2011年9月29日木曜日

「アラトゥエ(20)」の支援システムが見える国に

今日は9月最後の木曜日。僕の傷病手当もついに今月で終了し、来月から通常勤務に移行する。最後の木曜休日を何してすごそうかなと構想していたのだが、基本的に「竹林期」(竹林の中から人生を4つの時期に分ける
に入った僕としては、休みは家で過ごすほうが落ち着く。でも、午前中は頭が結構働くので、一気に読書モードになるのはもったいない。となると、やはりきた、このブログ書きへと突入だ!


そういえば、最近書いている「ニートが担う老人介護」(老人介護に「動的ニート」が真剣に取り組む時代がやってきた">

)の位置づけがはっきりしてきた。
つまりは、こうした事業的動きは、ある種の下位概念にあたるということだ。それらは他に、たとえば「ニートが担う農業」や「ニートが担う林業」や「ニートが担う製造業」などがあるだろう。
そして、こうした下位概念を統括する上位概念(戦略)が必要になってくる。

それを一言でいうと、「ニートインターンシップ」ということになるだろうか。マンパワーを求める業界でニートがインターンシップとして働くことにより、業界は労働者を確保し、ニートはスキルを磨くという図式だ。
簡単な図にすると、

戦略……ニートインターンシップ
         |
事業……「ニートが担う老人介護」「ニートが担う林業/農業/製造業……」

ということになる。編集者的にいうと、「ニートインターンシップ」という雑誌名があり、その雑誌の中に、「老人介護」「林業」他の特集が並んでいるというイメージだ。

このポイントは、社会にとっても(年金積立金が蓄えられる)、業者にとっても(熟練労働者ではなくマンパワーとしての労働者が確保できる)、若者にとっても(経済的自立に近づける)、そこそこ「ウィンウィン」(あるいはウィンのn乗)だということだ。
少し前までは当事者の中心年齢が20代半ばだったのでこのようなシステムは絵に描いた餅だったのだが、当事者の中心年齢が30代前半から半ばになったことにより、このような現実的な図式を構想できるようになった。
プラッツは、しばらくはこの「ニートインターンシップ」という戦略に則って事業を展開していくことになると思う。
これからはおそらく、従来の「インターンシップ」は学生対象の概念ではなくなる。

そしてもうひとつ、「アラ20」という上部概念/戦略も徐々にかたちがみえてきた。
これはもちろん、アラサーとかアラフォーとかアラフィフ(ってあるのかな)からいただいた言葉なのだが、アラフォーと違ってアラ20(アラトゥエにしようかな、でも言いにくいなあ)はだいぶ「支援」よりのニュアンスをもつ。
アラフォーは「40才になっても若々しく公私ともにバリバリ動く!」みたいな天海祐希的イメージだが、アラトゥエは「20才前後で躓いてもこれだけの再チャレンジがある」というリベンジ的イメージをもつ。

これは元々は、前々回に書いた
「ハイティーンひきこもり」をウィンウィンする方法は?
が出発点だ。いや、ハイティーンひきこもりは前回考えた名付けであって、10代後半の「不登校→ひきこもり」青年たちが行政の支援が薄いことは、10年前から僕はずっと気になっていた。
だが数年たつとすぐに成人してしまうために、行政の取り組みは遅れてしまう。問題が顕在化しないので行政は当然とりかかりが更に遅れる。
サポステも対象年齢なのではあるが、残念ながらサポステは「就労」が表看板のため、就労にまで決心のつかないアラトゥエ(ハイティーンひきこもり)はサポステに行くことをためらう。

その結果、余裕で5年以上のひきこもりになってしまうのだ。ここには当然、発達障がい(凸凹含む〜
子ども若者支援者、必読『発達障害のいま』〜参照
)当事者も含まれており、5年ひきこもるということは5年発達障害の発見が遅れるということだ。
発達障害でなくても、5年のひきこもりは、5年ひきこもらない人に比べて、生活体験・社会体験・知識量等で不利な面がある(ひきこもっている間は基本的にネガティブにひきこもってしまうため、その時間をなかなか有効に使えない)。長期間のひきこもりは、防ぐほうがやはりメリットが大きいと僕は考える。
そのために、アラトゥエ支援システム構築は非常に有効な戦略だと考える。

これは当然、一NPOが行えるわけでもなく、社会全体でシステム構築していかなければいけない。社会全体とは、支援機関以外にも、学校や企業、そしてここでも上のニートインターンシップに登場した福祉や農業関係の個人・法人・団体等が含まれる。
だが、新しく何かをつくる必要はないと僕は思う。ポイントは、このような「アラトゥエ支援システム」のような上部概念/戦略のもと、社会を構成する各組織がそれぞれの「ウィンウィン」のためにシステム化されることだ。

たとえば、通信制高校のアラトゥエ対策組織を各高校にまずはつくる。そのうえで、それぞれの組織の連絡ネットワークを構築する。
それと同時に、「アラトゥエ・インターンシップ(まあニートインターンシップのことだが)」に応じてもよい企業を開拓し、できる範囲のネットワークを構築していく。ニートインターンシップと同じように、マンパワー型の企業であれば、それほど悲観することはないと思う(当然開拓には時間がかかる)。
アラトゥエ・インターンシップは、福祉や農業といったよりマンパワー型の業界には歓迎されるかもしれない。

支援団体は、アラトゥエたちを心理的ソーシャルワーク的に支えていく。これもネットワークを構築する。

こうした取り組みが、超少子高齢化社会の「現役世代」を強化することにつながると僕は思う。現役世代の強化は、東日本大震災後の新時代の「復興」にダイレクトにつながる。
戦後、我が国がいち早く復興できたのは、若い世代が一斉にポジティブになり、職場と家庭の向上に邁進してきたからだ。その結果、高度成長と人口増加が達成された。
そんな戦後のような「復興」はしなくても僕はいいと思うが、21世紀に即した「復興」のかたちが僕はあると思う。その鍵を握るのが、今元気がないと言われる「若者」なのだ。

