投稿

8月, 2011の投稿を表示しています

「動的ひきこもり」の実態把握が必要だ  8/27、ドーンセンターでのシンポジウム報告

昨日、大阪・天満橋のドーンセンターで、「ニートによるひきこもり雇用支援事業報告会」があり、たくさんの人に集まっていただいた。行政(大阪府の山本氏)・大学(大阪大学の井出氏)・NPO(NOLAの佐藤氏)だけでなく、同事業を体験し就職した若者も壇上で自分の体験を報告してもらった(プラッツは基本的に若者が人前でしゃべるというイベントはしないが、同事業は特別)。僕はいつもの司会ではなく(司会は統括リーダーの石田)、ひとりのパネリストとしてしゃべらせてもらった。病から1年たち、小さなセミナーの講師はぼちぼち再開しているが、大規模なものは今回が復帰後初めてだった。 当ブログでも時々書いているが、不思議なことにアガリ症の僕が、病気後はまったく上がらなくなった。 今回もまったくアガることはなかったが、どうも会の趣旨とはかけ離れた発言を自分だけ展開してしまったようだ。だから、会のあとはちょっと反省したのだけれども、参加者のアンケートを見ると、それほど評判は悪くはなかった。むしろ、評価されているほうが多かった。大病のあとの励まし票ということを差し引きしても、僕の伝えたかったことはそれほど的外れでもなかったようだ。
僕が伝えたいことはただひとつ。我々の国は、我々がずっと恐れてきた超少子高齢化社会にすでに突入してしまっている。だが、ドラスティックな改革ができない我が国の政治(国民性)は、おそらく年金制度に根本的に手を付けられないままあと10年20年と時間がすぎるだろう。 だが、「制度」として劇的な改革はできないものの、「現場」として地道に粘り改革していくことが得意なものも我が国の特徴だ。年金における「現場」とは、つまりは若者と女性と高齢者がより働き年金を支払うということに尽きる(高齢者が支払う年金とは結局同世代負担になってしまうが……ああ曖昧な思想の我が国よ)。
これとひきこもりやニートの支援がなぜ関係するのか。たとえば、ひきこもりの数(内閣府調査「広義のひきこもり」を基準とすると)でいえば、出現率1.79%で考えてみると、大阪では277万人の若者(15〜39才)のうち、約5万人となる。 5万人と聞いて、ひきこもりやニートの支援者や、保護者、そして当事者自身も含めて、この数字(277万人分の5万人)に頷くと同時に、少し首を傾げるだろう。なぜならその数字は、「静的」実態は反映しているが、「動的」実態は…

凸凹とトラウマ 『発達障害のいま』4章〜終章 杉山登志郎/講談社現代新書

イメージ
■ディックの引用も

前回(2011年8月18日付ブログ)とりあげた杉山さんの本を完読した。最近の僕には珍しく、チェック入れまくりの読書だったのだが、これは子ども若者支援者には必読だろう。


1章2章は医学的解説が多いのでかなり読みにくいが、流し読みでもいいので、何とか乗り越えよう。また、5章は、眼球運動を用いたちょっと怪しいっぽいが実は医学界では超話題の“EMDR”の解説がメインなので、敬遠する人もいるかもしれない。だがそこも何とか乗り越えてみよう。

後半は、精神障害と発達障害の関連をわかりやすく解説してくれているので、1・2章や5章よりははるかに読みやすいものの、そこは医者の文章だから、やはり微妙に読みにくくはある。 でもそこも何とかクリアし、とにかく最後まで読んでみよう。
というのも、この本を1冊読むだけで、最新の発達障害に関する知見がすべて頭に入ることになるから。ちょっと読みにくいけど、著者の患者/患児に対するやさしさは行間から溢れまくっているし、たとえばフィリップ・K・ディックのようなSF作家からの引用がさりげなくされていたりして(p146)、単なる「医者の本」でないことはすぐにわかる。

