2011年8月28日日曜日

「動的ひきこもり」の実態把握が必要だ  8/27、ドーンセンターでのシンポジウム報告

昨日、大阪・天満橋のドーンセンターで、「ニートによるひきこもり雇用支援事業報告会」があり、たくさんの人に集まっていただいた。行政(大阪府の山本氏)・大学(大阪大学の井出氏)・NPO(NOLAの佐藤氏)だけでなく、同事業を体験し就職した若者も壇上で自分の体験を報告してもらった(プラッツは基本的に若者が人前でしゃべるというイベントはしないが、同事業は特別)。
僕はいつもの司会ではなく(司会は統括リーダーの石田)、ひとりのパネリストとしてしゃべらせてもらった。病から1年たち、小さなセミナーの講師はぼちぼち再開しているが、大規模なものは今回が復帰後初めてだった。
当ブログでも時々書いているが、不思議なことにアガリ症の僕が、病気後はまったく上がらなくなった。
今回もまったくアガることはなかったが、どうも会の趣旨とはかけ離れた発言を自分だけ展開してしまったようだ。だから、会のあとはちょっと反省したのだけれども、参加者のアンケートを見ると、それほど評判は悪くはなかった。むしろ、評価されているほうが多かった。大病のあとの励まし票ということを差し引きしても、僕の伝えたかったことはそれほど的外れでもなかったようだ。

僕が伝えたいことはただひとつ。我々の国は、我々がずっと恐れてきた超少子高齢化社会にすでに突入してしまっている。だが、ドラスティックな改革ができない我が国の政治(国民性)は、おそらく年金制度に根本的に手を付けられないままあと10年20年と時間がすぎるだろう。
だが、「制度」として劇的な改革はできないものの、「現場」として地道に粘り改革していくことが得意なものも我が国の特徴だ。年金における「現場」とは、つまりは若者と女性と高齢者がより働き年金を支払うということに尽きる(高齢者が支払う年金とは結局同世代負担になってしまうが……ああ曖昧な思想の我が国よ)。

これとひきこもりやニートの支援がなぜ関係するのか。たとえば、ひきこもりの数(内閣府調査「広義のひきこもり」を基準とすると)でいえば、出現率1.79%で考えてみると、大阪では277万人の若者(15〜39才)のうち、約5万人となる。
5万人と聞いて、ひきこもりやニートの支援者や、保護者、そして当事者自身も含めて、この数字(277万人分の5万人)に頷くと同時に、少し首を傾げるだろう。なぜならその数字は、「静的」実態は反映しているが、「動的」実態は反映していないからだ。

「静的」実態とは、文字通り、調査時点での当事者の状態を示す。調査時点で、「ふだんは家にいる」「コンビニには出かける」「自室から出ない」等を聞いたとき、若者のうち1.79%は広い意味でのひきこもりになる。
だが、若者支援者、あるいは若者の保護者、そして繰り返すが当事者も含めて、おそらく「あれ? そんな聞き方でいいのかな」と思うだろう。というのも、ひきこもり当事者の社会への「不参加」とは、「一時的にどっと落ち込む」というものではなく、それこそスモールステップを長い時間をかけて「下る」ようにして不参加状態が中心の生活になるものだからだ(だからこそ、ひきこもり支援とはそのスモールステップを逆に上がっていくものだと僕は提唱している)。
また、そのような「逆スモールステップ」といった「下り坂」イメージばかりでもなく、時々働いては時々ひきこもり、時々友人とカラオケに行く、といったような、流行語で言うと「ローライフ」的生き方に、結果としてなっている若者もいるだろう。
重要なのは、それら「逆スモールステップ」型も「ローライフ」型も、年金支払は親が負担している、あるいは支払っていないということだ。

生き方としては、僕はこのような「逆スモールステップ」型も「ローライフ」型も尊重する。尊重するどころか、本音でいえば逆に憧れる。まさに、東日本大震災と福島原発事故という時代の屈折点以降に現れた、現代を象徴する生き方かもしれないとも思う。
だから個々の生き方としては支援の対象どころか逆に微妙に憧れる生き方ではあるのだが、独特なあり方であり憧れの対象でもあるこの「動的ひきこもり」実態(動くひきこもりということではなく、長期に渡る動的生活状態の把握という意味)にある若者が、おそらく異常なほど多くなっているのではないか、と僕は直感している。
だから昨日のシンポジウムでもこうした実態にある若者の数はどれくらいなんでしょうと問いかけてみたが、今のところは具体数はつかめていないらしい。「動的ひきこもり」という概念が今はないのと、そのような存在を正確に把握することが社会にどんなプラスの影響を与えるかがまだ見えていないからだ。

動的ひきこもり当事者のほとんどは、年金支払い者ではない。親が支払っているか、未払い者だ。おそらく前者が大半を占めるだろうから、つまりは「動的ひきこもり者は統計的にはどこにも現れない普通の非正規雇用」という扱いになる。
この層がいったい何人いるのか。僕の直感では、おそろしい数が存在するはずだ。そして、そのほとんどは支援を求め、いつかは完全に社会参加したいと思って「動的ひきこもり」状態にある。
根本的な改革ができない我が国の年金制度を維持させるために、若者の就労支援は、我が国の社会システム維持の根幹にかかわる政策ということになる。その突端として「ひきこもり・ニート就労支援」はあると僕は認識し始めるようになった。
だからこそ、若者の就労支援は持続させていかなければいけないし、ひきこもり・ニート支援は「動的ひきこもり」を常に対象とできることからも続けなければいけない。つまり、この層はおそらく膨大な数が存在するにもかかわらず、時々「ひきこもり」になって初めてマイノリティとして顕在化するのだ。そして、この膨大な層が地道に就労し年金を地力で支払うことで、我が国の根本的社会システムの維持が可能になる。

それにしても、15年前には超マニアックなジャンルだったこの分野が、まさか日本の社会システム維持の突端になるとは思いもよらなかった、というのが僕の本音だ。

こんな深刻な問題だからこそなのか、人々はそれほど焦ってはいないようだ。僕も、自分の寿命はおそらくあと長くて25年(このまま減塩生活が成功すれば)だと思っているので、関係ないといえば半分は関係ない(年金受給者と支払者の数が拮抗するのは40年後)。
また、猫が自分の寿命を知らないように、ヒトも健康なうちは未来の不幸を直視しないですむようプログラムされた生き物なのかもしれない。
でも、僕は大病後、政治家になるのはやめて、今の青少年支援NPO代表でいこうと思ったからなあ。だから65才まではしぶとく支援・提言し続けます。あ、その頃は年金受給は75才なのかな。そうなると寿命が尽きてるなあ。★

2011年8月25日木曜日

凸凹とトラウマ 『発達障害のいま』4章〜終章 杉山登志郎/講談社現代新書

僕が読んだ発達障害本のなかでは決定版

■ディックの引用も

前回(2011年8月18日付ブログ)とりあげた杉山さんの本を完読した。最近の僕には珍しく、チェック入れまくりの読書だったのだが、これは子ども若者支援者には必読だろう。


1章2章は医学的解説が多いのでかなり読みにくいが、流し読みでもいいので、何とか乗り越えよう。また、5章は、眼球運動を用いたちょっと怪しいっぽいが実は医学界では超話題の“EMDR”の解説がメインなので、敬遠する人もいるかもしれない。だがそこも何とか乗り越えてみよう。

