投稿

7月, 2011の投稿を表示しています

「映画」はすでに死んでいる 〈映像〉

前回のくるりの記事で僕は退院後音楽が聞けなくなったと書いたが、そういえばもうひとつあった。
それは、映画なのであった。だが音楽と違い、映画には病気の前からその前兆はあった。見る映画といえば、大阪大学臨床哲学/カフェフィロのシネマ哲学カフェ関係の映画だけ。それも九条にあるシネ・ヌーヴォという単館系映画館でやるからそれなりに雰囲気があり、そのあとの哲学カフェとも重なって「映画を見る」というモチベーションを何とか維持できていたのであった。
ふだんの日常生活では、映画はほとんど見ず、レンタルものは1本30分がいくつか収録されたアニメか、『エヴァンゲリオン』みたいな大作映画のみ。いずれも、僕の趣味であるとともに、カウンセリングで知り合う若者たちとの共通の趣味でもある。いわば公私混同というか一挙両得な作品チョイスなのであるが、まあいわゆる普通の映画は見ない。テレビでやっている映画も、はじめから終わりまできちんと見たことはそういえば何年もない。


前回書いたとおり、僕は中学から『ロードショー』を定期購読していた田舎のおマセな少年であった。あの頃は日曜洋画劇場をはじめとして、とにかく隔日で夜9時から各局名作を放映していた。今みたいに、エンタメ路線の派手で単純なハリウッド映画とか、タイアップ基本でマンガが原作のまさに「マンガみたいな」邦画ばかりがテレビで放映されるのと違い、普通に名作がお茶の間で見られた。
僕は、四国の実家でこたつでゴロゴロしながら、「ゴッドファーザー」も「太陽がいっぱい」も「俺たちに明日はない」も「風とともに去りぬ」も「慕情」も「サイコ」も「エクソシスト」も「七人の侍」も「砂の器」も、おまけに「エマニュエル婦人」まで、ぜ〜んぶ、テレビで見た。カットされていようが吹き替えだろうが、そんなのはどうでもよく、そうした名作群を、最も多感で吸収力が高い年頃に見ることができたのはよかった。
だから、それら映画の背景の情報が知りたくて、毎月『ロードショー』を買っていたというわけだ。


だからその延長で大人になってからも、話題作は見るようにしていたけれども、この頃、「待てよ」と思うようになった。
もしかして、僕が映画を見なくなったのは、僕がおっさんになって(おまけに病気までして)映画を見れなくなったというのもあるけれど、もしかするともしかして、「映画」という機能そのものが、そろそろ時代的に終わっ…

くるりは年をとらない 〈音楽〉

病気をして一番変わったことというと、音楽をまったく聞かなくなったということだ。病気までは、自分で料理を作って、ワインでも飲みながら週刊文春を読み、バックには音楽(ボサノバとかジャズとか邪魔にならないやつ)が流れるという状況が、僕には至福の時間だった。
だが、料理と週刊文春は今も変わらず続けているものの、音楽が不要になった。これはお酒を飲まなくなったことが原因だと思われ、理由はわからないが、お酒がないと音楽も不要になる。
ではテレビを見るかというと当然見るはずもなく、まったくの無音のなか、だだっ広いリビングの真ん中で一時間も二時間も週刊文春を読む僕がいる。これが無性に落ち着くのだ。

でも先日、こんなのでいいのだろうかと思い、やっぱりたまには音楽も聞かなくっちゃと思ってitunesを開いたが、何となくダウンロードがいやになってきて、久しぶりにモノとしてのCDでも買うか、という気分になった。
近所のHMVは入院中つぶれたみたいなので、気は進まないけれどもツタヤのレンタルでないほうのコーナーに行って物色した。
でもなんだこれは、ツタヤはAKBとエグザイルとKポップしか置いてない。レンタルコーナーに行けば当然たくさん種類はあるが、僕は久しぶりにCDを買いたかった。ダウンロードでもなくレンタルでもなく、値段が高くて時間が経つと単なるモノになってしまうのが(今回の引越しで何百枚も昔買ったCDを捨てた)わかっているものの、あの「CDを買う」という行為がしたかったのだ。
で、やっとのことでこれだったら買ってもいいかと思って購入したのが、くるりの新しいベスト盤。「tower of music lover2」というタイトルで、くるりのホームタウンであり、僕も実は8年住んだ京都のあちこちの風景がジャケットや歌詞カードの写真に使われている。towerというのは京都タワーのことね。