また、よくある「医者の書いた思想本」でも決してないからご安心を。タイトル通り、愚直すぎるほど、まさに「発達障害のいま」について徹底して書かれている本だ。


■「トラウマ」の導入
このように一冊まるごと最新の発達障害支援/治療に書かれた本書なのではあるが、言いたいことはたいへんシンプルだ。それは以下の3点に絞られる。

①次回のDSMⅤ(アメリカ精神医医学の診断基準)において、広汎性発達障害は自閉症スペクトラム障害に変更されるが、そうした「障害レベル」の発達障害と、その数倍は存在するといわれる「素因レベル」のあり方を区別して捉える必要がある。
通常、素因レベルは障害レベルの5倍は存在するといわれる。本書はこの素因レベルに対して、「発達凸凹(デコボコ、と読む)」と名づける。

②自閉症スペクトラム障害には「タイムスリップ現象」(ここでディックの本が引用される)と呼ばれる、暴力的とも言える記憶の突発的な再現がみられる。
この、障害特有のタイムスリップ現象と、障害に起因する二次障害としてのPTSDによるトラウマ(心的外傷)が重なることにより、当事者は激しくゆさぶれ、傷ついている。

③誕生以来100年を越えた精神…

コア社員・専門社員・支援社員2〜社会保険と契約社員

おっと、もう日曜日だ。この一週間は夏休み明けで再び倒れないように注意していたせいか、ブログがあとまわしになってしまった。ブログというのは更新しないとすぐ忘れられてしまう。元NHK職員で今は経済学者でちょっと過激な池田信夫さんのブログを僕は愛読しているけれども、あんな忙しそうな人なのにほぼ毎日更新されている。しかも、毎回濃い内容だ。そのペースで10年近く続けておられる。池田さんは、よほどの減塩食で、毎日1時間はウォーキングしておられるんだろうな。それでなければ、僕だったらとっくに倒れている。
今週は淡路プラッツの仕事もそろそろ忙しくなり、前回とりあげた『発達障害のいま』(杉山登志郎著/講談社現代新書)を完読する時間がなかった。「発達凸凹」という新概念の提案だけにとどまらず、幼児期のトラウマ(つまりは虐待)と発達障害発現の関係性を探っていくという、ある意味画期的な視点をもった本で、久しぶりの「新書名著」かもしれない。 これは、その凸凹説やトラウマ原因説という視点に反論があったとしても、現代の発達障害あるいは広くは現代人を知る意味で必読という意味で、名著かもしれないとしている。 だから僕には珍しくじっくりと読んでいる(『リトルピープルの時代』なんて流し読みだった)。後半部解説はもう少しお待ちを。
忙しかった今週、たくさんの対話を重ねてきたが、印象的だったのは、当ブログ8月8日に記した「コア社員、専門社員、支援社員」が時々話題になったこと。最近の企業の同行をメディアを通してしか知らず、たとえば「インターンシップ」のきちんとした意味すら最近やっと理解した素人経営者の僕からすれば、このような提案はすでにもう古臭いものになっているとなかば覚悟した上での執筆だったのだが、先進的企業の取組はさておき、こうした提案はまだまだ珍しいことが判明した。 そして、この提案は、ニート支援への現実的システムづくりに活かせるのでは、とも思い始めた。
昨今、「中間労働」という言葉が流行し始め、東京ではセミナーなども開かれ始めているらしい。僕は大阪在住であり、おまけにいまだ傷病手当の身だから、その流行から完全に取り残されてしまっている。でもその言葉が妙に引っかかり、僕なりに、メスが入って能力が半減したこの脳みそでぼんやり考えている。そしてこの中間労働という言葉になぜか引っかかっている人は僕周辺にも複数いる。 それら…

本の楽しさとは、新概念の提示(ここでは「発達凹凸」)と、具体性/一般性の往復にあり 『発達障害のいま』序〜3章 杉山登志郎/ 講談社現代新書 『経営戦略の教科書』講義1〜8 遠藤巧/光文社新書 