現在、60才以上が、大きな発言力と(選挙の)投票力と税金支払力をもつため、最も重要だと思われる以上のようなことが、日本お得意の「見えない化」になってしまっている。
これを「見える化」(まあこの言葉はどうでもいいが)させるために、「アラトゥエ支援システム」にも力を入れたい。これを、ニートインターンシップとならんで、淡路プラッツのふたつめの中期戦略目標にしようと思う。★

2011年9月25日日曜日

イノベーションこそ、評論ではなく行なうもの

いつの間にか当ブログから「隔日刊」が消え、さっきレイアウトを最新版に変えてみた。20代の頃に編集仕事をしていたせいか、どうもこの手の「レイアウト系」が僕は好きで、どこまでが趣味でどこからが仕事かわからない。今日は日曜なのだけれども、朝からこつこつパソコンをいじる作業がどうも楽しくて仕方がない。

もちろんこのような作業は自宅で行なっており、僕がもしNPO代表ではなく普通の職員であれば、休日のこのような作業は上司から怒られるところだろう。でも代表だからいつでもどこでも仕事してもそれほど問題でもないかなーというのと、これはほとんど僕の趣味(mac的ハードウェアの探求とgoogleやFacebook的最新ソフトウェアの探求)の領域であるということで、見逃してくださいな(これ以外の仕事はすべて職場でしています)。血圧も全然正常値だし。

自宅も、半年前に引っ越した2LDKのマンションが、そして人生の流れでこうなった的47才一人暮らしスタイルが楽しくって仕方がない。悩みは、この頃はあまりに自然のリズムで生きているせいか、腸の状態も完全に小学生時代に戻っており、ということはなぜか僕の場合、午後に便意を催すという変なリズムであって、なんだか今は腸のあたりがむずがゆいということくらいだ。

ブログをどう構成しなおしたかというと、タイトルの下に「書評」とか「NPO経営」等のラベルをつけてみた。
これら以外にも、この半年間のブログ執筆でソースはたくさんあるのだが、すべてラベルにしてもわかりにくい。当ブログの読者は、NPO関係者やひきこもり支援者がメインだと認識しているので、それらみなさんにとって少しでも有益な情報・アイデアになるようなものをタイトル下のラベルに並べてみた。
タイトル下のコピーに書いたように、これらソースからいくらでも「パクって」いただくことはフリーです。ただし、当ブログ名とアドレスはどこかにご記載くださいね。

最近流行りの「フリー」理論が当たっているのであれば、この方法が結局はプラッツ自体へのアクセス数(メール・HP閲覧・電話等すべて)を増やすことにつながるという。まあ、ああしたフリー理論は、普通の商品販売業に向けて書かれており支援業はアウトオブ想定だろうから、たぶんあまり直接的威力はないだろう。
でも僕は、ああした異分野というか市場の流行理論を異業種にも応用してみるという視点が好きなんですね。

このような業界の常識からはみ出る取り組みをいくつも積み重ねていくことが、結局は「イノベーション」につながることだと僕は思う。ひとことでいうと、「そんなの、支援と関係ないじゃないか」と「普通の支援者」が指摘しそうなことにこそ、イノベーションのヒントが隠されているということです。
思い出すと、僕のこれまでの人生は、そんな変なプチイノベーションと、結果オーライ的ラッキーさに支えられてきたように思う。そしてこれが肝心だが、現在の苦しむ青年たちにも、こうしたプチイノベーションと結果オーライ的ラッキーの恩恵を受けてほしい。そのためには、プチイノにつながるようなことをとにかく撃ち続けなければいけない。

そういうわけで、今回のラベルの中では「支援の提案」というのがこのプチイノベーションにつながる領域だ。ここに、最近言及している、「ニートが担う老人介護」系や「ハイティーンひきこもり」系をまとめてみた。
これらを、理論と実践両面から徐々に充実させていきたい。

そういえば、池田信夫さんが『イノベーションとは何か』という新刊を出したそうだから、今から買いに行こうかな。
池田さんも言うだけではなく自分でイノベートすればいいのに。そう思うのは僕だけか。
スポーツ好きがスポーツ観戦ではなくスポーツすることそのものを好むように、真のイノベーション好きは、イノベーション評論ではなくイノベーションそのものを行なう、と僕は思うなあ。
だから僕は、編集者をやめてNPO代表/支援者になった。イノベートそのものにはあまり成功したことがないが。★

2011年9月22日木曜日

ニーチェと子ども

台風は関西からは去ってゆき、徐々に青空が見え始めてきた、いまは朝の8時半。来月からはいよいよ週5日の通常勤務に戻るので、この木曜休日も今日を含めてあと2日となった。
それにしても昨夜のニュースでは、またもや「帰宅難民」のたいへんな映像。僕が子ども(いや、20代の頃までかな)の頃は、多少の台風でも電車は動いていたから、帰宅難民みたいなものはなかった。これは、我国得意の安全への過剰反応か(そのわりには原発への津波は想定していないのだから変わっている)、交通機関を複雑に巻き込んだ東京一極集中の現れか。
いずれにしろ、やはり不思議な国だ、この国は。

まあそれはさておき、火曜日はI統括リーダーと、某T中市にある老人介護施設に見学に行き、そこで働く20才前後の青年たちに簡単なインタビューもした。心優しき彼らの発言に触れていると、やはり、老人介護の仕事をニート君/さんたちがになっていく時代になったという僕の予感はそれほど的外れでもないと感じた。

これから地元東淀川区の施設を見学したり、例の「富山式」を見学するI統括リーダーの報告を聞いたりしながら、来年度の事業構築に向けて徐々に構想を練っていこう。
また、このブログに何らかのヒントを感じた方は、みなさんの地元で、「ニートが担う老人介護」事業をみなさんなりの方法でどんどん構築していってくださいね。
そうやって地元で若者たちが働ける職場をつくっていくことで、東京一極集中を防ぐことにもつながっていく。