中身は、聞いたことのある曲ばかりだなあと思ったら、CMソングが何曲か入っていた。あとは、何年か前にDVDで見た、オーケストラといっしょに演奏した曲群も入っていた。岸田繁は、相変わらず覚えやすくてどこかで聞いたことがあるような曲と、ほろりと苦い詞を書く人だ。
岸田繁は76年生まれというから、もう35才くらいになるのかな。立派な団塊ジュニア世代だ。しかし、ジャケットを見る限りはまったく年をとっていない。京都の学生のま…

なぜ「子ども」か② 〈東日本大震災と我々〉

前回このタイトルをつけた理由は、今回の原発事故に際して子どもの健康や命が第一に守られてようとしているが、あまりに子どもが突出しているように感じられ、子ども以外のマイノリティ(たとえば超高齢者・認知症高齢者・障害者等)の健康や命と順列をつけているようだがそれでいいのか、ということを、やんわりと述べるつもりだった。
だが、僕の脳は血圧でやはりぼんやりしており、子どもが放射能に関して大人の何倍も感受性が高いということがその第一の理由であることにあとで気がついた。また、子どもは放射能に関して知識をもつことができないから不利、という理由があることも知った(この点は極度の認知症や知的障害も当てはまるが)。

僕はつまりは、子どもを守るというその議論の裏には、あからさまに「この国をつくり維持する次世代だけは保護する」という動機があるのではないか、あるのだとすれば、それは悪いことではないのだから、「この国の将来を担ってくれる子どもたちをまずは守ろう」と直球でPRしてほしい、と言いたかったのだと思う。
30年、50年先を考えて政策を進めるのが政治であり行政なのだから、それはまったくわるくはない。わるいどころか、では、その子どもたちが大人になる頃の将来の「この国のかたち」をどうすることがベターなのか、という議論にも直結する。
そうした重要な議論がもしも「子どもたちを守ろう!」提言の裏にあるのであれば、むしろそれを全面に出し、「〜のような国になる日本を将来支える子どもたちをまず守ろう」と、直球でPRしてほしいのだ。

そうすることで、社会的弱者として守る必要のある超高齢者や障害者との区別もできる。守られる意味がはっきりすれば、守る側の社会にも混乱は起きない。超高齢者や障害者は福祉のため、子どもは将来の日本国家のため、と守る意味を明言すれば、2ちゃんねるあたりのくだらない逆差別議論のようなものは防げるのではないかと、まあこんなはっきりとした物言いではないにしろ、このようなことを今回は書くつもりだった。

でも、単に(といったら子どもに失礼だが)、子どもは放射能に対する感受性が高いから守ろう、という話だったのですね。それは当然そうすべきだから、それ以上まわりが言うこともない。

けれども、あと10年もすれば今の子どもは20代になる。福島第一原発周辺はものすごく奇妙な原始林になっているかもしれない。…

なぜ「子ども」か① 〈東日本大震災と我々〉

水曜日に聞いた侍学園の長岡さん講演レポートは、何となくだいぶ前のような気もしてきたのでやめる。そのかわり、関西カウンセリングセンターK事務局長がFacebookにアップした当日の写真を無断転載しておこう(ごめんなさい、K事務長!)。うまくリンクできるかな。