昨日の「夏休み明け初日」問題(昨年夏休み明けに僕は倒れた)をなんとかクリアし、今日はいきなりの休養日。たぶん9月か10 月、あるいは年内いっぱいまでは傷病手当が継続すると思われ、焦らず復帰してこうと思っている。とは言いながら、仕事さえしなければ血圧が上がらないから、こうして一人のんびりとブログを書いている時間などは、プチ至福な時間だ。
前回、前々々回と非常に疲れる本をとりあげたせいか、一昨日本屋で何となく買ったのは軽い新書2冊。久しぶりの発達障害関係の本と、最近の僕にはおなじみの経営指南書だ。だいたい僕は何冊かを常に併読しているが(本好きってたいていはそうでしょう)、今回の2冊は、最初から書評にする気でもなく、とにかく「リトルピープル疲れ」を癒してもらうために購入したはずだった。 それが2冊とも当たりだった。特に、発達障害の最新の知見をとりあげた杉山本は、久しぶりの「支援」に関する本だったせいか(よほどのリトルピープル疲れ……)、非常にリフレッシュすることができた。 2冊ともまだ途中だが、2冊とも一応前半の山場は終わったと思われるので取り上げてみる。
杉山本は、話題の「発達凸凹(オウトツではなくデコボコと読む)」という概念を提示した本で、前半は同概念の解説、後半はその根っこにある「トラウマ」の説明へと迫っていく。僕はまだ前半を読んだのみだけど、「最近発達障害の捉え方が変わっているらしいけど、詳しく勉強している時間がない」という方にもお勧めだ。 次のDSM5(アメリカ精神医学の診断基準)で、従来の広汎性発達障害がなくなり、自閉症スペクトラム障害に統一されるという。何でもかんでもツギハギにかき集めた広汎性〜が少し整理され、典型的自閉症と一般人の間に、主に「社会性」の障害という視点から自閉症スペクトラム障害が設定された。 本書では、この新たな自閉症スペクトラム障害と一般人との間にさらに、「発達凸凹」という概念が提案されている。 これは、発達障害支援をしている人からすれば(また、保護者や当事者からも)わりと肯定的に受け入れられる概念だと思う。発達凸凹とは認知にアンバランスさがある人たちのことで、障害レベルまでいかないが素因レベルとしては立派に発達障害の水準にある人たちのことだ。同書では、障害レベルの5倍はこの素因レベルは存在するとしている(p41)。 で、この素因レベルが何によって障害レ…

生の可能性とFacebookの時代 『リトル・ピープルの時代』2.3章〜終章 宇野常寛/幻冬舎 〈書評もどき〉

今は15日の午前中だが、これからブログを書いて帰阪する。四国はくもり空だけど、一昨日のような厳しい暑さではない。昨日、スコールが昼頃降ってから(もう日本は亜熱帯になったのだから、「スコールのような」という表現はやめた)なんとなくすごしやすくなった。

結局、『リトル・ピープルの時代』はきちんと読めなかった。前々回に「痛い本」と書いたがその印象は最後まで変わらず、どころか、2章(一番長い章)なんてまるまる「仮面ライダー論」だったから、痛いどころか超激痛みたいな読書だった、僕にとっては。
だから今回は〈書評もどき〉としている。告白すると、2章の半ばころから飛ばし読みしちゃった。だって、仮面ライダーの細かい内容なんて、僕にとってはどうでもいいんだもの。一応、こういう僕でも「おたく第一世代」と日頃は自負しており、大きな病を体験したあとでも、だいたいのものは読んだり見たり聞けたりはする。