後半は、精神障害と発達障害の関連をわかりやすく解説してくれているので、1・2章や5章よりははるかに読みやすいものの、そこは医者の文章だから、やはり微妙に読みにくくはある。
でもそこも何とかクリアし、とにかく最後まで読んでみよう。

というのも、この本を1冊読むだけで、最新の発達障害に関する知見がすべて頭に入ることになるから。ちょっと読みにくいけど、著者の患者/患児に対するやさしさは行間から溢れまくっているし、たとえばフィリップ・K・ディックのようなSF作家からの引用がさりげなくされていたりして(p146)、単なる「医者の本」でないことはすぐにわかる。

また、よくある「医者の書いた思想本」でも決してないからご安心を。タイトル通り、愚直すぎるほど、まさに「発達障害のいま」について徹底して書かれている本だ。


■「トラウマ」の導入

このように一冊まるごと最新の発達障害支援/治療に書かれた本書なのではあるが、言いたいことはたいへんシンプルだ。それは以下の3点に絞られる。

①次回のDSMⅤ(アメリカ精神医医学の診断基準)において、広汎性発達障害は自閉症スペクトラム障害に変更されるが、そうした「障害レベル」の発達障害と、その数倍は存在するといわれる「素因レベル」のあり方を区別して捉える必要がある。
通常、素因レベルは障害レベルの5倍は存在するといわれる。本書はこの素因レベルに対して、「発達凸凹(デコボコ、と読む)」と名づける。

②自閉症スペクトラム障害には「タイムスリップ現象」(ここでディックの本が引用される)と呼ばれる、暴力的とも言える記憶の突発的な再現がみられる。
この、障害特有のタイムスリップ現象と、障害に起因する二次障害としてのPTSDによるトラウマ(心的外傷)が重なることにより、当事者は激しくゆさぶれ、傷ついている。

③誕生以来100年を越えた精神医学/臨床心理学は、この「発達障害とトラウマ」という複合したテーマによって、その学問体系が大幅改変されていくだろう。

よく考えてみれば、フロイトの5大症例の「ドラ」や「狼男」にしても幼少期のトラウマが最大テーマであり、フロイト初期のヒステリー研究もPTSDへの対応から始まったことなどを考えると、精神医学/心理学とトラウマはその誕生期からセットであった。
杉山さんの言うように、ここに凸凹(素因レベル)も含んだ発達障害を含んで考えると、精神医学そのものの改変だけにとどまらず、ヒトに関するあらゆる問題へと拡大していくかもしれない。

まあ、大きな話題はさておき、少なくとも子どもと若者の支援をしているすべての人にとって必読の本が久しぶりれに現れた! 必読なのに新書で760円。新刊なのでまだ本屋に平積みしています。とにかく読みましょう。★


2011年8月21日日曜日

コア社員・専門社員・支援社員2〜社会保険と契約社員

おっと、もう日曜日だ。この一週間は夏休み明けで再び倒れないように注意していたせいか、ブログがあとまわしになってしまった。ブログというのは更新しないとすぐ忘れられてしまう。
元NHK職員で今は経済学者でちょっと過激な池田信夫さんのブログを僕は愛読しているけれども、あんな忙しそうな人なのにほぼ毎日更新されている。しかも、毎回濃い内容だ。そのペースで10年近く続けておられる。池田さんは、よほどの減塩食で、毎日1時間はウォーキングしておられるんだろうな。それでなければ、僕だったらとっくに倒れている。

今週は淡路プラッツの仕事もそろそろ忙しくなり、前回とりあげた『発達障害のいま』(杉山登志郎著/講談社現代新書)を完読する時間がなかった。「発達凸凹」という新概念の提案だけにとどまらず、幼児期のトラウマ(つまりは虐待)と発達障害発現の関係性を探っていくという、ある意味画期的な視点をもった本で、久しぶりの「新書名著」かもしれない。
これは、その凸凹説やトラウマ原因説という視点に反論があったとしても、現代の発達障害あるいは広くは現代人を知る意味で必読という意味で、名著かもしれないとしている。
だから僕には珍しくじっくりと読んでいる(『リトルピープルの時代』なんて流し読みだった)。後半部解説はもう少しお待ちを。

忙しかった今週、たくさんの対話を重ねてきたが、印象的だったのは、当ブログ8月8日に記した「コア社員、専門社員、支援社員」が時々話題になったこと。最近の企業の同行をメディアを通してしか知らず、たとえば「インターンシップ」のきちんとした意味すら最近やっと理解した素人経営者の僕からすれば、このような提案はすでにもう古臭いものになっているとなかば覚悟した上での執筆だったのだが、先進的企業の取組はさておき、こうした提案はまだまだ珍しいことが判明した。
そして、この提案は、ニート支援への現実的システムづくりに活かせるのでは、とも思い始めた。

昨今、「中間労働」という言葉が流行し始め、東京ではセミナーなども開かれ始めているらしい。僕は大阪在住であり、おまけにいまだ傷病手当の身だから、その流行から完全に取り残されてしまっている。でもその言葉が妙に引っかかり、僕なりに、メスが入って能力が半減したこの脳みそでぼんやり考えている。そしてこの中間労働という言葉になぜか引っかかっている人は僕周辺にも複数いる。
それらの人達との会話をまとめると、「中間労働」という言葉と意味にはそれほど興味がないことがわかる。彼女ら彼らがなぜか惹かれているのは、「中間労働」という言葉がもつ「新しさ」だということだ。これは「中間労働」が新しいという意味ではなく、現在ある「労働」という言葉と、現在社会で変化しつつある「実際の労働システム/スタイル」が完全に乖離しており、その新しく生まれ変化しつつある労働実態に対して、人々は何らかの「名づけ」を欲しているということだ。
その「名づけへの欲望」が、この半年ばかりは「中間労働」という新しそうな言葉に吸い寄せられていると思われるのだが、僕が直感するには、その欲望はまだ満足していない。

その(新しい労働について名づけしてほしいのだが未だされておらず)満足しない欲望の一部が、たとえば僕が書いたマニアックなブログ「コア社員・専門社員・支援社員」にまで集まろうとしている。だから、このタイトルは、僕のまわりの一部の人ではあるが、それなりに話題にはなった。
そんなわけでこのテーマは連載することにした。今回は、前回に加えて、ここに「社会保険」と「契約社員」という因子を絡めてみる。
コア社員は、その会社(あるいはNPO等すべての組織)の、「コーポレート(経営/全社)的側面」と「事業的側面」の両方を抑えなければいけない存在で、まさにオールマイティーの能力が求められる。
これは複数年にわたって確保しなければいけない(年間契約ではない)人材だから、当然社会保険は厚生年金/健康保険となる(当ブログでたびたび言及しているが、我が国は、こんな危機にあっても年金と健康保険の抜本的改革はできないという超保守的国民性だというを前提としている)。
ということは、この社員の分の(会社負担分の)年金を会社は負担しなければいけない。