で、今日は日曜日で、僕もこの頃はだいぶ普通に仕事ができるようになってきており、でも前のような仕事の仕方はしないと心に固く誓っているので、ぼんやり過ごそうと思っていたのだが、こうしてパソコンに文章を書くのは、僕にとってはどうやら仕事ではないらしい。思い起こせば25年前、さいろ社を創設した頃から、延々こうしていろんな媒体で文章を書き続けてきた。
いや、もっと思い出すと大学の「文芸部」時代から、延々何かを書き続けてきている。いやいや待てよ、もっと思い起こすと、高校時代から、小説みたいなものを書き始めたな(一向に目が出ないが)。
そういうわけで、こうした文章書きは僕にとってはまさに僕自身を示す行為なので、まったくストレスとならない。特にブログは、書いてアップするだけという、まったくもって楽な媒体だ。ストレスの元どころか、ストレス解消の方法なのだ。

ストレス解消といえば、文章の他に、僕は毎日、新聞や週刊誌を読むことで何かを発散している。何を発散しているのかはわからないが、何かすっきりする。だからこれも、20代の頃からの習慣となってしまっている。
新聞は、朝日新聞や日経を買う。朝日は00年代はよくわからない編集方針とレイアウトになっていたが、ここ数年はまともになってきたと思う。00年代は2面にいきなり福祉レポートが載ったりとラディカルではあったが、マスコミとしてはマニアックに走り過ぎていた。今はそれなりにバランスが取れている。
朝日らしさの「市民運動」っぽさも、ご愛嬌程度に最近は薄められ、どちらかというとワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズトは読んだことないが、ワシントン・ポストとかニューヨーク・タイムズっぽい(体制内リベラルということ)。土曜と日曜の付録がたいへんおもしろいので、だまされたと思って、日曜のグローバル版だけでも読んでみたらどうだろう。
日経は、最初はそのわりきりが鮮烈だったのだけど、慣れると飽きる。だから僕は時々しか買わない。株式欄も意味わからんし。毎日は平凡すぎるし、読売は昔の新聞すぎる。ちまたで話…

システムを自力ではつくれないこの国 〈社会〉

おかげさまで、今月書いたいくつかの書評が評判がよく、いろいろな人に評価していただいた。書評の評判がいいということは、つまりはその元になっている本(工藤さんや長岡さんの本)が非常によく書けており、かつタイムリーだったということだ。
この前は、僕の地元(兵庫県)の紀伊国屋のビジネス書欄で、工藤本が平積みになっていた。表紙のあの写真に微笑みかけられたので微妙に恥ずかしかったが、両書とも今時代が求めている本だということは確かだろう。

昨日は傷病手当中の休みの日で、久しぶりにブログのことも何も考えずに梅田に行って買い物してきた。身体がだんだん元気になってくるとやはり以前の習慣が復活してくるもので、なんやかやいっても80年代が心の故郷である僕は、コムデギャルソンのTシャツを買ってしまうのであった。
ギャルソンも、川久保玲が引退しまうと、あとはどうなるんだろ。「my energy comes from  freedom」と堂々と書かれたTシャツを、川久保玲引退後も作れるんだろうか。

そのfreedomTシャツではなくて、もっと変なTシャツを昨日は買ってそれを着て今日はプラッツに出勤しているわけだが、今日も書評は書かない(一昨日の長岡さん講演で買った『ダッセン』は読んでますが)。今日もだらだら日記です。

昨日かな、朝日新聞を読んでたら「生活保護」の特集をしており、平松大阪市長をはじめとする三人のそれぞれの意見が載っていた。生活保護もそうだが、障害者年金も含めて、多くの若者の生き方(経済的成り立ちといったほうがいいか)は、そうした公的システムと、ある程度の自助努力を組み合わせた上で、それぞれがそれぞれなりに経済的になんとか維持していくという方向にシフトしていくだろう。
たとえば、障害者年金で何万円、アルバイトで何万円、親からの(ないしょの)仕送りで何万円、計15万円、といった具合だ。これを、生活保護何万円、アルバイト何万円、親の(ないしょの)お小遣い何万円、計13万円と言い換えてもいい。
いずれも所得としてはかなり低いが、非正規雇用労働のみで月収13万円の人も現在別に珍しくないから、ライフスタイルとしては最低限の収入ではあるが、なんとか食べてはいける。だが、超高齢化社会の社会システム維持を考えたとき、生活保護や障害者年金はたしか国民年金支払いが免除になったはずだから、これらが増えす…