老人介護事業者のみなさんも、もっと若者向けの職業としてアピールする必要もあるだろう。僕がみたところ、基本的にさいろ社の編集者として取材していた頃と老人介護の現場は変わらなかった。
たぶん、「若者/ニートが担う老人介護の仕事」というテーゼがまだまったく一般化していないので(そんなことはありえないと思われているので)、老人介護の現場も、旧態依然とした職場のままなのだ。若者が老人介護の現場で有望な労働力になるということを知ると、老人介護の業者もその有望な「労働商品」を獲得すべく何らかの競争原理が働くはずだ。
いずれにしろ長い道のりが始まった気がする。

そんなわけで、僕はたぶんすっかり元気になったと思う。前のようにお酒も飲めないし夕食はきっちり18時半にとらなければフラフラになるしと、いろいろ制約はあるものの、昼間はそれほど脳もぼんやりしない。ほとんど以前と同じような感じで脳が動く。それは平行していろいろなことができるということなんだけど、あまりやりすぎると恐いからしばらく自制するつもりではいる。
また、今回の病気をきっかけに、せっかく僕への一極集中ではなく、組織としてプラッツ全体が機能しているのだから、この調子で機能させていこう。大きな代償を支払いはしたが、結構僕は結果オーライ型。ポジティブな性格の人ってこうなんじゃないだろうか。

健康になってきたと同時に、暗いことも考えなくなってきた。以前、「猫は自分の死を知らない」(2011.8.11当ブログ)というタイトルで、動物は自分の死を知らず人間はそれを知っているものの健康になると忘れがちになるということを書いたが、確かに健康になってくると自分の死が客観的なものになる。

まるでミステリーに出てくる死のように、自分の死を客観的に想像することはできるが、数カ月前までさかんに言及していたごとく、まさに「この自分」が死ぬことになるいう「自分にやってくる死」というものを、リアルに想像しにくくなる。
自分は死ぬ。だけれども、それは何となく他人事なのだ。そしてたぶん、他人事だとそう考えることができるというそのことが、「健康」だということを表している。人は健康になって初めて死を忘れる。

先に僕は18時半に夕食をとらないとフラフラになると書いたが、朝の10時頃や午後3時頃にもちょっとおやつを胃に入れないとなんだか元気が出ない。おやつを胃に入れると、そのあと復活し、元気にしゃべったりアイデアを浮かべたりできる。そしてそのあと少したつと(特に15時過ぎは)ちょっと眠くなってくる。

それはまるで10才の子どものようなのだ。ニーチェが『ツァラトゥストラ』のなかで、「忘れること」に肯定性を見出し、子どものあり方こそが肯定の極みだと言ったことがこの頃は何となくわかってきたような。
人は健康になることで死を忘れ、それは子どもに至って究極になる。今の僕は、47才の変な子どもになったのかもしれない、なーんて。★

2011年9月19日月曜日

ハイティーンはなぜ潜在化するのか


ネットの壁紙集から拾った綾波。彼女は14才なのに働いている。
■ニッチ中のニッチ

淡路プラッツは、現代社会の中心問題と化してきた青少年問題の中でも、狭間、つまりニッチな領域を支援対象とする。
そのひとつに、このブログで「ハイティーンひきこもり」と仮に名づけている状態がある。がある。

「ハイティーンひきこもり」とは、中学卒業後挫折体験が続くことによりひきこもり状態になった青年を指すが、この年令こそ、「ニッチ中のニッチ」のひきこもりだ。

つまりは、中学卒業後にひきこもりになってしまうと、相談に行く公的機関がないということだ。いや、たとえば子ども家庭センター(児童相談所)に専門コーナーがあったりはするのだが、担当職員が極端に少なくて現実的に対応できない。

また、各地にある若者サポートステーションも15才以上は対象ではあるものの、二人に一人が大学を目指す我が国で、高校をやめてひきこもりになったとはいえ、いきなり就労にギアチェンジできるかと問われれれば、よほどの経済的事情がない限りは就労しないだろう。で、経済的事情がある人はサポステの助けを借りずともさっさと就労してしまったりする。

■すぐに大人になるので潜在化する

ハイティーンでひきこもっている人のニーズは、いたってシンプルで、つまりは「学校に行きたい」ということなのだ。
そして、「友だちがほしい」。そして、「“普通“”になりたい」。
僕が17才でひきこもったとしてもおそらくそう願うだろう。この日本で、他の友だちは何らかの学校に行くのに、自分だけ働くなんて考えることもできない。
そして、そもそも「働く」というこがまったくイメージできない!

こうしたハイティーンひきこもりの考え・願い・ニーズは決して否定できない。支援者であるならば、そのニーズに寄り添ってあげたいと思うだろう。
けれども、こんなシンプルなニーズをもっているハイティーンひきこもりの青年たちに対して、行政は長らく本格的な取り組みができていない。

なぜか。これもいたってシンプルで、「ハイティーンひきこもりはすぐに(数年で)大人になる」からだ。大人になると、社会参加の目標は「学校」ではなく「就労」になる。そして就労が目標になると、サポステを始めとして社会資源は整ってきている。

■就労支援優先がハイティーンひきこもりを生んだ

また、少し前と違って、20代30代のひきこもりの要因の第一は、不登校ではなく「就労関係の(就職活動中や就職してすぐの)挫折体験」に変化してきた。
このことも、ハイティーンひきこもりを“ニッチ”に追いやる。ひきこもりの直接の原因は就職活動・就労体験がトップなのだから、不登校後の挫折については後回しでいいだろうと。

だが、僕の経験では、このハイティーンひきこもりの段階で丁寧な支援を積み重ねていくと、その後のフォローも必要ではあるが、社会参加率が格段に高くなる。このことは青少年支援者であれば頷いていただけるだろう。
だが今のところは、NPOやその他カウンセラーとのラッキーな出会いがないと、彼らは立派なハイティーンひきこもりとして停滞の中に留まる。

と言いながら、具体的な「仕組み」を提案できる段階には今日のところは至っていない。今回は、誰もが気づきながら「そのうちほっとけば20才になって課題を“就労”に絞り込めるから」と放置されているハイティーンひきこもりに対して、何らかのシステムづくりにとりかかる、という宣言だ。 