専門社員は、コーポレートへの関与は不要で、各事業の中の財務面を除いた、まさにその事業の運営を担う人達のことを指す。これは、その事業の性格にによって異なるが、業界によっては事業は単年度のことも多いだろうから、基本的には年間契約となる。
年金/健康保険の企業負担分も、一人の専門社員にかかる総額予算は決まっているから、たとえば厚生年金をその専門社員が選んだ場合、企業負担分も込みでその予算から引かれることになるため、手取りはかなり減る。
かといって国民年金をその専門社員が選んだとしても、厚生年金の場合だったらあらかじめ引かれる年金分は当然社員に支払われ社員が自分で国民年金を支払うことになるのだが、厚生年金の場合であれば企業が負担する企業分の年金分はおそらく個人には上乗せして支払われないだろう。国民年金の場合、はじめの予算からその企業負担分の年金が企業側にプールされる。
企業からすると少しお得なのではあるが、個人からすると手取りが一見増え拘束感も減るので、超消極的な意味ではあるが一応「ウィンウィン」の関係かもしれない(でなければ、ほとんどの人は厚生年金を選ぶはずだ)。

支援社員は、専門社員と同じくコーポレートには関与せず各事業内に関与する。ただし、コア社員や専門社員を補佐/支援する役割が主業務だ。従来のアルバイトや男女雇用機会均等法以前の「OL」はこの立場だった。8/8のブログにも書いたが、ディズニー(マクドナルドでもロッテリアでも地域のスーパーのレジの仕事でも同じだが)のほとんどの従業員の立場はこれにあたる。年間契約についても、年金/健康保険についても、専門社員と同じ。

経営では常識らしい「人材ポートフォリオ」の簡略版といってしまえばそれまでだが、僕が読んだ入門書の範囲内でもそうしたポートフォリオは複雑すぎる! 現実はこうした「水平の」組織図と交差するように、「垂直の」等級制度(部長・課長・係長等)がクロスしてくるからさらに複雑になる。
これからの若者の雇用という側面で考えれば、全若者のうち新卒で就職できない4割(大卒の場合。また、残りの6割がいわゆる正社員かどうかも疑わしい)は、支援社員が入口となるだろう。支援社員/国民年金/年間契約という入口からスタートして、どれだけのステップ(出世)があとあと用意されているか。また、入口の部分においても、いまあるインターンシップと、臨時的な行政支援(たとえば、一昨年からプラッツが取り組む緊急雇用創出基金事業のようなもの)を組み合わせて労働という入口に「軟着陸」できるか。
まず、労働システムの変更とその明確化、ついで、若者が志向できるコースの簡略化(たとえば「支援社員」の設定)、その入口でいかに踏みとどまることができるかというサービス設定(インターンシップ、行政支援、支援社員拡充による企業〈あるいはNPO等その他の法人〉の利益の明確化、経営者の意識改革等)がうまく絡めば、夢物語でもないような。
それらすべてのモチベーションは、年金支払者の増加による超高齢化社会の下支えというところに行き着く。とにかく、ドラスティックな年金改革ができない国民性である以上、企業・NPO・家庭といった我が国が得意な「現場力」とそれへの支援によって、この難関を突破するしかない。★

2011年8月18日木曜日

本の楽しさとは、新概念の提示(ここでは「発達凹凸」)と、具体性/一般性の往復にあり 『発達障害のいま』序〜3章 杉山登志郎/ 講談社現代新書 『経営戦略の教科書』講義1〜8 遠藤巧/光文社新書 

昨日の「夏休み明け初日」問題(昨年夏休み明けに僕は倒れた)をなんとかクリアし、今日はいきなりの休養日。たぶん9月か10 月、あるいは年内いっぱいまでは傷病手当が継続すると思われ、焦らず復帰してこうと思っている。
とは言いながら、仕事さえしなければ血圧が上がらないから、こうして一人のんびりとブログを書いている時間などは、プチ至福な時間だ。

前回、前々々回と非常に疲れる本をとりあげたせいか、一昨日本屋で何となく買ったのは軽い新書2冊。久しぶりの発達障害関係の本と、最近の僕にはおなじみの経営指南書だ。だいたい僕は何冊かを常に併読しているが(本好きってたいていはそうでしょう)、今回の2冊は、最初から書評にする気でもなく、とにかく「リトルピープル疲れ」を癒してもらうために購入したはずだった。
それが2冊とも当たりだった。特に、発達障害の最新の知見をとりあげた杉山本は、久しぶりの「支援」に関する本だったせいか(よほどのリトルピープル疲れ……)、非常にリフレッシュすることができた。
2冊ともまだ途中だが、2冊とも一応前半の山場は終わったと思われるので取り上げてみる。

杉山本は、話題の「発達凸凹(オウトツではなくデコボコと読む)」という概念を提示した本で、前半は同概念の解説、後半はその根っこにある「トラウマ」の説明へと迫っていく。僕はまだ前半を読んだのみだけど、「最近発達障害の捉え方が変わっているらしいけど、詳しく勉強している時間がない」という方にもお勧めだ。
次のDSM5(アメリカ精神医学の診断基準)で、従来の広汎性発達障害がなくなり、自閉症スペクトラム障害に統一されるという。何でもかんでもツギハギにかき集めた広汎性〜が少し整理され、典型的自閉症と一般人の間に、主に「社会性」の障害という視点から自閉症スペクトラム障害が設定された。
本書では、この新たな自閉症スペクトラム障害と一般人との間にさらに、「発達凸凹」という概念が提案されている。
これは、発達障害支援をしている人からすれば(また、保護者や当事者からも)わりと肯定的に受け入れられる概念だと思う。発達凸凹とは認知にアンバランスさがある人たちのことで、障害レベルまでいかないが素因レベルとしては立派に発達障害の水準にある人たちのことだ。同書では、障害レベルの5倍はこの素因レベルは存在するとしている(p41)。
で、この素因レベルが何によって障害レベルにまで移行するかというと、同書では、そこにトラウマの存在を指摘しているらしい。それは後半のお楽しみ。

それにしても、「凸凹」とは、うまく名づけたものだ。同書の文章はそのタイトルとは反比例するように意外と読みづらいが(このあたりが医者の文章の弱点)、同概念提示に関する著者の自信が行間から溢れている。そしてその自信は、医者の文章にもかかわらず、当事者と家族に対して非常に優しい。
僕自身、この日本社会からいつも浮いているように感じられるときが物心ついた時からいつもあり、思春期の頃はそれをロックや文学(の反社会的作品)への憧れと重ねあわせて自己認識していたが、単に「あ、オレ、発達凸凹か」と考えると、不思議なことに少し楽になった。凸凹ってカワイイし、ね。

おっと、1冊目で少し書きすぎたか。2冊目の『経営戦略の〜』では、どんな業界内にも「リーダー(業界の盟主)〜フォロワー(盟主の追随者)〜ニッチャー(業界の狭間)」になる企業/団体が存在し(リーダーはたとえばトヨタ、フォロワーはゴーン以前の日産と、著者)、いずれの立場も常に安全とは言えないが、フォロワーは意外と知らぬ間に経営危機になることもあるという。
リーダーやニッチャーも、業界に永久君臨したり業界内の狭間を見つけて安心できるわけでもなく、どんな社会・経済・業界も常に流動・変化しているなか、企業/団体は常にその時代の変化の潮目を読む必要がある。
著者は、意識的に、上のような一般論と、トヨタ等の具体論を並立して示し、読者に理解を迫る。一般論(理論の提示)だけでは読者は理解に時間がかかるし、具体論(実例)だけでは読者は事の本質をつかめない。一般論と具体論は常に同時進行して示す必要がある、という僕が普段から意識していること(哲学から教えてもらったこと)を同書は見事に例示する。
さて、プラッツはどこを目指す? やっぱニッチャーがプラッツらしいかなあ。