7/20長岡さん講演と、7/23スモールステップ最終日

今日は午前中は某公的機関でケースカンファレンスが行なわれ、プラッツも僕ともうひとりスタッフが参加した。病気前はよくこのような行政民間合同のカンファレンスにプラッツは参加しており、NPOではわりと珍しいことではないかと思う。プラッツのミッション「社会参加とネットワーク」は、このような地道な支援の取り組みから積み上げられていく。

プラッツに戻ってからの午後は、スタッフとの短い打ち合わせを数本と、当事者面談を1本。病気後は経営仕事が主となった現在、実際に面談支援する機会はぐっと減った。減ったが、やはり僕はこのような面談の支援が好きだ。

で、今日は前回の日記からまだ2日しか経っておらず、まさにこれが「隔日」ということなんだから今日も熱くブログらなければいけないんだども、そう毎回毎回ディープな書評も書けないなあと思っているうちに、今日は7/19であることに気がついた。
明日20日は、前回書評でとりあげた長岡さんが大阪の関西カウンセリングセンターにやってこられて講演をされる日なのだ。詳しくは、「『誰かのために自分を使う』サムガクの長岡さん」を参照していただきたいが、僕も1年前に果たせなかった約束を遂げるために行こうと思っている。定員の場合は申し訳ないが、関心ある方は今日中に同センターに問い合わせてみてはいかが。激やせした(といっても見た目あまり変わらない)僕もどこかに座っています。


23日の土曜日は、ひきこもりスモールステップ講座の最終回。これは親御さん対象で、当ブログのほとんどの読者は親御さんではないだろうから直接届く案内ではないと思われるものの、関心ありそうな親御さんが身近にいらっしゃればご紹介ください。
石田統括リーダーの進行のもと、ひきこもり青少年の社会参加の鍵を握る保護者のあり方について、「ポジティブな親のあり方」を考えます。講師として僕も参加予定。


そういえば昨日は、なでしこジャパンに日本中がわいた一日でもあった。このことが東北や日本を元気づけ、日本の女子の強さにまた注目が集まるだろう。確か昨年、20代の平均年収が男女逆転したと(女性の年収が高くなった)報道されていたが、世論や時代のエートスまでをも女子がリードしている。
これでますますひきこもりが、男子の弱さの象徴として注目されるかもしれない。僕としては、弱くて自信が限りなくないかもしれないけれども、そのかわりにとてつも…

いくつものラインと、「自由」 『ライン』エピソード5〜10長岡秀貴著/HID BOOKS 〈書評〉

最近体調もかなり復活し始め、あいかわらず夕方近くには脳はぼんやりするものの、そのぼんやりがやってくるまでの時間が、1ヶ月前と比べてもだいぶ引き伸ばせるようになってきた。脳の回転具合も、血圧上昇のためのそのぼんやりさがやってくるまでは、以前のようにデュアルコアプロセッサのように働き始めている。
それで調子に乗り病気が再発しては仕方がないので、スタッフには甘えつつ早めの退社をしているのだが、やはりハイテンション気質は変えようもないというか、表現を変えると高血圧気質はどうしても変えようもなく、体調が大丈夫なうちは張り切ってしまう。
たとえば昨日などは、ピンチヒッターで僕が「スモールステップセミナー」の講師(の一人)を引き受けたのだが、目の前に困っている親御さんが10人もいらっしゃると、どうしても熱く語ってしまう。
たとえば一昨日などは、今度茨木市でオープンする「セカンドプラッツ」のネットワーク機関顔合わせ会のようなものがあったのだが、そこでもやはり張り切ってスピーチしてしまった。
以前からその傾向はあったものの、病気のあとは特に、「自分が必要とされていれば、自分を必要としている人たちに尽くす」というのが顕著になってきた。いろいろ本を読んでいると、大病のあと人は誰もがそうなるようだ。