繰り返すが、適切な支援さえできれば、ハイティーンひきこもりの自立スピードは早い。ハイティーンでひきこもっている数年間をひきこもらない数年間に変えることができるのだ。
キーは、こうしたハイティーンひきこもりという「ジャンル」づくりと、そのジャンルに基づいた支援システムづくりだと思う。言葉(概念)を提案できれば、社会は動く。★

2011年9月15日木曜日

ふたつの問題はリンクした

おっと、今日はもう木曜日ではないか。先週はきちんと隔日更新できたが、四国から大阪に戻り、仕事が再開したとたん、また前の3日更新ペースに戻ってしまった。いま僕は、大阪市内にある某公的施設の会議室におり、その部屋を少しの間お借りしてこうしてブログを書いている。

前回のブログは最近考えてきたことをまとめたものだった。しばらくは前回のテーマに沿ってプラッツは動こうと思っている。つまりは、「老人介護とニート就労の接続」という、誰もが安直に考えがちのテーマに向けて動こうというわけだ。
いや、安直ではなく、前回も書いたとおり、いまこそその時が来たと僕は思っている。マルクスではないが、「そこがロードスだ、飛べ!」だったかな、『資本論』のあの有名な一節のごとく、わかりきってはいるけれども誰もがそれに向けて動かないそこに向けて動く時がやってきたように感じられて仕方がない。ウィンのn乗になるように。

そんなわけで、懸念のNPOはぐれ雲K代表に電話してみた。噂の「富山式」(民家のような生活の中で、老人だけでなく子ども・若者・障害者がかかわっていくというスタイルらしい)を調べるために。
Kさんは相変わらずの明るい調子で、「いいよ、来いよ」と富山に誘ってくれたので、I統括リーダーを、派遣することにした。
僕は食事のペースやその内容がいまの健康を維持するための最大の課題なので、なかなか宿泊系の仕事には出かけられない。本来ならば僕が富山に行って細かく取材したいのだけれども、そこはすべてI統括リーダーに任せることにした。はぐれ雲の超ナイスガイスタッフE君が、明るくI統括リーダーを迎えてくれることだろう。

同時に、大阪でも地元の東淀川や豊中などの実態を探っていくつもりだ。思い起こせば20年前、友人の松本君とつくった出版社「さいろ社」の雑誌の取材で、僕は毎日のように老人介護の現場を取材して歩いていた。
その頃は、老人問題は老人問題、不登校問題は不登校問題とばっさり線が引かれていた。医療・看護と教育は別世界のジャンルであり、教育問題に関心があった僕は、医療問題を中心とするさいろ社から徐々に離れていったのだ。さいろ社で不登校問題の取材をやらせてもらい、単行本も一冊編集した後、やがて僕は、今の「実践」のほうに移り始めた。

それから20年、不登校問題は拡大して「若者問題」に吸収された。老人問題は単に介護現場の劣悪さの改善だけではなく年金問題等の社会システムの問題とより直結している。
そして、若者問題が解決の方向に向かうと年金問題にも明るさが見え、超高齢化社会にも光が指すというように、その両者は20年の時をへて見事にリンクした。こう考えるとさいろ社をやめずに編集者として地道に仕事しておくべきだったかなあとも思うが、運命が今のように僕を導いたのだから仕方がない。
老人介護の問題の緩和は若者問題の解決につながる。これは確実なのだ。だからその道を僕は突き進もう。

ああ、そろそろこの会議室を出る時間が近づいてきた。やばい、働きすぎには注意しなくちゃ。みなさんも暑さには気をつけて〜。★

2011年9月12日月曜日

この“ウィンn乗”によって、「ニートが日本を救う」ことになるのか

昨日から例によって、月に一度の四国への療養帰省中。すべてのことから離れて一人思考するこの数日は、いまの僕にとっては非常に貴重な時間だ。

ところで今回のこのタイトルも、冗談でも何でもなく、最近の一連の思索の流れの一環から来ている。

最近の思索の流れとは以下のようなものだ。

①現在の日本には、「動的ニート」(10年単位の月日の中でバイト⇔ニートを行き来するが、当人の年金は団塊を中心とした親世代が払う)と仮に僕が呼んだ層がもしかすると数百万人単位で存在している。

②動的ニートは、職業的スキルが積み重なっていない。

③年金を自分で支払わない動的ニートの親御さん世代が順に亡くなっていくと、自動的に肩代わり年金は支払われなくなり、全体の年金準備金がどっと減る(と経済素人の僕は想像している)。

④年金制度のような社会の根本制度を事前に変革できない国民性をもつ我が国は、本当の危機になるまでは年金制度を「官僚の現場力」でしかおそらく小手先対応することしかできない。

⑤この素人でも予測できる危機を(まったくの的外れであることを祈る)NPOレベルで対応するには、単純に動的ニートに自分で年金を支払ってもらうような仕組みをつくり、その労働が継続するよう個人支援をしていくことだ。

⑥だが、②に書いたように動的ニートには職業スキルが積み重なっていない。

⑦けれども、ニート君/さんは、基本的に人にやさしい。

⑧職業スキルは後追いでつけてもらえばいいから、とにかく「気持ちがやさしくて」「真面目で」「マンパワーが必要な」ジャンルが日本には二つある。

⑨そのひとつは、老人介護の世界である。

⑩そしてもうひとつは、第一次産業、特に農業である。

どうだろう、⑩については今日いきなり書いてしまったが、⑨までは前回までの当ブログにおいて、ふにゃふにゃとあっちにいったりこっちにいったりしながら考察してきたことだ。

また結論部分は、3K(きつい・きたない・危険)の代表である介護労働を結局若者に押し付けるのかとか、賃金が低い職業の代表である介護労働を結局若者に押し付けるのかといった批判が伴うだろう。昔懐かしいが、若者をプロレタリアート階級に固定するのかといった批判もあるかもしれない。

また、いまどきの若者がたとえ10年ニートだといってもキツイ介護や農業をするわけがない、もう少し「若者のニーズに見合った職業を」というような、少し前の僕の考え方に立つ人も大勢いるだろう。