だが、今回は違った。細かい仮面ライダー論は「リトルピープル論」につながり、それは「拡張現実論」(たとえば「セカイカメラ」というソフトを使って現実を「より深く」体験していくことらしい)へとつながっていく。おそらくこの背景には、東浩紀を経由してフランス現代思想へとつながるのだろうが、本書では東は出てくるがフーコーやデリダは出てこない。だから、本書のみを読んでいると、根本理論は決してつかめない。
僕は以前大学院でドゥルーズやデリダやフーコー等を死ぬほど(自分なりにですが)読んだので、「なんとなくあれがネタ元かなあ」と予測はできる。けれども、本書においては、「東浩紀用語」が説明なくさらりと出てくるものの、そのさらに先がないものだから、肩透かしというか汚い言葉を使うとまるでだまされたみたいにあっさり進んでいってしまう。おい、そこはもうちょっと説明すべきだろうという理論的ポイントもさらりとすすみ、どうでもいい仮面ライダーのストーリーがたっぷり語られる。
だからひどく疲れる本だった、これは。やっぱ、理論は理論としてきちんと説明しないといけない。

本の中で、「ひきこもり」という用語も出てきたが、その使い方にしても従来の「思想家が使う一般的言葉としてのひきこもり」からはみ出るものではなかった。だから、ひきこもり論としても読む必要はないと思う。
それも 含めてだが、とにかく内容が古いと感じた(バリバリの新刊ですが)。2章は仮…

猫は自分の死を知らない 〈近況〉

本来なら今回は、前回の続きである『リトルピープルの時代』の終わりまでの部分を書評する回なのだが、何しろこの本は「痛い」(痛い理由は前回参照)。今は2章の真ん中あたりなのだけど、仮面ライダーとウルトラマンを「リトルピープル」と「ビッグブラザー」に対比して論じる姿はあまりに前世紀末的(ポストポストモダン的とでも言おうか)であり、前回も書いたとおり、「死」と「(原発の)永久事故」で覆われた現代の我が国にはそぐわなさすぎる。
それに加えてここ数日は、季節外れのプレゼンテーション仕事が入っていたり、今日は今日で今から四国へ帰省することもあり、あまり落ち着かなかった。昨日のプレゼンは、あまりに集中し熱弁をふるいすぎて、終わったあとは電池切れのアンドロイドのように眠くなったものの、春頃と比べても、僕はかなり元気になった。

そういえば、もうすぐ、今月の19日で、僕が脳出血で倒れてから一年になる。
倒れた日は、ちょうど休み明けの日ですごく張り切っていたところまではよく覚えている。次の記憶は9月になっていて、個室で時々目を覚ましベッドサイドに誰かいる、というシーンが蘇る。そこから記憶は徐々に建物を建てるようにして構築されていき、淀川キリスト教病院の売店で新聞を買ってはベンチで延々読みふけるという入院生活へと移る。
19日に倒れ、9月のはじめ頃はうつらうつらしており、9月の2週目頃からいわゆる「記憶」が始まる。かといって手術後の10日間は昏睡状態だったわけでもなく、家族・友人の話では、僕は看護師相手にいつも以上に饒舌に語っていたそうだ。それも、少子高齢化社会を支える若者のあり方についてなど、政治家顔負けの熱弁だったという。

いくら術後回復が早かったとはいえ、自分の記憶がまったくないというのはものすごく不思議なことで、変な話だが、自分が一度死んでしまったような感覚がある。そして、ラッキーにも後遺症がまったくなく、今はこのようにして大事なプレゼンテーションの仕事にも行けるようになっているから、確かに、退院間際に医師や看護師や理学療法士から言ってもらった「本当に拾った命なんだから、それはたぶん、あなたにはもう少しやることがあるということなんでしょう」という言葉通りなのかもしれない、とやはり今もよく思う。
そんな無私な感じは今も続いており、社会と再接続したいという若者がいれば、自分のできる範囲のなかで何ら…

「決断主義」と若者  『リトルピープルの時代』序〜2.2章 宇野常寛/幻冬舎

イメージ
■「決断主義」とは

最近当ブログは読者数的にも好調で、今回も前回のような「現場で使える」ネタにしたかったのだけど、で、実際使えるネタになると思っていたのだけど、残念ながら超マニアックなネタになってしまった。その「マニアックさ」=現実感のなさについてなら、本書を取り上げる意味があるかもしれない……。