そんな日常が始まったせいか、「隔日刊」と銘打ちつつも早くも「週2刊」に戻りつつある当ブログであるが、前回取り上げた長岡さんの新刊『ライン』をやっと読み終えたので簡単に書評しておこう。
前回のエピソード1〜4もよかったが、今回の5〜10もいい。僕は超早起きということもあって実はさっき読み終えたのだけど、涼しい朝の風を感じつつ、時々は爆笑しながらも何度もジーンときてしまった。これはファンが増えるのもわかる。長岡さんはとても魅力的な人なのだ。
前回書いたとおりこれまで氏は2冊本を出版している。僕は未読だが、それらは自叙伝的なものだという。本書にもエピソード9の入院話の中に、少しだけ16才の頃の大病の思い出が綴られている。そうか長岡さんも若い時から大病しているんだ、だからこそ、これほどの支援に対する迫力が生まれてくるんだ、と自分の病気をまたもや振り返りながらしみじみ僕は思い至った。
死との境界(ライン)に接して初めて沸き上がってくる、“他”とのつながり。無理してエゴを捨てるというわけでもなく、無理して他者に入ってい…

「世界でその子だけ」を感じとれる人 『ライン』エピソード1〜4 長岡秀貴著/HID BOOKS

今日は午前中、大阪府の新しい事業の説明会がWTCであり、リハビリがわりに出席してみた。その帰り、WTC向かいにあるビルの2階カフェで、ブログを更新すべくドコモのクロッシィ(最近買った)にスイッチを入れ、マックブックエアーを開いてみた。一度やってみたかったのだ、カフェでのブログ更新!
で、今回は、前回の工藤さん書評に気をよくして、またまた書評ってみる。著者は、噂の「NPO法人 侍学園スクオーラ・今人」代表の長岡秀貴さん。工藤さんより3〜4才年上だと思うが、長岡さんもまた団塊ジュニアの上のほうの世代と言ってもいいだろう。

長岡さんはこれまで2冊の本を出版しているという。失礼ながら僕は、今回の『ライン』が初めての長岡本だ。氏のカリスマ性は一部では有名らしく、僕も実は昨年の夏にお会いするはずだった。その計画も具体的にたてていたものの、残念ながら僕の病気がその計画を頓挫させた。
氏の文章は独特で、詩のような散文体を随所に散りばめつつ、ゆっくりとエピソードを紹介していく。本書によると、これまでの2冊は主としてご自分のことが書かれているらしい。そこでもおそらく、この散文体は炸裂していることだろう。本書を読み終えたあと、これまでの2冊にもあたってみたいと思う。

今回は全部で10ある「エピソード」のうち、4までを紹介してみよう。いずれも、侍学園設立前後に出会った若者やその保護者が紹介されている。エピソード1は摂食障害の女性、エピソード2は長らくひきこもってきた男性、エピソード3は迷える母親に翻弄される男性、エピソード4は家庭内暴力を受ける母親が、それぞれ「主人公」になっている。
長岡さんは、僕が気軽に用いたように「摂食障害」や「家庭内暴力」といった言葉を簡単には使わない。ひきこもりに関しては珍しく「ひきこもる」という行為に関して考察しているが(p39)、僕も含めた普通の支援者が気軽に使うようには、それらの言葉を使わない。
あくまでも目の前にいるその当事者(クライエントと氏は表現するが)の描写を細かく書いていくことから始めるので、何ページもたってから、「ああそうか、これは摂食障害の話なのか」と気づかされる。
普通こうした本は、たとえば「ひきこもり」、たとえば「リストカット」、たとえば「発達障害」など、現在固定しつつあるカテゴリーをまず全面に出してから、次に「ひきこもりの特徴は……」「アスペルガーの…