3Kや経済格差の固定については、それはそのとおりだと思う。だが、たとえば経済学者の池田信夫さんの今日のブログにあるように、グローバリゼーションの負の効果として新興国労働者の賃金水準が日本の労働者の賃金水準に影響を与えることで、皮肉なことに日本の賃金水準が新興国の賃金水準に近づいていく。特に若者の賃金水準がグローバル化によって下がるそうだ。

そうなると、残念ながら、我が国の労働条件は、今よりはあまり上がらないだろう。もしかすると、3Kだなんだと選んでいられない状況になるのかもしれない(もうすでになっているのかもしれないが)。

若者のニーズに関しても、グローバリゼーションは影響を与える。たとえばアニメ関係であればアジアのほうが賃金が安いのでそちらに注文が流れるし、より専門的な職業(たとえばファッションデザイナー等)は今も昔も「才能と運と親の経済的余裕(が保証してくれる成功するまでの時間)」が必要になるので一部に限られる。

若者のニーズの変化に関しては、前回の日記に間接的に書いたつもりだ。

では、社会の年金準備金のために働けと若者に言っても、それは当然あまり働くモチベーションとはならないだろう。僕が若者だとしたら絶対そんなことのために働かない。

若者とは、徹頭徹尾自分のために生きる存在なのだ。これまた、今も昔も若者とはそんなものだ。僕はそれでいいと思う。

結局キーを握るのは、「どうすれば今よりも相対的に全体が幸福になれるのか」という考え方ではないかと思う。全体とは、ここでは、a.若者・保護者、b.それを支援するNPO(等の支援法人・団体)、c.支援機関を支える行政、d.若年労働者を雇用する企業・法人・行政・個人、e.社会システム等を指す。eの社会システム以外は、今流行の言葉でいえば、若者を取り巻くステークホルダーと表現してもいい。

若者(あるいは若年労働者)にかかわるステークホルダー全体が、ベストは無理かもしれないが少しはベターな結果を得られる「ウィン・ウィン・ウィン……」な関係を目指す。ウィンがいくつあるのかわからないので、「ウィンn乗」とでもしておこうか。

これ以上は、哲学の領域になるので踏み込まない。とにかく何に価値を置き、どう動くかがポイントとなる。

今は僕は、

1.「動的ニート」が老人介護と農業の仕事をして自立を目指すことで若干の自信をつけ(動的ニートの中にそうしたキツイ労働にチャレンジしてみてもよいという層が現れたと僕はみる)、

2.慢性的人手不足の老人介護と農業業者が労働者を確保し、

3.その苦しい労働を行なう若年労働者をNPO等が心理的福祉的に支え、

4.年金が若者の保護者の代行ではなく若者自身によって支払われることで年金準備金の見通しがたち、

これら14が成り立つことで「ウィンn乗」関係が成り立つことを目指したい。

そしてこれは結局、「ニートが日本を救う」ということになるのだろうか。

ところで、昨日は四国に帰省するのに精一杯で、あの「富山方式」を探るために、「NPO法人はぐれ雲」K代表に電話するのをすっかり忘れてしまった! 今日はブログを書いて脳が燃え尽きたので、今週中頃に大阪に帰ってから電話してみよう。まあ、電話してもイマイチ意味不明なのだが、Kさんって……。★

2011年9月10日土曜日

老人介護に「動的ニート」が真剣に取り組む時代がやってきた

Xperia rayは一昨日(つまりは前回ブログを書いたすぐあとに)ゲットした! このスマートフォンは「大人女子のためのスマートフォン」みたいにクールに宣伝されているが、デジタル家電超アーリーアダプターの僕からすると、はっきりいって「買い」というかスマフォ最強というか今はこれしかないだろうというくらいのシロモノだった。
一見最新ウォークマンだが、すべての動作がサクサク軽く、そしてモノそのものもスマフォ中最も軽く、iphoneのように狭い世界に閉じ込められていない最強のスマートフォン、それがXperia rayだろう。冬モデルシーズン到来までの3ヶ月はまだ最強の位置をキープすると思われるので、買い替えに悩んでいる人は即今日ドコモに走ろう!

それはさておき、この数日、タイトルにあるように、ニート若者が本格的に老人介護の仕事に向かうことができるような仕組みをつくってもいい時代がきたのではないかと考えている。
そもそも事の発端は、某老人介護施設のスタッフの方からプラッツに講演依頼があり、僕がその担当になったということがだった。数日前、打ち合わせに担当者の方に来ていただきいろいろ話していたのだが、緊急雇用創出基金事業をつかったその施設での若者雇用の取り組みのなかで、かなり若者たちの評判が高かったのだ。
仕事内容は当然オムツ換え等の専門的なことはお願いできないので、話し相手等の簡単な介護だけなのだが、そのなかでも、若者たちが醸し出す雰囲気が認知症の老人に対して非常にプラスの効果があるのだという。
若者たちも悩みながらなんとか仕事に取り組んでいるそうだ。

僕はそういう話を聞いて、「ニート/ひきこもり青年と老人介護の仕事をマッチングできる時代が、ついに到来したのかもしれない」と感慨深くなった。
ニート/ひきこもり若者と老人介護のマッチングは、5年以上前からいろいろなところで叫ばれており、別に目新しくもない。だが、5年前は、若者と老人は本当に「遠かった」と思う。当時はまだニートという言葉が社会に現れ始めた頃、ひきこもり問題もそのほとんどの原因が本人と家族にあるといわれていた頃だった。
それから5年(以上が)たち、若者の社会参加の問題はより拡大・深刻化した。9月1日の日記「動的ニートと静的ニート」
に書いたとおり、僕が仮に「動的ニート」と名付けた膨大な「年金不払い群」の存在が、20年後の我が国には大きな重石となると思われる。
そのようなこともあり、若者の社会参加の問題は、単に一個人や一家族の問題ではなくなってきており、年金制度とも深く結びついた我が国の「一丁目一番地」の問題になった。