今回取り上げた本と同じ著者が書いた『ゼロ年代の想像力』(早川書房)は、「セカイ系」と「決断主義」の対比で有名になった。僕も時々拡大解釈して引用させてもらっているが、セカイ系とは、『エヴァンゲリオン』に代表される「“僕”の半径数メートルの悩みを、セカイ的危機と戦うことで乗り越える」(より拡大解釈したかな?)というようなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。

「決断主義」とは、「そんな“セカイ”みたいな大きなものはすでにないのだから、半径数メートルで常に起こるさまざまな出来事をその都度“決断”して乗り越えよう」みたいな、これまた超拡大解釈かもしれないが、まあそんなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。『バトルロワイヤル』とか『ガンツ』などがこれに入る。



■ひきこもりと「セカイ系」

僕は一時期、ひきこもりとは、この「セカイ系」的思考を背景にもつ人達だと考えていた。
『エヴァ』の主人公シンジは、映画版最終回で結局何も決断できず何も行動しない。
「自分のまわりにある“セカイ”はすべて自分の敵、というか自分のことをわかってくれない存在だから(自分は本気を出せばエヴァに乗れるのに)引きこもろう」という何もしないシンジが、まるで僕が日常的にかかわっていたひきこもり青年たちと同じ思考をしていたからだ。

実は僕自身にもそのような思考は流れており、だから告白すると、ひきこもり支援は僕にとってそれほど「仕事」ではない。仕事というよりも、何というか、“同志”支援のような感じだったのだ。僕がもし今20才で時代や社会が00年代以降であれば、僕はたぶんひきこもっただろうという意味で。

「決断主義」にはもう一つピンとこなかったものの、自分の青少年支援仕事と重ねあわせて短絡的に、「つまりは半径数メートルの世界でいいから、自分にできることをしろということね」と勝手に拡大解釈し(これはマジで拡大解釈だ)、「“外部”に敵はすでにおらずすべては“内部”になったみたいだから、まあとりあえずできるこ…

コア社員、専門社員、支援社員 〈経営〉

昨日から淡路プラッツは比較的長めの夏休みに入った。いまだ週4勤務の身とはいえ、勤務日の中身はかなり調整してはいるが少しハードになってきたから、ちょうどいいタイミングだ。夏休みは16日まであり、この間、実家の四国にも帰省しようと思っている。
昨日から数日は、大阪の自宅で一人のんびり過ごす予定だ。こういう時は僕は読書以外したいことがないので(いつもの新聞と週刊誌チェックは継続しつつ)、さっそく近所の紀伊国屋へ行ってみた。

夏休みといえば小説、そしてミステリー! と相場は決まっているので、さっそくミステリーコーナーへ。で、店員さんがいろいろ工夫して並べてくれている小説群を吟味してみるが……、うーん、残念ながらダメだった。ピンとくるものがない。いずれも、よく書かれているのはわかっているのだけど、イマイチ白けた僕がいる。たぶんこれは、去年一度、僕が脳出血で死の寸前まで行ったからだろう。「エンタメとしての死」はそれほど抵抗感はないのだが、「客観的出来事としての死」(自分には当分やってこないだろうという前提のもとでの死の描き方)は、読んでても全然ピンとこない。
死は、いつも我々にその可能性のドアを開いている。デリダをわざわざ持ちだす必要もなく、死があるから生が成り立つ。死と生は二項対立するものではなく、死という(無でもあの世でも異次元でも何でもいいが)土台の上に、生という現象は人間の場合は70〜80年くらい現れる。
そんな感覚が当たり前になってしまった僕としては、今は、死を客観的出来事として捉えるミステリーはつまらない。

