、専門家によっては、精神障害と発達障害に二分化してしまう人もいるだろう。
c.発達障害
現在もっともトレンドな話題。広汎性発達障害、ADHD、軽度の知的障害等。現在、広汎性発達障害にアスペルガー症候群と高機能自閉症をどのように統合するかということが議論になっているとのこと。だがそれは専門家の「名づけ」の問題であり、精神医学や臨床心理学そのものの特徴だ。
支援現場では、個々の特徴(無口、空気が読めない、暴力的等)を見据えた上で、ポジティブな面を引き出しネガティブな面をゆっくり変化させるということに長期的に取り組むということにつきる。そのために有効な福祉資源も使用する(このときネットワークは必須)。
診断名ははじめは必要だが、長い間支援していると、いい意味でその診断名に関係者全員(当事者含む)「飽きて」くる。それよりも、「いま」、「もうちょっと楽になることができて」、「もうちょとお得な」、具体的支援と情報がほしいという議論に移ってくる。こうなれば、支援は支援としてそれなりの軌道を進んでいる。
a〜cの背景を知りながら、1〜10のスモールステップをゆっくり進んでいく。三歩進んで二歩下がるは当たり前。そのために、支援者との面談(でのフォロー)がある。支援の過程の中で、福祉システムを使用したほうが幸福になれると関係者(当事者含む)が判断した場合、障害者に「なる」。障害者に「なった」としても、三歩進んで二歩下がるのペースで進んでいく。


★支援サイドからは、以下の三段階がある。
A.アウトリーチ支援
上の生活の状態の、1〜3が主な対象。保護者面談が中心。場合によっては訪問支援も。
B.生活体験支援
上の、4が対象。NPO等での、会話・ゲームに始まり、料理・清掃等の日常生活体験、スポーツ・外出等のレクリェーション体験をスモールステップで体験していく。
この段階は見えにくい支援ではあるが、この段階を経なければCでの支援が根付きにくい。その意味では最重要。従来、この段階が理論化されていなかった。
C.就労体験支援
 上の、5〜9が対象。ちなみに、多くのサポートステーションではAとCしかないため支援が定着しない。成功しているサポステは何らかの形でBをとりいれている。

★ここに、以下の二種類の支援のタイプが含まれている。
◯通所型支援
地域若者サポートステーションやNPO等。
◯宿泊型支援
いわゆる「若者自立塾」(民主党に「いらない」と言われて現在名称変更し事業継続中)やNPO等。
良心的な宿泊型支援は、効果抜群である。スモールステップの4〜10が、通所型支援の10倍のスピードで進むと言っても過言ではない。
しかし、技量のある良心的な宿泊型支援はまだ残念ながら数が少ない。そうなると、やはり通所型支援が若者支援の中心になるのだが、上に書いたとおり、「生活体験支援」の重要さがまだメジャーになっていないため、通所型支援は自立成功率が低い。
ちなみに、淡路プラッツが新たに今年度大阪府の補助金事業として行なう「ひきこもり青少年支援事業」(茨木市に「居場所」を新設する)は、この「生活体験支援」の重要さと、ネットワークの重要さを行政レベルで示し、より広く他行政にも知ってもらうことも目的の一つだ。7月にはホームページに掲載してく予定。

以上、若者の生活の状態、若者の背景、支援の三段階、支援のタイプをすべて含めて、「ひきこもりスモールステップ支援」と僕は名づけている。

以前であれば以上のようなことは本になるまでまとめることはしなかったが、大きな病気をした僕は、今自分ができることを自分のペースで今することにしたので、さらっとまとめておくことにした。スモールステップ支援については、これからも随時更新されていくことだろう。★