新概念の提示と、一般論/具体論の往復。この2冊は、書物にとって最も重要なことを実践しているという点で感心した。★

2011年8月15日月曜日

生の可能性とFacebookの時代 『リトル・ピープルの時代』2.3章〜終章 宇野常寛/幻冬舎 〈書評もどき〉

今は15日の午前中だが、これからブログを書いて帰阪する。四国はくもり空だけど、一昨日のような厳しい暑さではない。昨日、スコールが昼頃降ってから(もう日本は亜熱帯になったのだから、「スコールのような」という表現はやめた)なんとなくすごしやすくなった。

結局、『リトル・ピープルの時代』はきちんと読めなかった。前々回に「痛い本」と書いたがその印象は最後まで変わらず、どころか、2章(一番長い章)なんてまるまる「仮面ライダー論」だったから、痛いどころか超激痛みたいな読書だった、僕にとっては。
だから今回は〈書評もどき〉としている。告白すると、2章の半ばころから飛ばし読みしちゃった。だって、仮面ライダーの細かい内容なんて、僕にとってはどうでもいいんだもの。一応、こういう僕でも「おたく第一世代」と日頃は自負しており、大きな病を体験したあとでも、だいたいのものは読んだり見たり聞けたりはする。

だが、今回は違った。細かい仮面ライダー論は「リトルピープル論」につながり、それは「拡張現実論」(たとえば「セカイカメラ」というソフトを使って現実を「より深く」体験していくことらしい)へとつながっていく。おそらくこの背景には、東浩紀を経由してフランス現代思想へとつながるのだろうが、本書では東は出てくるがフーコーやデリダは出てこない。だから、本書のみを読んでいると、根本理論は決してつかめない。
僕は以前大学院でドゥルーズやデリダやフーコー等を死ぬほど(自分なりにですが)読んだので、「なんとなくあれがネタ元かなあ」と予測はできる。けれども、本書においては、「東浩紀用語」が説明なくさらりと出てくるものの、そのさらに先がないものだから、肩透かしというか汚い言葉を使うとまるでだまされたみたいにあっさり進んでいってしまう。おい、そこはもうちょっと説明すべきだろうという理論的ポイントもさらりとすすみ、どうでもいい仮面ライダーのストーリーがたっぷり語られる。
だからひどく疲れる本だった、これは。やっぱ、理論は理論としてきちんと説明しないといけない。

本の中で、「ひきこもり」という用語も出てきたが、その使い方にしても従来の「思想家が使う一般的言葉としてのひきこもり」からはみ出るものではなかった。だから、ひきこもり論としても読む必要はないと思う。
それも 含めてだが、とにかく内容が古いと感じた(バリバリの新刊ですが)。2章は仮面ライダーばかりだったから3章ではびしっと決めてくれるだろうと思って期待したが、従来の東用語やネット用語・概念に基づいた説明ばかり。たとえば、こんな一節。


リトルピープルの時代ーーそこに出現しているのはいわば否応なく小さな父たちとして機能する人々(プレーヤー)が無限に連鎖(ゲーム)する世界だ。そのゲームの中に渦巻く想像力は、〈ここではない、どこか〉へ私たちを連れていくことはない。その代わりに〈いま、ここ〉にどこまでも「潜り」、多重化し、そして拡張していく。
私たちはこの外部を喪い、自己目的化するコミュニケーションの連鎖する新しい世界により深く、深く「潜る」ことで変えていくべきなのだ。(p437)


当ブログの読者は、青少年支援者・NPO関係者・当事者とその家族が大半を占めると思われるので、こんな文章を読んでもおそらく「はあぁ?」だろう。実は僕も、そしてかなりの哲学好きの僕でさえも、「はあぁ?」だったのだ。その「はあぁ?」の原因は、たぶん、我々が東日本大震災を通過しつつあることにつきる。
本書は3章で、東日本大震災をとりあげている。とりあげた結果、その最終章で出てくるのが上の引用箇所だ。著者は、すさまじく想像力のない人だと思う(のんきな僕がここまで書くことはほとんどない)。地震と、死と、永久に続く事故に接している今、「多重化し、そして拡張して」いくのもいいが、その前にやることがあるだろう。

それは、「拡張現実」ではなく、「現実直面」だと思う。我々は必ずいつか死ぬ存在だから生のあいだはその生を生ききる、ネットでは匿名ではなく実名を使う、そして働く機会があれば働く、学ぶ機会があれば学ぶ、食べるときはきちんと食べる。このように、ヒトとしての現実を素直に直視できる時代が、地震によるおびただしい死と原発の永久事故という犠牲と引換えにやってきたような気がしてならない。
すでに若者たちはそのことに気づき、動き始めているような気もしている。プラッツで就労関係の事業に取り組んできたここ数年、そのことを薄々感じ始めたが、今年になってその感覚は本物だと確信し始めた。
ポストモダンの進化の行き止まりにいる論者が行き止まり議論を延々書く間、現実は、あっさりとその論者たちを不要にしたと思う。それは、(死の直視を反転させた)生の可能性への賭けと、たとえば(実名交流が前提の)Facebookの本格的拡大という、具体的ポジティヴィティが証明している。★

2011年8月12日金曜日

猫は自分の死を知らない 〈近況〉

本来なら今回は、前回の続きである『リトルピープルの時代』の終わりまでの部分を書評する回なのだが、何しろこの本は「痛い」(痛い理由は前回参照)。今は2章の真ん中あたりなのだけど、仮面ライダーとウルトラマンを「リトルピープル」と「ビッグブラザー」に対比して論じる姿はあまりに前世紀末的(ポストポストモダン的とでも言おうか)であり、前回も書いたとおり、「死」と「(原発の)永久事故」で覆われた現代の我が国にはそぐわなさすぎる。
それに加えてここ数日は、季節外れのプレゼンテーション仕事が入っていたり、今日は今日で今から四国へ帰省することもあり、あまり落ち着かなかった。昨日のプレゼンは、あまりに集中し熱弁をふるいすぎて、終わったあとは電池切れのアンドロイドのように眠くなったものの、春頃と比べても、僕はかなり元気になった。

そういえば、もうすぐ、今月の19日で、僕が脳出血で倒れてから一年になる。
倒れた日は、ちょうど休み明けの日ですごく張り切っていたところまではよく覚えている。次の記憶は9月になっていて、個室で時々目を覚ましベッドサイドに誰かいる、というシーンが蘇る。そこから記憶は徐々に建物を建てるようにして構築されていき、淀川キリスト教病院の売店で新聞を買ってはベンチで延々読みふけるという入院生活へと移る。
19日に倒れ、9月のはじめ頃はうつらうつらしており、9月の2週目頃からいわゆる「記憶」が始まる。かといって手術後の10日間は昏睡状態だったわけでもなく、家族・友人の話では、僕は看護師相手にいつも以上に饒舌に語っていたそうだ。それも、少子高齢化社会を支える若者のあり方についてなど、政治家顔負けの熱弁だったという。