んなわけで、結局買ったのは、『人事部は見ている』(楠木新/日経プレミアシリーズ)。うーん、休みの時も仕事かよ、と言われてしまえばそれまでなのだが、最近は、ずっと遠ざけてきたこうした経営入門書みたいなのが軽く読めてしまう。
今回は書評する気はないから中身はスルーするとして、本書の最後半に出てきた、これからの会社は、「コア社員」「専門社員」「支援社員」の三段階に分かれる、という予測に少し興味を惹かれた。このような区分、最近の経営書には時々見られ、すでにこれは常識となっており、僕が(青少年支援のプロであっても)経営の素人だから単に感心しているだけなのかもしれない。だが、本書は今年の6月出版で「たちまち5万部!」というオビもついているから、それほど超常識になったわけでもないだろう…

鷲田清一先生の最終講義 8月4日@大阪大学

前回当ブログで書いたとおり、8月4日、鷲田清一・大阪大学総長の最終講義があったので、久しぶりに阪大に行ってきた。阪急電車石橋駅から続く「阪大坂」は、鷲田先生が総長だったこの間にきれいに整備され、以前は泥道みたいだったことなど嘘のようだ。
そのことは最終講義でも先生は触れられていた。「プライドとは他人から与えられるもの」という言葉をキーワードに、環境整備にまできめ細かく学生に配慮していくことで、学生はプライドを形成し、学生自身が自ずと変わっていくことを狙って、「鷲田ロード」は作られたと話されていた。

こう書いてしまうとなんのことはないのだが、その場で先生の話を聞いているといつも「なるほどなあ」と思わされる。それは僕が社会人院生だった00年代初頭でも同じで、当時は先生はまだ普通に講義をもたれていたから、余計そんなふうに感じた。
40人くらいが入る教室に学生はびっしりと座っており、鷲田先生がぼそぼそ話し始めると一言一句漏らさないようなスピードで学生たちはノートしていた。僕も負けずとノートするのだが、話があっちに行ったりこっちに行ったり、またいろいろな人の引用も非常に多く、板書もまったくされず当然パワーポイントなどないから、一見かなりとっつきにくい講義ではあった。
でも、そんなぼそぼそ声をとにかくノートしているうち、いつのまにか90分が過ぎているという、僕にとっては稀有な体験がそこにはあった。
そこで話されたことは数年後に何かの本に収められたりしているから、その内容自体はいつでも後追いできる。だが、あの「ノートしているうちにいつの間にか90分たっている」という感覚はわりと珍しい体験であり、今回もそのようなものを求めて参加したのであった。

鷲田節は相変わらず健在、気づけば2時間近い講義であった。その内容は近いうちに 書籍になるかもしれないのでここでは触れないし、まあ内容自体は聴きなれたものといえば聴きなれたものではあった。
僕にとっては、先生の主題の一つ「待つ」を取り上げたことについて、それまで「待つ」や「聴く」は無為の象徴であり哲学のテーマにはなりにくかったと言われたことが印象的だった。臨床心理学や看護学では、「待つ」「聴く」は(特に「聴く」は)堂々とした主題の一つである。それに対して哲学では「待つ」「聴く」はテーマとしては傍流だという。
なるほど、「主体」が常にテーマの本流である哲学だ…

少女革命ウテナから輪るピングドラムへ 〈アニメ〉

今回のタイトル、わからん人には徹底的にわからんし、わかる人には身体が前のめりになるほどわかってしまうタイトルだろうなあ。サブタイトルに〈アニメ〉とあるとおり、そう、当ブログでは意外ととりあげてこなかったアニメについて、いよいよ、そろそろ、ついに、とりかかってみる。
僕は病気以来アニメを見る体力がずっとなかったが(小説版ガンダムのアニメ化2巻は見た)、体力の復活とともにアニメ欲も蘇ってきつつあるようだ。せっかく硬派なブログで貫きとおしつつあったが、やはりというか何というか、本性が現れ始めた。本性って、健康になればなるほど復活するんですね。