「18番目」の分野 『NPOで働く』 工藤啓著/東洋経済新報社〈書評〉

イメージ
■NPOの17の活動分野

新聞好きの僕にとって、今日のような新聞休刊日はつらい。でも今日は、読むものがあった。
それは前回当ブログでもとりあげた工藤啓さんの本http://toroo4ever.blogspot.jp/2011/07/npo12.htmlだ。今日の午前中は、ゴロゴロと横になりながら、同書の残りを読みきった。

3章は「NPO法人育て上げネット」のスタッフ紹介(を通したNPO経営の諸テーマの提示)で、4章は協力企業の紹介(を通した、現在のNPOが抱える企業との連携問題)だ。
5章は、NPO活動にさまざまなかたちで協力したいと考える読者=市民=個人に対しての実用的アドバイス(その裏には「これからの市民活動の考察・提案」という側面も見え隠れする)、という構成になっている。

前回紹介した1・2章も合わせると、200ページちょっとの本にしては濃密な内容で、青少年自立支援に興味がある方だけではなく、21世紀の日本の幅広い意味での市民活動(家族・経済・政治・地域等、さまざまな意味がそこには含まれる)に関心がある方には何らかの示唆を与えることになるだろう。

前回は、ひきこもり・ニート支援における文脈の中で著者を位置付けてみた。それほど的外れでもなかったなあと今日も思うが、今日すべてを読みきってみて、「日本と青少年自立支援」みたいな大きなことも考えたりした。

本書の172ページに、特定非営利活動促進法に掲げられる17の活動分野が紹介されており、NPO法人育て上げネットはこの17分野の中で、(2)の「社会教育の推進を図る活動」、(11)の「子どもの健全育成を図る活動」、(15)の職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動、(17)「前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡・助言又は援助の活動」を選択しているそうだ。

僕が代表を務める淡路プラッツでも、そういえばNPO申請の際にこの17項目の中からプラッツの活動に重なるようなものを複数選択したなあと懐かしく思い出したが、プラッツも、確か育て上げネットの選択とそれほど変わりはない。青少年の自立支援を行うNPOはまあそんなものだろう。
と思ってそのページを何気なく読み飛ばし、そして「おわりに」までたどり着き、ああなんとか読み終えました、工藤さん・コネクションズ大阪のT所長献本ありがとう、と思いながらうとうと…

ソーシャルなゴースト 『NPOで働く』 工藤啓著/東洋経済新報社

イメージ
■「ゴーストのささやき」

一昨日だったかな、コネクションズ大阪(NPO育て上げネット/大阪市・若者サポートステーション)のT所長が新大阪の事務所から自転車で淡路プラッツに颯爽とやってきて、1冊の本を置いていかれた。

そのT所長も3章に登場する、NPO法人育て上げネット理事長の工藤啓さんが書いた一番新しい本だ。
1章は主として経営の立場からの概論、2章は育て上げネットの草創期からの細かいエピソードが綴られている(3章はスタッフ紹介、4章は協力団体・企業の紹介と続く)。
人によっては苦労エピソード満載の2章に共感するのかもしれないが、やはりメインは1章だろう。経営の具体的中身まで紹介されており、本来事業と行政受託事業のバランスに悩む姿などはとても勉強になる。

おもしろいのは、財務リスクを伴う受託事業について、そうしたリスクと向き合いながらも受託し運営していくことについて、経営的側面からは理論的に説明できないと著者が告白している場面だ。
「それでも官民協働事業である受託事業によって、僕らが本業で実現できていない“困難を抱える無業の若者に無料で支援サービスを提供する”ことが可能になる。これほど支援者にとって魅力的な理由はない」(p40)

2億円以上の売上高をもつNPO経営者でありながら、このように、著者には経営者でありながら時々「支援者」のスピリットが顔を出す。
僕はこのような自分でも理由がつかないスピリットのようなものを、哲学者のデリダやアニメの『攻殻機動隊』に倣って「ゴーストのささやき」と名づけているが、本書の著者も、時々このようなゴーストに縛られている。そこが、本書の魅力でもある。