いくら術後回復が早かったとはいえ、自分の記憶がまったくないというのはものすごく不思議なことで、変な話だが、自分が一度死んでしまったような感覚がある。そして、ラッキーにも後遺症がまったくなく、今はこのようにして大事なプレゼンテーションの仕事にも行けるようになっているから、確かに、退院間際に医師や看護師や理学療法士から言ってもらった「本当に拾った命なんだから、それはたぶん、あなたにはもう少しやることがあるということなんでしょう」という言葉通りなのかもしれない、とやはり今もよく思う。
そんな無私な感じは今も続いており、社会と再接続したいという若者がいれば、自分のできる範囲のなかで何らかのかたちでお手伝いしたい。復職後は管理・経営の仕事ばかりになってしまったけれども、その立場なりにできることはたくさんあるはずだ。こうしてブログを書くことだって、広い意味では、日本の若者の苦境を周知していく作業の一つであり、これはこれで大事なことだと思っている。

そんな感じで、あれからもう一年がやってきた。告白してしまうと、その19日が来るのがすごく恐いのだけど、その日はできるだけ仕事は入れないようにしてのんびり過ごすことにしよう。
猫は自分の死を知らないと、この1年以内に誰かから言われたことがすごく頭に残っていて、他の人に試しにこのことをいってみると、全員きちんと意識していた。
僕は、猫は、つまりは動物は自分の死を知らない、なんてことを考えたことがなかった。それだけ「人間中心主義」の近代にまみれた人間だったということだが、このたびの病気をくぐり抜けて無事この世界に復帰して、今ここに生きていることの現実性をものすごく実感している。
食生活はまるで小学生の頃に戻ったように、決まった時間に食べ、量は子どもの頃よりはだいぶ減ったものの、ご飯をゆっくり噛んでおかずもゆっくり食べていくと、ゆっくりお腹が充実してきて、気持ちもゆっくり落ち着き始める。そのあと、コーヒーを飲みながら、無音の部屋で1時間以上新聞や週刊誌をぼんやり読む心地よさ。このようにして1日は過ぎていくが、このようにして寿命はまた1日費やされる。

けれども、健康になればなるほど、自分がいずれは死ぬということを忘れてしまうものだ。健康になればなるほど、それは客観的な死になる。だからたぶん、もう少しすると、今はしらけきって読めないミステリーも読めるようになるだろう。ミステリーの死は、完全に客観的なもの。それはまるで、猫の死とは正反対にある。他人事としての死と、自分が死ぬということを知らないという死。
人間の一生はうまくできていて、赤ちゃん時代は、みな自分の赤ちゃん時代を知らない。そして喃語をへて徐々に言葉を獲得し、同時に自我が形成される。そのあとは青年期・成人期・老年期という人生コースをたどったあと、いつか死ぬ。死ぬ手前、よほどの急病だったとしても、意識は最後は落ちて、ひとつひとつの記憶が残らないようになっていく。
言葉が自分から離れて、ということは、その時の状態はだから自分では表現できない。そして死ぬ。
人生のはじめと終わりは、言葉と記憶と自我から解放され、ということは自分の状態を捉えられないということではあるが、恐怖からも快楽からもほど遠い状態に置かれる。そのように人は生まれ、死んでいく。その意味では、猫ともあまり変わらないかなあともこの頃は思い始めた。
このように、ポコッと浮いた島のようにして人は生きて死んでいく。その最初と最後は記憶という呪縛から解き放されてる。いわば、おいしいとこどりしていいように人生ははじめからプログラミングされているようにこの頃の僕には感じられる。だから、欝病等の事情はあるにしろ、やはり自殺はもったいない。
猫も人も、おそらくその最初と最後は知らないまま、生まれて死んでいく。今の一瞬を生ききる、というニーチェやドゥルーズの言葉が、今の僕には、自然と溶け込んでいるようだ。★

2011年8月10日水曜日

「決断主義」と若者  『リトルピープルの時代』序〜2.2章 宇野常寛/幻冬舎


■「決断主義」とは

最近当ブログは読者数的にも好調で、今回も前回のような「現場で使える」ネタにしたかったのだけど、で、実際使えるネタになると思っていたのだけど、残念ながら超マニアックなネタになってしまった。その「マニアックさ」=現実感のなさについてなら、本書を取り上げる意味があるかもしれない……。

今回取り上げた本と同じ著者が書いた『ゼロ年代の想像力』(早川書房)は、「セカイ系」と「決断主義」の対比で有名になった。僕も時々拡大解釈して引用させてもらっているが、セカイ系とは、『エヴァンゲリオン』に代表される「“僕”の半径数メートルの悩みを、セカイ的危機と戦うことで乗り越える」(より拡大解釈したかな?)というようなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。

「決断主義」とは、「そんな“セカイ”みたいな大きなものはすでにないのだから、半径数メートルで常に起こるさまざまな出来事をその都度“決断”して乗り越えよう」みたいな、これまた超拡大解釈かもしれないが、まあそんなアニメ・ゲーム・マンガ・小説・映画群のことだ。『バトルロワイヤル』とか『ガンツ』などがこれに入る。
「決断主義」の説明はこの本の前著



■ひきこもりと「セカイ系」

僕は一時期、ひきこもりとは、この「セカイ系」的思考を背景にもつ人達だと考えていた。
『エヴァ』の主人公シンジは、映画版最終回で結局何も決断できず何も行動しない。
「自分のまわりにある“セカイ”はすべて自分の敵、というか自分のことをわかってくれない存在だから(自分は本気を出せばエヴァに乗れるのに)引きこもろう」という何もしないシンジが、まるで僕が日常的にかかわっていたひきこもり青年たちと同じ思考をしていたからだ。

実は僕自身にもそのような思考は流れており、だから告白すると、ひきこもり支援は僕にとってそれほど「仕事」ではない。仕事というよりも、何というか、“同志”支援のような感じだったのだ。僕がもし今20才で時代や社会が00年代以降であれば、僕はたぶんひきこもっただろうという意味で。

「決断主義」にはもう一つピンとこなかったものの、自分の青少年支援仕事と重ねあわせて短絡的に、「つまりは半径数メートルの世界でいいから、自分にできることをしろということね」と勝手に拡大解釈し(これはマジで拡大解釈だ)、「“外部”に敵はすでにおらずすべては“内部”になったみたいだから、まあとりあえずできることからやるか」みたいなノリで、僕は青年の自立支援を堂々とすることにした。

実は僕が、支援理論的な面はさておき思想的な面で堂々と自立支援することにしたのは、「決断主義」のおかげではなくデリダやドゥルーズのおかげなのだが(そして前々回書いた鷲田先生のところの「臨床哲学」教室での議論や論文執筆のおかげなのだが)、まあそれはいいか。どちらにしろ、宇野氏の『ゼロ年代の想像力』は、00年代の文系議論に何らかの影響力を与えたことは間違いない。

■痛い本

そんな氏の新刊が本書で、僕はとりあえず3分の1くらい読んでみた。幻冬舎(メジャーどころという意味)からの刊行で、新聞にも大きな広告が載っていたので超期待していたのだけど……。1部は村上春樹論、2部はそれを受けてのサブカルチャー論。

「……」がついていることからおわかりのとおり、今のところこの本は、僕にとって超「痛い」。基本的に本には“魂”が宿っているような気がしていて僕は短絡的に批判したくないのだけど、珍しくその誘惑にかられそうだ。かといってデリダのように、細部を読み込んで結局は自分の議論にすり替えていくという技を出す気力も出てこない。