同時に、ニート/ひきこもりの主流が30代中頃〜前半に移行してきたこともあり、彼ら彼女らがある意味「大人」(社会参加はしていないものの)になったことから、以前のように「老人介護からは遠い存在」ではなくなってきたと僕は思っている。
ひとことでいうと、「自分にできる仕事があれば、それが老人介護の仕事であってもやってみたい」と考える若者が、5年前よりは格段に増えているのではないだろうか。

そんなことをスタッフに言っていたら、どうやら「富山方式」という言葉が若者支援業界にはあるらしく、富山県ではニート若者と老人介護のマッチングがすでにさかんに行なわれているらしい!
この1年、自分の病気でいっぱいいっぱいで、そんな富山方式なんてまったく聞いてなかったとスタッフに言うと、「いや3年くらい前から話題になってます」と指摘された。どうやら、ニートと老人介護のマッチング可能性に気づかなかったのは、まずは僕の問題だったようだ。

富山といえば……、そう、プラッツでソフトボール交流会を10年以上行なってきた「NPO法人はぐれ雲」があるではないか! で、はぐれ雲は、その富山方式の中心に位置しているそうではないか! はぐれ雲のK代表はとてもやさしくて長らくお世話になっている人だけど、時々何を言っているのかわからないことがある。
その、聞き取り読み取り不可能な言語領域を乗り越え、K代表にXperia rayを使って電話してみよう。この前ソフトボールでお会いしたばっかりだけど。

しかし、20代の頃、僕は友人と小さな出版社をしていて、その頃、何事も体験だと思って老人介護のアルバイトを何年かしたことがあるのだが、あんなたいへんな仕事は他にあまりないと思い、ひきこもりやニートの若者にはとても無理だろうとプラッツに入ってからもずっと思ってきた。
それがそれが。こんな時代になるんですねぇ。まずはXperia rayで電話だ。★


2011年9月8日木曜日

Xpreria rayが「逃げちゃダメだ!」と僕に叫んでいる

と、ふざけてタイトルを書いてしまったが、とにかく1年半前に買った初代エクスペリアが反応が遅くて遅くて困っている。
たとえばエクスペリアによる自動チェック。ほとんど15分ごとに勝手にメールをチェックして、そのたびに作業が超遅くなってしまうので、チェック間隔を1時間ごとくらいに延ばしたいのだけれども、そうした細かい項目が「設定』の中に見つからない。もうちょっと調べればどこかにあるんだろうか。
一応僕は、先代と先々代iphoneも発売日初日に購入したいわゆるアーリーアダプターなので、それほどデジタル音痴でもないはず。若者との面談の中では、慣れた人になると、悩みを聞くのは15分くらい、あとはアニメとデジタルグッズの話題ばかりという、仕事と趣味と実益をお互いがウィンウィンで共有するという変な面談をしていたというくらい、デジタル好きの僕なのだ。だから、たぶんエクスペリアの設定は(というかアンドロイド2.1は)、iphoneに比べて地球3周くらい遅れていると思えて仕方がない。

ではなぜ僕は、1年半前iphoneからエクスペリアへどどっと変えたか。このブログもいま、マックブックエアーで書いている生粋のアップルマニアが、なぜよりにもよってガラパゴス帝王的なドコモ&ソニー・エリクソンに変えてしまったか。
実はiphoneって、3と3sは、自由そうに見えてものすごく自由度の低いスマートフォンだったのだ。評判のいい4は知らないけど、3sは、アイコンも自由に配置できないし、壁紙もアップルが制限しているため数が知れている。パソコンがマックなのでitunesは確かに便利ではあるが、それもまた見方を変えれば上手く使うには「アップルの世界観」に乗っていく必要がある。

これは、ウィンドウズマニア(特にゲーム好きやマシーン組み立て派)がアップルを批判する際によく口にする言葉だ。僕は、パソコン世界では完全にアップルの世界観に屈しているので諦めているのだけど、スマートフォン世界では、まず最初にiphoneが現れて遅れてアンドロイド(グーグルがつくったウィンドウズみたいなもの)がやってきた。
パソコン世界では、乱雑なウィンドウズ世界にある種の孤高の秩序を導入してくれたアップルがわかりやすかったしカッコよかった。だが、スマートフォン世界ではまず最初に秩序(iphone)が打ち立てられ、そのあとに自由(アンドロイド)がやってきた。
僕はそもそも、すべての価値観の中で一番「自由」が好きだ。それが強欲資本主義に結びつくと批判されようがなんだろうが、とにかく自由を一番大切にしたい。そのことは、清志郎もあの世から歌ってくれている。

というわけで、よくできているけれども堅っ苦しいiphoneをやめて、1年半前にアンドロイドにした。当時まともなアンドロイドはエクスペリアだけだったので、わりと気に入って使ってきたのだ。
でも、半年くらい前からものすごーく遅くなってきた。だが、2年契約だし傷病手当の身だし我慢しなくちゃ、と思ってこの間過ごしてきたのだ。そこに現れたのが、Xperia ray! この、レイというのがなんともいい響きというか、あたかもソニエリはまるで僕の趣味を見抜いているようだ。
そう、『エヴァンゲリオン』の綾波レイが新しい映画版で生まれ変わったようにまるで性格が明るくなったごとく、僕のエクスペリアもXperia rayに生まれ変わってサクサク動きたいと思っているんじゃないか!