2011年6月2日木曜日

竹林の中から〜人生を4つの時期に分ける〜 〈支援の現場〉6

4月29日のブログ社会へのスモールステップを実感したで、僕は自分の人生が第3のステージにどうやら突入したようだと書いた。第1ステージは思春期までの自我形成期、第2ステージはそれ以降46才で倒れるまでの約30年間を指す。
現代日本人はしかし、この第2ステージのまま死の寸前まで生きる人が多いようだ。高齢化社会となり、これからはこれまでにもまして、第3ステージを飛ばしたまま最後の第4ステージ(つまり臨死期)に突入する人ばかりとなるだろう。
てなことを考えている今日この頃、作家兼僧侶兼今回の震災の「復興構想会議」メンバーである玄侑宗久さんの本を読んでいたらこんなことが書かれていた。

仏教を生んだインドでは人生を4つの時期に分ける。人生の基本を学ぶ「学生期」、結婚・家庭・仕事・社会的責任等に直面する「止住期」(わかりにくい表現だが、住む=ライフに留まるという意味だろう)、それが終わって個人に戻り林の中で住む「林棲期」、最後に、旅のなか所有物を減らしていきつつ死を迎える「遊行期」。玄侑氏によれば、ブッダはまさにこのとおりの人生だったらしい(玄侑宗久『死んだらどうなるの?』ちくまプリマー新書p34)。
確か、作家の曾野綾子さん(僕の個人的好き嫌いは保留ということにしておきます……)の本やインタビューでも、この最後の時期において「モノを捨てる」ということをさかんに提唱している。彼女はクリスチャンだから玄侑さんとはそれほど宗教的交流はないと思われるが、ふたりが示し合わせたように「最後は所有物を減らす」ということに言及しているのもおもしろい。
僕も最後はそうしよう。

ところで、僕がいうところの第3ステージ、古代仏教でいうところの「林棲期」であるが(というか古代仏教と自分を同列で扱ってはいけないいけない)、これに言及するものには今のところ出会っていない。最後の「遊行期」に関しては、曾野綾子さんはじめいろいろな人達がそれぞれの立場から述べている。でも、その前の、竹林で静かに本を読みながらじっくり一人の時間を過ごす「林棲期」について述べているものは、あるようでない。
それはそうだろう。記事・エッセイ・小説・論文などを書いている人たちはバリバリ社会に参画している人たちでもあり、そんな、竹林でおっとり本を読み人生から逃避している時間などない。竹林ではなく研究室や書斎や新聞社で、仕事や社会や自分や家族のために「書く」。
同じく本を読んで書く作業ではあるが、社会に積極的に向かっているという点で、それは林棲期ではない。それは人生の第2ステージである止住期なのだ。
モノを書く人たちでさえこうなのだから、組織に属しモノをつくったり売ったりする人たちは、もうバリバリの止住期だ。何も会社人間だけを指すのではなく、家庭や地域社会で積極的に活動することもここには含まれる。会社や家庭や地域社会で、いま、多くの人が充実した人生を過している。

僕も、淡路プラッツというNPOで充実した日々を過している。この頃は病気が徐々に回復し始め、勤務している数時間の中では以前のように脳が複数の用件を同時にこなせるようになってきた(これを僕は脳のデュアルコアプロセッサ化と呼んでいる)。時間限定ではあるが(3時頃になると電池切れ)脳はデュアルに動いている。
しかし、一旦入った林棲期の心境は、どうやらそのままのようだ。いや、せっかく入った林棲期に愛着が出てきたようだ。また、人間には林棲期が必要だという確信も抱き始めた。さいろしゃの松本君のようにはすべてを実践できないが、僕は僕なりに、高齢化社会における林棲期というものを真面目に考え、実践していきたいと思っている。

ひきこもりの青少年たちは、今回の人生ステージの言葉でいうと、止住期の手前で引き返し、学生期の入口までさらに引き返した時期にいる、とも表現できる。社会のなかでそれなりに何かを成し遂げていないひきこもりは決して林棲期ではない。そのずっとずっと以前の段階で立ち止まっているのだ。
だからこそ、社会参加王道の第2ステージ(止住期)にいる人の言葉ではなく、ある意味枯れた立場にいる林棲期にいる人の言葉が届くと思う。僕は、竹林の中から、社会参加に悩んでいる人たちに向かってやんわり言葉を投げかけていこうと思う。★