何となくこの本は、80年代から延々と続いてきた「現代思想」の流れが、進化の行き止まりにたどり着いた代表的なものになるような気がする。引用論文も(たぶん、あえてだろうが)ほとんどなく、思想的背景あるいは思想的根拠のようなものも東浩紀氏(思想家/社会学者/オタク評論家)くらい。

いや、引用論文なんてのもどうでもよく、僕が今のところ同書に入り込めていない理由はただひとつ、この本は、「東日本大震災」以降に出版されたにもかかわらず、思想や哲学として、「死」や「原発事故」にまったく触れていないからだ(今読んでいるのは、2.2章までです)。
別に東日本大震災のルポルタージュを書けと言っているのではなく、また、出版時期からしてほとんどの文章は震災以前に書かれたものだろうから書きなおせと言っているのでもなく、本書のような「時代の切り取り方」が現代の人々と世界が抱える問題とはかけ離れてしまったのではないかと僕は思っている。

■1Q84に続編はない

「世界/壁/ビッグブラザー/大きなもの」から「決断する個人/卵/リトルピープル/小さなもの」へ、という世界の切り取り方は、果たして我々にとってリアリティがあるのか? 序章ではそれらは福島にもつながると予告しているから僕は悩みを解くようにして読み進めているが、今のところそれは現れていない。

たかだか数十年単位の、それも西欧世界の一部(戦後日本も入る)に限定された問題設定(セカイ系・ビッグブラザー/決断主義・リトルピープル)と、時間を超越した問題設定(死・永久事故)を比べると、優先順位は明らかだ。僕は、宇野氏の予測とは異なり、村上春樹は『1Q84』の続編は書かないと思う。リトルピープルよりも、大事なことがある。現代思想の袋小路の論者よりも、ジョギングマニアの文学者は気づいている。

でも今思い出したげと、『1Q84』の本家リトルピープルは、もろ「死」とコミットメントする存在たちだったような……。おっと、宇野論ではなく、村上論になってきた(よほど本書が辛いのか)。

でも、まだ2.2章まで、です。ちょい苦痛ですが、最後まで読んでみます。★


2011年8月8日月曜日

コア社員、専門社員、支援社員 〈経営〉

昨日から淡路プラッツは比較的長めの夏休みに入った。いまだ週4勤務の身とはいえ、勤務日の中身はかなり調整してはいるが少しハードになってきたから、ちょうどいいタイミングだ。夏休みは16日まであり、この間、実家の四国にも帰省しようと思っている。
昨日から数日は、大阪の自宅で一人のんびり過ごす予定だ。こういう時は僕は読書以外したいことがないので(いつもの新聞と週刊誌チェックは継続しつつ)、さっそく近所の紀伊国屋へ行ってみた。

夏休みといえば小説、そしてミステリー! と相場は決まっているので、さっそくミステリーコーナーへ。で、店員さんがいろいろ工夫して並べてくれている小説群を吟味してみるが……、うーん、残念ながらダメだった。ピンとくるものがない。いずれも、よく書かれているのはわかっているのだけど、イマイチ白けた僕がいる。たぶんこれは、去年一度、僕が脳出血で死の寸前まで行ったからだろう。「エンタメとしての死」はそれほど抵抗感はないのだが、「客観的出来事としての死」(自分には当分やってこないだろうという前提のもとでの死の描き方)は、読んでても全然ピンとこない。
死は、いつも我々にその可能性のドアを開いている。デリダをわざわざ持ちだす必要もなく、死があるから生が成り立つ。死と生は二項対立するものではなく、死という(無でもあの世でも異次元でも何でもいいが)土台の上に、生という現象は人間の場合は70〜80年くらい現れる。
そんな感覚が当たり前になってしまった僕としては、今は、死を客観的出来事として捉えるミステリーはつまらない。

んなわけで、結局買ったのは、『人事部は見ている』(楠木新/日経プレミアシリーズ)。うーん、休みの時も仕事かよ、と言われてしまえばそれまでなのだが、最近は、ずっと遠ざけてきたこうした経営入門書みたいなのが軽く読めてしまう。
今回は書評する気はないから中身はスルーするとして、本書の最後半に出てきた、これからの会社は、「コア社員」「専門社員」「支援社員」の三段階に分かれる、という予測に少し興味を惹かれた。このような区分、最近の経営書には時々見られ、すでにこれは常識となっており、僕が(青少年支援のプロであっても)経営の素人だから単に感心しているだけなのかもしれない。だが、本書は今年の6月出版で「たちまち5万部!」というオビもついているから、それほど超常識になったわけでもないだろう。
誰かに聞けばいいのだが、僕のまわりは「青少年支援者(カウンセラー・ソーシャルワーカー等)」ばかりで(本書に出てくる「支援社員」とは違います、この「青少年支援者」は同書のカテゴリー区分では「専門社員」に入る)、経営の素人度は僕と似たり寄ったり。だから、本書の三区分が現在の経営論においてどの程度常識になっているかどうかはわからない。
三区分は、以下にわかれる。

コア社員は、組織を機能させる中核社員。
専門社員は、専門性の高いプロ社員。
支援社員は、プロ社員を支え、ルーティンの仕事をこなす比較的低コストの社員。

これからは、正社員・非常勤社員の区別ではなく、この三区分で捉えられていくだろうと筆者は予測する。青少年支援NPOに喩えてみると、
コア社員……組織を機能させる(経営・事業を束ねる)少数の中核社員
専門社員……各事業において、青少年を実際に支援するプロカウンセラー・プロワーカー
支援社員……各事業現場で専門社員の指示のもと実際に青少年と関わったり、事務所でコア社員を補佐する現場に欠かせない社員

ベストセラー本で喩えてみると、『もしドラ』に出てくる野球監督は当然専門社員に入り、マネージャーの南ちゃんはこの偏屈者の監督をいかに部員の中に入り込ませるか知恵を絞る。
たとえば『9割がバイトでも最高のスタッフに育つディズニーの教え方』は、支援社員への教育について書かれた本だ。ディズニーのような超サービス業では、支援社員の育て方ひとつで会社の成り立ちそのものが決定されるという重要な仕事となり、7割が第3次産業の我が国ではディズニーまでとは言わないまでもその方法論は汎用性をもつ。だから同書はベストセラーになった。

本書には詳しくは書かれていないが、コア・専門・支援は、すべてがいわゆる「正社員」ではないだろう。特に「専門」と「支援」は、現在いわれる「非常勤社員」がかなり含まれるはずだ。つまりは年金・健康保険の社会保険は自己責任型(国民年金・国民健康保険)になるということだ。だが、「専門」「支援」の中にも、従来いわれる正社員も含まれるだろう。
同じ支援社員でも社会保険の種類が違ったり、同じ専門社員でも社会保険の種類が違ってくる。
コア社員はほとんど全員が現在いわれる正社員とイコールだから、つまりは、「コア」「専門」「支援」の3タイプの社員と、「厚生年金」「国民年金」の2タイプの社会保険が混合する(我が国ではドラスティックな年金改革は無理という前提に立っている)。
図式的に示すと、こうなる。
◯コア/厚生年金
◯専門/厚生年金・専門/国民年金
◯支援/厚生年金・支援/国民年金