そう思うと、デジタルマニアの心がうずうず蠢き始めた。そして、前回も書いたとおり、ここに僕の身体の復調も伴い、ここのところ時間があればrayに関する「価格.com」の書き込みを見ている。
いずれも評判が良い! これはヤバイですぞ〜。そして今日は僕は休みですぞ〜。で、このように早々にブログを書き上げそうなので、いま(朝の9時半)からたっぷり時間がありますぞ〜。そして数日前、事前に近所のドコモで下調べなんかしてたりもしますぞ〜。

次回の報告をお楽しみに!!★

2011年9月6日火曜日

ステゴザウルス級だけど 〜忘れないための短いノート

休み明けのプラッツというのは本当に忙しく、今日も朝から夕方まで、スタッフ全員バタバタと忙しそうだった。いつの間にやら僕もそんな忙しさの流れに乗っており、いろいろな打ち合わせが続いて気づけば夕方になっていた。病気前よりはかなり仕事をセーブしているのでまさか倒れることはないと思うが、身体もちょっと落ち着いてきた今だからこそ、慎重に日々を過ごさなければいけない。

そんなことを、さっき風呂に入りながら考えていた。で、もうひとつ同時に気づいたのだが、いつのまにか、この時間(今は21時30分)まで普通に脳が動いている!
今も疲れていることは疲れているのだが、以前であれば、こうしてパソコンに文字を打つどころか、本を読むこともできないくらい脳がぼぉーっとしていた。
以前といっても、7月頃の話だから、つい2ヶ月前のことだ。そのちょっと前は、夜はもちろん、昼間もお昼を越えた頃から脳がぼぉーっとし始め、14時にはまったく回転しない状態になっていた。
今から思うと、その時間帯にもスタッフミーティングをしたりしていたのだからわりと無謀だったのかもしれない(医者はもっと働けと言っていた……)。が、そうした少しの無理を重ねてきたおかげで今の回復が訪れたのかもしれない。

いずれにしろ僕は、昨年の9月末に病院を退院し、それから1ヶ月間実家の四国で過ごし、11月から関西の自分の家で住み始めたのだけれども、つい最近までほぼ1年近く、おそらく長い長い回復期間を過ごしてきた。
見た目は麻痺がなく、会話もできるが、脳の中身は、ものすごく持久力がなかったと思う。持久力が少しついてきたのがつい2ヶ月くらい前のことで、今月になったくらいから(つまりは数日前から)やっと元に戻ってきた。
そのことに、さっき風呂に入りながら気づいた。病気から1年、長い長い道をたどって、やっとここまで来たんだと。

昔から僕は、友人たちにステゴザウルス級にいろいろなことに気づくのが遅い、だからいろいろなことに突破していけるのだと、褒め言葉か非難かわからない指摘を受けてきた。今日の「1年ぶりの回復感」に関する気づきも、そうしたステゴザウルス気づきの一環なのかな。
だが、脳出血という大病を経験し、手術を受け、そしてなぜか麻痺が残らず退院し、1年間かけて回復してきたことは、結構たいへんなことだったんじゃないか、ふだん平然と過ごしているのだけど、これはもしかしてものすごく幸運で珍しい体験だったんじゃないかと、これもまた今日思い至った。
だから、忘れないうちにブログに記録しておこうと思った次第。今の減塩生活を続けて、無事年を重ね、今度の「ピンチ」は病気ではなく、老人になってからの身体的衰退であることを願って。いまの感じであと20年間は生き続けるために。そして、僕なりの「社会貢献」が地道に続けられるために。★

2011年9月4日日曜日

マンガ好きだけでは友だちはできない〜『GANTZ』『進撃の巨人』


画力はすごいが、イタイ……

■知られていない「国民マンガ」

今回は有名であるがマイナーでもある話題のマンガをとりあげてみる
『進撃の巨人』のオビには、捨ててしまったから忘れてしまったものの、ものすごく売れている! みたいに書かれていたことは記憶している。『GANTZ』はニノジュンと松ケンで映画になるほどだからもはや国民マンガだ(32巻までで1,800万部!)。

けれども、みなさんの周辺にこの二作を知っている人がどれだけいるだろうか。おそらく、若い人を含めてもそれほどはいないだろう。

このあたり、今の若者は不幸だと思う。僕が若い頃は、たとえば『ドクタースランプ』や『タッチ』は誰でも知っていた(アニメ化以前から)。
ピーク時の部数だけでいえば、『GANTZ』も『タッチ』もあまり変わらないはずだ。今は娯楽が極端に多様化し、単にマンガ好きだけでは『GANTZ』まで届かない。

■マンガ好きだけでは「友だち」はできない

今は、マンガ好きではなくGANTZ好きにならないと『GANTZ』までたどりつけない時代になってしまった。
ということは、マンガ関係のサークルに入るだけでは友人はなかなか見つけられないということでもある。

友だちを見つけるには、以下の4段階を経る必要がある。それは、
①大学(等の学校)に入る
②勇気をもってマンガサークルに入る
③そのなかでもGANTZが好きそうな集団を見分ける
そして、
④超超超、超勇気をもって「あのー、僕もGANTZ好きなんですけど……」と話しかける。

これは、リアル空間ではなかなかめんどくさい。
また、Facebookはどうやらある種エスタブリッシュな匂いがするツールになりつつあるので本当の趣味のリアル友だち探しには使いにくい(つまりは何らかの社会的「肩書き」があるほうが有利)。
結局は、上の4段階ができない人は、従来の匿名ネットツールを使用するのだろう。

■これは「決断主義」か?

『進撃の巨人』は5巻まで出ているが、2巻でめんどくさくなってしまった。
『GANTZ』は超惰性で買っているものの、すぐにブックオフ行きとなるだろう。要するに、両者とも僕にとってはなかなかのめり込むことができないのですね。


画力は急激に進化しているが、行き当たりばったり感が『GANTZ』と双璧


なぜハマらないのか、考えてみた。最初は、いわゆる「決断主義」への心理的反抗かなと思っていた。

『決断主義』とは、『リトルピープルの時代』著者の宇野常寛氏が以前提唱した概念で、ひとことでいうと、「切羽詰まった状況ごとに決断して未来を切り開いていく」作品群ということになるのかな。
00年代になって現れ始めた作品群だと宇野氏は指摘する。これに対して、「エヴァンゲリオン」に代表される「セカイ系」があり、「決断主義」はこの「セカイ系」と対応して用いられることが多い用語だ。

僕はこの分析自体は好きなのだが、「決断主義」ってそんなに大したものなのかなと前々から思っていた。

状況ごとに決断といえば聞こえはいいが、それはつまりは「行き当たりばったり」ということではないか。
作者が狙って「行き当たりばったり」を作っているのならそれそそれでスゴイが、ほとんどはそんな狙いもなく、「何となく設定と主要人物だけ考えて始めてみました」というのが実情ではないのだろうか。