■NPOが「仕事」のひとつになった

本書は、経済出版社として老舗の東洋経済新報社から出ている。心理学系の出版社でもなく、思想系の出版社でもない、経済問題王道の東洋経済、だ。

出版社としては、NPOも法律が施行されて10年以上がたち、当初のボランティア的側面だけではなく、「経営」の側面から論じる時代になった。その代表として著者に執筆してもらうことにしたのだろう。
そしてたまたま、その著者のNPOの市場/フィールドが「ひきこもり・ニート」だった。

おそらく、出版社からすれば、著者のNPOの顧客/市場/フィールド/社会貢献先(いろいろ表現できるが)は、「ひきこもり・ニート」でなくともよかった…

NPOは「山犬」になれるのか

イメージ
■セカンドプラッツ

まだホームページを変更していないが、11年度のプラッツは、茨木市において、大阪府の補助金事業である「ひきこもり支援事業」を展開する。
その事業は「セカンドプラッツ」という超わかりやすい名前で、「アウトリーチ→生活支援(居場所)→就労支援」という、支援の三段階理論を実践化していく予定だ。


6/28の当ブログ「スモールステップ支援のフレームワーク」の最後に貼り付けてある表のなかに、この三段階は明示されている。
理屈通りにはなかなか物事は進まないものだが、僕としては、10年以上取り組んできたひきこもり支援がこのように簡単な表となることは感慨深い。

こういうのにも著作権があったらいいのにとは時々思うが、それよりもこのような考え方が広がっていくことを望む。スモールステップを焦らずに踏んで支援していくと、必ず結果はついてくるから。

そういえば昨日3ヶ月ぶりに淀川キリスト教病院の脳外科外来に行き、いろいろ医師からアドバイスを受けた。
非常に印象深かったのは、倒れる前のハイパーな感じのほうがむしろ異常で、今のようにすぐに疲れやすく眠くなるほうがむしろ年相応かも、という医師の言葉だった。
そうか、僕も病気を通過して、普通の47才になったのかもしれない。普通の47才とは、疲れやすく、もうあまり無理がきかなくなるお年頃なのだ。

■「中間労働」

そのように日常をやり過ごしながら、この頃気になる言葉がある。それは、「中間」という言葉だ。
主にそれは「中間労働」という言葉で流通し始めており、僕の仕事の分野でもある、若者就労支援の業界でも流通しているようだ。

それは、正規雇用を目指す若者たちが少しの間立ち寄る段階。
既存のアルバイトでもなく当然正規雇用でもなく、そして就労実習のような無報酬のものでもなく、まさに中間的な労働。自宅で行なわれるものもあれば、おそらく淡路プラッツが行なっている「ニートによるひきこもり雇用支援事業」のような期間限定の行政委託事業までをも含むものだろう。

発達障害支援の文脈でも使われることがあるようだ。NPO法人育て上げネットが実質運営し、「シェアするココロ」代表の石井さんが講演するこの講座が近くで開かれれば行ってみたいが、こういうのはいつも東京のイベントだから無理だ。


■社会が未経験のジャンル


気になる言葉は、中間労働というよりは、「中間」のほうにある…

週3にチャレンジ!

土曜日の「発達障害と自立を考える研究会2011」はおかげさまで盛況で、大阪・淡路の場末のNPO(プラッツのことです)が開催場所だったにもかかわらず、20人近くの専門家・支援者にお集まりいただいた。
相変わらず男性はほとんどおらず(というか発表者・関係者以外は男性ゼロだった?)、熱心な女性参加者ばかりの会だったが、福祉・支援業界だけではなく、日本の「現場」は女が支えているというのはもはや常識で(一部の肉体労働中心の現場は除くが)、あの場に男がいるほうが僕などは驚くだろう。
仕事の現場にしろ遊びの現場にしろ、我が国の場合その中心は完全に女が占め、男はどちらかというと管理側・発表者側にいる。だから日本は、今回の地震でもそうだったが、「現場は強く、戦略は弱い」という構図が続いていると僕は思っている(注……こうした議論の場合、仕方なく古典的ジェンダー論から書いています。セクシュアリティの視点から見た幅広いグラデーションを持った“性”に関しては、どうしてもこうした議論では追いつけないのが実情。僕も未だに困っています)。