社会参加に困難さを抱える若者は、この区分の中では、とりあえず「支援/国民年金」に入ることを目指すのが現実的だろう(その場合は、「現場」体験を積むことが必要になる)。対人コミュニケーションが苦手な人の場合、専門/国民年金を目指していくことになる(その場合は専門知識が必要になる)。
いずれにしろコア社員は、ひきこもりだろうがひきこもり未体験だろうが、余程の幸運がないとこれからの日本では難しい。★

2011年8月6日土曜日

鷲田清一先生の最終講義 8月4日@大阪大学

前回当ブログで書いたとおり、8月4日、鷲田清一・大阪大学総長の最終講義があったので、久しぶりに阪大に行ってきた。阪急電車石橋駅から続く「阪大坂」は、鷲田先生が総長だったこの間にきれいに整備され、以前は泥道みたいだったことなど嘘のようだ。
そのことは最終講義でも先生は触れられていた。「プライドとは他人から与えられるもの」という言葉をキーワードに、環境整備にまできめ細かく学生に配慮していくことで、学生はプライドを形成し、学生自身が自ずと変わっていくことを狙って、「鷲田ロード」は作られたと話されていた。

こう書いてしまうとなんのことはないのだが、その場で先生の話を聞いているといつも「なるほどなあ」と思わされる。それは僕が社会人院生だった00年代初頭でも同じで、当時は先生はまだ普通に講義をもたれていたから、余計そんなふうに感じた。
40人くらいが入る教室に学生はびっしりと座っており、鷲田先生がぼそぼそ話し始めると一言一句漏らさないようなスピードで学生たちはノートしていた。僕も負けずとノートするのだが、話があっちに行ったりこっちに行ったり、またいろいろな人の引用も非常に多く、板書もまったくされず当然パワーポイントなどないから、一見かなりとっつきにくい講義ではあった。
でも、そんなぼそぼそ声をとにかくノートしているうち、いつのまにか90分が過ぎているという、僕にとっては稀有な体験がそこにはあった。
そこで話されたことは数年後に何かの本に収められたりしているから、その内容自体はいつでも後追いできる。だが、あの「ノートしているうちにいつの間にか90分たっている」という感覚はわりと珍しい体験であり、今回もそのようなものを求めて参加したのであった。

鷲田節は相変わらず健在、気づけば2時間近い講義であった。その内容は近いうちに 書籍になるかもしれないのでここでは触れないし、まあ内容自体は聴きなれたものといえば聴きなれたものではあった。
僕にとっては、先生の主題の一つ「待つ」を取り上げたことについて、それまで「待つ」や「聴く」は無為の象徴であり哲学のテーマにはなりにくかったと言われたことが印象的だった。臨床心理学や看護学では、「待つ」「聴く」は(特に「聴く」は)堂々とした主題の一つである。それに対して哲学では「待つ」「聴く」はテーマとしては傍流だという。
なるほど、「主体」が常にテーマの本流である哲学だからこそ、「他者」の論理は逆に哲学関係者を魅了し続けてきたし、鷲田先生が世間に受けるのも近代の哲学本流だけでは世界は掴みきれないということが常識となってきたからなんだなあと僕は思ったのであった。

僕は以前、故・淡路プラッツ塾長の蓮井学さんと、今は沖縄で青少年支援をする元プラッツスタッフ金城隆一さんと三人で『待つをやめるとき』というブックレットを出した。あれは鷲田先生が訴える「待つ」とは別の次元にある「待つ」を取り上げたもので、我々の「待つ」はいわば世間一般で言うところの普通の「待つ」を指している。
子どもが不登校状態になったとき、親や支援者は何もアプローチせずに「待つ」だけでいいのか、待っているうちに子どもはいつのまにか30才になってしまったが、さらに待ち続けるのか。親御さんが持つこのような問いに対して、「それは『待つ』というよりは『放置』に近いのでは?」と問いかけたのが、我々の本の趣旨であった。
真の「待つ」アプローチとは、親は、「面談」「勉強会」「当事者グループ(親の会)」などを無理ない範囲で利用しながら、その時点での自分たち家族に対する「支援の司令塔」(ワーカーやカウンセラー)と相談しながら、日々動き続けることではないか、ということを僕はこの10年間一貫して訴えてきた。その出発点として、親が何も動かず単に見守るだけの「待つ」は「待つ」ではなく「放置」だということがあり、それを理論づけるものとして『待つをやめるとき』は書かれた。

これに対して鷲田先生の「待つ」は、もっと根源的で過激で、まさに哲学的な「待つ」だ。
それを一言でいうなら、「”他者”と交わる場所で、待つ」と言ってもいいだろうか。
「そう孤独だなんだと悩む前に、すでに我々は“他者”に囲まれている。それら“他者”の存在があるからこそ我々の“じぶん”が成立しているのだから、まずはそう急がなくてもいい」といったようなことが含まれていると僕は解釈している。
この「待つ」は誰もが逃れようのない「待つ」であり、待つという主体的な表現だからややこしくなってしまうのだが、かといって「ある」といった一般的表現だけでもニュアンスは伝わらない。私は誰かを待つ、誰かは私を待つ、このような私と誰かが交錯するような場所に我々は常にさらされていて、そうした「前提としてのコミュニケーション」があって初めて、我々は我々として各々の主体性が浮かび上がる。

ああ、書いていてあまりの説明のヘタさに自分でもイライラしてきたが、まあコミュニケーションの根源には、互いが互いを「待つ」ということが前提としてあるということだ。

ひきこもり支援での「待つ」という議論とは、このような大前提としての「待つ」を認めた上で(それを認めないと我々人類は全員が孤立してしまう)、「社会という門の前で若者たちを放置させずに、若者たちが各々自分にできるかたちで社会という門をくぐってもらいましょう」という「技術論」を指す。『待つをやめるとき』という本も、そうした技術論について書かれた本だ。
鷲田先生の「待つ」は技術論ではなく、基礎講座のようなもの。鷲田「待つ」とひきこもり支援「待つ」は対立するものではなく、土台(鷲田)と建物(ひきこもり支援)のようなものだろう。★

2011年8月4日木曜日

少女革命ウテナから輪るピングドラムへ 〈アニメ〉

今回のタイトル、わからん人には徹底的にわからんし、わかる人には身体が前のめりになるほどわかってしまうタイトルだろうなあ。サブタイトルに〈アニメ〉とあるとおり、そう、当ブログでは意外ととりあげてこなかったアニメについて、いよいよ、そろそろ、ついに、とりかかってみる。
僕は病気以来アニメを見る体力がずっとなかったが(小説版ガンダムのアニメ化2巻は見た)、体力の復活とともにアニメ欲も蘇ってきつつあるようだ。せっかく硬派なブログで貫きとおしつつあったが、やはりというか何というか、本性が現れ始めた。本性って、健康になればなるほど復活するんですね。