「輪るピングドラム」は、「ウテナ」を作った監督(幾原邦彦さん)が満を持して作った作品だそうで、僕は、仕事中たまたまプラッツで出会った何人かの若者たちから教えてもらった。いまだ10時半就寝の僕が深夜アニメを見れるはずがなくユーチューブで検索してみたが、残念ながらきちんと削除されていた。新作でも削除されないものは削除されないから(特に京都アニメーション系は意図的に残されている)、それなりに人気があるんだろう。
そんなわけで、ユーチューブで部分的なシーンのみ見てみただけなので、本格的批評はDVDが発売される9月末まで控えておこう。
ただ、部分的シーンだけでも、あの「ウテナ」を彷彿とさせるシーンの数々は、かなり期待できる。ウィキペディアでストーリーもチェックしてみたら、予想通りぶっとんでいる。でも、この監督に僕が期待することは、ストーリーもカット割りも色使いも巷評価されている部分はどうでもよくって、つまりはあれから「他者」に関する描き方がどう変わったか、これのみに関心がある。

ここでのあれからとは、「ウテナ」から、という意味だ。
「ウテナ」とは「少女革命ウテナ」というアニメのことで、碓か97年にテレビ東京系で放映された。95年エヴァンゲリオン、96年ナデシコ、そして97年ウテナと、いろんな意味でアニメ史に残る傑作群がテレビ東京において輩出された頃だ。僕はその頃はもう30才になっていたが、そのほとんどをリアルタイムで見た。
その三作のうちでは、すべての点においてエヴァンゲリオンが突出しているが、ウテナも傑作だった。人は奇作という表現で済ませてしまうかもしれないが、最終話近くの数話に関しては、圧倒的傑作と言い切ってもいいと思う。アニメに関心ある人でまだ同作…

その「真っ黒な青空」は僕も知っている 『I(アイ)』いがらしみきお/小学館

イメージ
■生と死の先にある「答え」

このブログでも毎回書いているように、ネットを駆使しながらも、僕は基本的に新聞と週刊誌で情報を得ている人間だ。特に新聞は、どこからでも読めるし、どこにでも持ち運びできるしで、その形態そのものが「究極のデジタル」ではないかと思っている。

マスコミのなかではおそらく一番最初に生まれ、インターネットが出てきた頃には一番最初に廃れるだろうと言われながらテレビよりもしぶとく生き残っている新聞の強みは、究極的にはそのデジタル性にあると思う。

まあそれはさておき、東日本大震災のあと朝日新聞にはたくさんの有名人のインタビューが載ったが、僕の心をいちばん捉えたのは、漫画家いがらしみきおのインタビューだった(6/7「許して前を向く日本人」)。
その中身はこちらの公式サイト「ぼのねっと」から調べていただくとして(全文載ってないかも)、全体の印象が、「ああこの人は一度死をくぐり抜けてきた人かもなあ」と思わせてしまうような、静かだけれども深くて底のないような印象を抱かせるものだった。


その記事か、別の記事だったかのかは忘れたが、いがらしさんが今話題作を描いているという。それは『I(アイ)』という作品で、どうやら「死」や「神」が主題なのだそうだ、ということを知った。だから6月に本屋に行って探したのだけれどもそれっぽい本は置いておらず、売り切れたのかなあと思っていた。


が、昨日近所の紀伊国屋に行ってみると、いきなり平積みで置いてあった。それは新刊で、やっとこの8月に出たのであった。帯には、「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」とある。


■真っ黒な青空


イサオという主人公のひとりが、エピソードの各所で、この我々が当たり前だと思っているこの世界の成り立ちの、その当たり前さを平然と崩す。そして時々、暗闇のようなものが現れる。


いや、暗闇というと「光の陰」のような印象があるから正確ではない。光の裏側としての影ではなく、まずその暗闇があるとしか言いようのない暗闇なのだ。それは、光が前提となった闇ではない。


ではそれは、「黒」と直接的にいうべきだろうか。いや、黒と言ってしまうと、ひとつの色を示すことになってしまうから(「色彩がある」という前提を了承していることになるから)それもまた違う。イサオは、「真っ暗で何も見えないはずなのに…