僕の発表自体は、なんとなくよれよれで、やっと現場復帰したなあという感じだった。タイトル「ひとり歩きする“発達障害”」に関して、僕としては、支援の現場で誰もが安易に発達障害にされてしまっているのではないか、ということに重点を置きたかったのだが、当日の研究会の場では、いま社会では発達障害に対するバイアス=偏見が幅広く蔓延しているのではないか、ということのほうに議論が集中した。
つまり、発達障害概念の不安定期であるいま、①新しいジャンルゆえの診断の拡散、②新しいジャンルゆえの偏見の蔓延、のふたつが見受けられ、今回の発表者は①が気になるが参加者のほとんどは②が気になっているという構図だった。

この結果は今年度末あたりに小冊子としてまとめるつもりでいる。次回は9/3(土)10時より、「障害告知と受容」というテーマで開催する。発表者は今回と同じ、僕とプラッツI統括リーダーです。

僕の復活と合わせるようにして、この日記も以前の濃いエッセイという感じから、仕事の報告や日常雑記に変化してきた。このスタイルの場合、中身はそれほど掘り下げることはできないが、書くこと自体は前にもまして簡単に書けてしまう。よって、ブログの回数自体を週3くらいに増やしてみようと思う。これでやはり負担であ…

ひとり歩きする“発達障害”

昨日の木曜日は僕は仕事は休みで、以前であれば終日自宅で静養していたのだが、この頃は少しは出かけることができる。昨日は、ずいぶん以前にお世話になった(阪大臨床哲学の情報を教えてもらった)元某新聞論説委員Iさんに会いに江坂まで行った。 Iさんはいま、すごくおもしろいことを始めようとしているのだけど、それはまたもう少し具体化したあとに当ブログにも書いていこう。 僕にとってはこうした動きもリハビリの一つ。でも、このようにいろいろな人に好奇心を持って会いに行けるのは、さいろ社の頃に戻ったような感じで嬉しい。「人は力なり」というのは本当で、ここ5年ばかりの僕は、これまでの出会いの貯金を食いつぶしているような感じだったが、病気→リハビリ期間を通じて、もしかして新しい出会いが生まれつつあるのかもしれない。
江坂まで行ったものの、話し合いの限界時間は1時間まで。そこが自分でももどかしいが、健康のためには仕方ない。ここはぐっとセーブし、昼食後解散。そのあと梅田にて、コムデギャルソンの骸骨Tシャツを衝動買い。 病気でだいぶ痩せたので、思い切ってSサイズにチャレンジしてみたのだが(今季のTシャツは大きめ)、帰って着てみるとやはり小さかった。けど、似合ってない服を着ることのほうがこの頃はおもしろくなってきているので、このピチピチ感もまた楽しい(それを見せられるほうは迷惑だが)。
明日土曜日の、支援者向け">「発達障害と自立を考える研究会2011」第1回「ひとり歩きする“発達障害”」に備えて(今頃備えるか〜という話だが)、『発達障害に気づかない大人たち〈職場編〉』(星野仁彦/祥伝社)を買ってみる。 僕とI統括リーダーで発表する予定で、僕は、現在発達障害がどのように語られているかということに言及する予定。そうした視点で同書をパラパラと読み進める。 非常に明快・簡潔・正直な語り口で、おもしろい。まだ半分くらいしか読んでいないが、この本には何ら問題はないと思う。現在の発達障害の問題がかなりわかりやすく解説されている。
ではなぜ、発達障害はいま“ひとり歩き”し、発達障害の捉え方が拡大している(誰もが発達障害に「されてしまう」)ように見えてしまうのか。 それはもしかすると、誤った諸テキストが誘導したものではなく、諸テキスト(研究論文・発表レジュメ・発表コメント等、発達障害に関するすべてのテキスト的言説)…