「輪るピングドラム」は、「ウテナ」を作った監督(幾原邦彦さん)が満を持して作った作品だそうで、僕は、仕事中たまたまプラッツで出会った何人かの若者たちから教えてもらった。いまだ10時半就寝の僕が深夜アニメを見れるはずがなくユーチューブで検索してみたが、残念ながらきちんと削除されていた。新作でも削除されないものは削除されないから(特に京都アニメーション系は意図的に残されている)、それなりに人気があるんだろう。
そんなわけで、ユーチューブで部分的なシーンのみ見てみただけなので、本格的批評はDVDが発売される9月末まで控えておこう。
ただ、部分的シーンだけでも、あの「ウテナ」を彷彿とさせるシーンの数々は、かなり期待できる。ウィキペディアでストーリーもチェックしてみたら、予想通りぶっとんでいる。でも、この監督に僕が期待することは、ストーリーもカット割りも色使いも巷評価されている部分はどうでもよくって、つまりはあれから「他者」に関する描き方がどう変わったか、これのみに関心がある。

ここでのあれからとは、「ウテナ」から、という意味だ。
「ウテナ」とは「少女革命ウテナ」というアニメのことで、碓か97年にテレビ東京系で放映された。95年エヴァンゲリオン、96年ナデシコ、そして97年ウテナと、いろんな意味でアニメ史に残る傑作群がテレビ東京において輩出された頃だ。僕はその頃はもう30才になっていたが、そのほとんどをリアルタイムで見た。
その三作のうちでは、すべての点においてエヴァンゲリオンが突出しているが、ウテナも傑作だった。人は奇作という表現で済ませてしまうかもしれないが、最終話近くの数話に関しては、圧倒的傑作と言い切ってもいいと思う。アニメに関心ある人でまだ同作を見ていない人は、ウィキペディアでストーリー(あってないようなもの)を押さえた上で、最後の数話のみを見るだけでもいいと思う。
そこでは、「自己と他者」という深くて底のない問題を、ここまで直球で描くかというほど描ききっていた。

このブログを読んで見る人がいるかもしれないので、具体的には解説できない。我々が「私の世界」として納得・完結させているこの「世界」について、「その『世界』は、あなたがあなたなりに位置づけているあなたの世界にすぎないんですよ」という核心を、あるシーンを通して提示してくれる。
我々がこれがこの世界だと位置づけているこの世界のありようは、我々のあり方によって大きく形を変え始める。その変更の契機は、つまりは「他者」との接触だ。
いろんな哲学者が訴え続けてきた「他者」の概念を、これほどダイナミックに、わかりやすく直線的に、かつ感動的に描いた作品を僕は他に知らない(普通いろいろ凝りすぎてしまう)。
ちょっと大げさかな。でも、初めてこの作品の最終回を見た日は、声を上げて笑ってしまった僕なのであった。それほど痛快かつストレートに、「他者」はここにある。今でも多くのアニメファンをわけわからないまま魅了し続けている「ウテナ」の魅力はここにある。

そういえば今日は大阪大学総長の鷲田清一先生の最終講義がある。その後はパーティーも(最後までいるのは体力的に辛いけど)。僕も一応社会人院生としての「臨床哲学」修了生なので、出席しようと思っている。ウテナと比べられて鷲田先生も迷惑かもしれないが、「他者」の描き方については、ウテナのほうがダイナミックかもしれない(鷲田先生は繊細な感じです……)。★

2011年8月1日月曜日

その「真っ黒な青空」は僕も知っている 『I(アイ)』いがらしみきお/小学館

現代漫画の極北。間違いなく傑作。

■生と死の先にある「答え」

このブログでも毎回書いているように、ネットを駆使しながらも、僕は基本的に新聞と週刊誌で情報を得ている人間だ。特に新聞は、どこからでも読めるし、どこにでも持ち運びできるしで、その形態そのものが「究極のデジタル」ではないかと思っている。

マスコミのなかではおそらく一番最初に生まれ、インターネットが出てきた頃には一番最初に廃れるだろうと言われながらテレビよりもしぶとく生き残っている新聞の強みは、究極的にはそのデジタル性にあると思う。

まあそれはさておき、東日本大震災のあと朝日新聞にはたくさんの有名人のインタビューが載ったが、僕の心をいちばん捉えたのは、漫画家いがらしみきおのインタビューだった(6/7「許して前を向く日本人」)。
その中身はこちらの公式サイト「ぼのねっと」から調べていただくとして(全文載ってないかも)、全体の印象が、「ああこの人は一度死をくぐり抜けてきた人かもなあ」と思わせてしまうような、静かだけれども深くて底のないような印象を抱かせるものだった。


その記事か、別の記事だったかのかは忘れたが、いがらしさんが今話題作を描いているという。それは『I(アイ)』という作品で、どうやら「死」や「神」が主題なのだそうだ、ということを知った。だから6月に本屋に行って探したのだけれどもそれっぽい本は置いておらず、売り切れたのかなあと思っていた。


が、昨日近所の紀伊国屋に行ってみると、いきなり平積みで置いてあった。それは新刊で、やっとこの8月に出たのであった。帯には、「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」とある。


■真っ黒な青空


イサオという主人公のひとりが、エピソードの各所で、この我々が当たり前だと思っているこの世界の成り立ちの、その当たり前さを平然と崩す。そして時々、暗闇のようなものが現れる。


いや、暗闇というと「光の陰」のような印象があるから正確ではない。光の裏側としての影ではなく、まずその暗闇があるとしか言いようのない暗闇なのだ。それは、光が前提となった闇ではない。


ではそれは、「黒」と直接的にいうべきだろうか。いや、黒と言ってしまうと、ひとつの色を示すことになってしまうから(「色彩がある」という前提を了承していることになるから)それもまた違う。イサオは、「真っ暗で何も見えないはずなのに、真っ暗なものが見える」という具合で、決してはっきりとは説明してくれないし、彼はそんな説明する力ももっていない。


物語の2ページ目に、イサオが生まれる前に見ていたものが一言で記されており、それは「真っ黒な青空」だったそうだ。
今ある言葉でそうした暗闇的なものを表現しようとすると、そんな「真っ黒な青空」になってしまうのだろう。真っ黒な青空と書いた途端に、実はイサオが見ていたものは遠ざかってしまうのだが、仕方がない、言葉とはそういうもの。
そして我々はそんな言葉を通してしか、表現とコミュニケーションができない。


■真っ黒な青空があるから一人ではない


真っ暗なものは振動しているという。その振動しているものの向こうに「神さま」がいるかも、ということで1巻は終了するが、この「神さま」は作者のサービス精神だと僕は思う。
生が終わったところ(あるいは生が終わりそうな病気の場面、あるいは生が始まりそうな出産の場面)のどこかで「真っ黒な青空」が振動しており、その向こう側があるかもしれない。このあたりがこのマンガの核心だろう。


2巻以降、マンガは仕方なくストーリーを求めてしまうだろうから、おそらく作者の深めたいテーマはこれ以上は深まらないと思う。物語に作者は縛られ、テーストは薄まっていく。生と死の極限について関心がある方は、この1巻だけ買えば十分だと思う。


いがらしさんはこれまで、ガンと脳梗塞を患っているという。ちなみに僕も、2010年8月に脳出血で倒れ、9月はじめ頃に意識を取り戻すまで、このような暗闇イメージに度々とらわれていた。
退院後、いろいろな本を探してみたが、僕の感じたあの感覚に、最も近いシーンを作者は描いていた。そしてその作者も、僕に近い大病に襲われていた。


初めてこの「真っ黒な青空」のシーンと描き方を見たとき、僕はなぜだか自分は一人ではないと安心してしまった。この、「真っ黒な青空があるから、我々は一人ではない」ということが本作の究極のテーマだと思う。★