■決断主義とは「行き当たりばったり」主義

特に『GANTZ』はそのノリが強く、極論をすると、30巻くらいまでは行き当たりばったりと、超絶(エロっぽさ含む)画力で推進してきたマンガだと思う。
作者は残念ながら、『幽遊白書』作者や『ストップひばりくん』作者のように精神的に追いつめられることもなく、30巻まで来てしまった。そして、ついに「巨人」世界を出さざるをえなくなった。これはイタイ……。

『進撃の巨人』作者は、いきなり巨人世界から始めているが、これも各話のはじめに「ここまでで種明かしできる世界像」みたいな説明が入っているものの、どうもこれ以上は今のところ考えていないような気がしてならない。
一応最新刊まで追うつもりだが、未読の巻の説明だけを読んだりウィキペディアでストーリーをチェックすると(思い入れ無いし〜)微妙に適当な設定だ。

しかし、二作の作者の行き当たりばったり的創作スタイル自体が決断主義といえば決断主義で、これが心地よく感じられる人たちがいるんでしょうね。
緻密に構築された物語はめんどくさいのかな。

実は僕の関心は、決断主義の背景には、もしかしてあの「ゆとり教育」があるのではないか、という直感的な思いつきに移っている。
登場人物たちが抱く根拠のない自信は、根拠なく肯定されてきた者だけが抱くことのできる自信なのでは、といういじわるな見方だ。詳しくはまた別の機会に。★

2011年9月1日木曜日

動的ニートと静的ニート〜きっと予想は外れるだろうけど

前回、「動的ひきこもり」という概念を提案したが、あれから「動的ニート」のほうがいいのでは、と思い始めた。
要は、「点」で社会参加の実態を調査するのではなく、「線」でその実態を調査したい。その目的は、年金を若者自身が支払っているかどうかを知るという点につきる。今のところは親御さんが立て替えて国民年金を支払っているパターンが多いだろうが、10〜30年後に親御さんが亡くなっていくと、あとには40〜50代の「これまで年金を親に建て替えてもらっていた人たち」が残る。
この人たちはいきなり独力で国民年金を支払うことは困難だろうから、いっせいに生活保護申請へと走る。そのことは誰にも責められないし、僕が70才になっても支援者をしていればその申請を応援するだろう(75才には僕は死ぬだろうが)。
だから誰も責められないのだけれども、そのようにして40才後半から50才後半になるであろう人たちはいまいったい何人くらいいるのか。いや、今の生活をしているとそのような状態になるであろう若者が現在何人くらいいるのか。

それを知るためには、まずは「動的」という考え方が必要だ。これは「動く」という意味ではなく、「静的」と比較する意味で使っている。要は、ある時間の地点で調査してひきこもりとかニートとかにするのではなく、たとえば10年といった長い時間の間で3分の2はニートかひきこもり、3分の1は非正規雇用、たが社会保険はすべて親が負担、という層を捉えるためにつくった概念だ。
単にその時点でひきこもりやニートだけでは、その人達はやがて働くであろうし、その働いた先にはやがてまた少しニートになるだろうし、でもそのまたもうちょっと先には半年だけ働くだろうし、少し青年支援をしたことがある人ならピンとくるだろうが、現代の青年の自立とはこのような過程を通ることが本当に普通だからだ。淡路プラッツが「スモールステップ」支援という言葉をおすすめしているのは、このような青年の自立実態からきている。
動的とはつまり、長期間にわたって動く青年を捉える、といった意味になる。そのことで、真に社会から阻害されている(制度的には年金の本人未払いの)数を把握する。
把握することで、親御さんが亡くなったあとにどれだけの数が年金独自支払に困窮するのか、そしてどれだけの数が生活保護申請に向かうのか、その結果、国家財政的にどの程度危機に陥るのかを予想する。

動的ひきこもりではなく「動的ニート」に変えてみたのは、単純だ。ひきこもりでは「個人支援」の色が強すぎるからだ。
現在の若者支援には、①個人支援と②制度改革の2レベルがあり、ひきこもりを使ってしまうとこれまでのイメージからどうしても①の色がついてしまう。ニートには「就労」や「社会」という色が強く、まだ「非支援者」という意味合いはひきこもりよりは弱いことから、②を考えていく上では都合がよい。その程度の理由で、「動的ひきこもり」ではなく「動的ニート」にした。
要は、10年単位で動く若者の実態を把握したいわけだ。10年単位で、3分の2の期間がニート、3分の1が非正規雇用、そして年金支払いは全額親、という層がいったい何人いるのか。

僕は軽く500万人はいると思っているのだが、予想が外れることを祈る。500万人だと、現在の全労働者は6,000万人だから、その12分の1は「基本ニートで時々バイト、そして年金は親」ということになるのだが、まさかそんなに多くはないだろうとは思いたい。
繰り返すが、若者支援には①個人支援と②制度改革の2つのレベルがある。僕個人(あるいは淡路プラッツという一NPO)は、500万人「動的ニート」がいようが、目の前の若者と保護者を支援していくのみだ。だが、もしも500万人いれば(あるいはそのうち500万人になれば)日本の制度的危機は明らかだ。

そして我が国はシステムを独自改革できない国でもある。厚労省の役人という「現場力」レベルでは、高齢者年金の漸進的変革を通して目先の社会破綻は避けられるだろう。どんな事象に対しても、我が国は「現場」は強く、システム変革には弱い。これはとても不思議な現象だけれども、諸外国が我が国をそう見ているのは事実のようだ。
だから、厚労省の現場力によってしばらくは何とか持ちこたえてはいくだろう。だが、一気に500万人が生活保護の申請に向かったら。僕自身はそんな老後もアリだとは思うが(自由でいいと思う)、500万人は素人が考えてもヤバい。生活保護だけではなく、それらは年金も支払えないわけだから、超少子高齢化社会は簡単に破綻する。
きっと予想は外れるだろうけど、少なくとも実態把握は必要だと思う。500万人ではなく、100万人程度であることを(これでも十分多いか)。今の「静的ニート」だけでは、事の深刻さを発見できないのは明らかだ。そのための、「動的ニート」だ。★