2011年12月31日土曜日

すべての映画はエヴァンゲリオンで終わったかもしれない〜2011「映画」〜




というタイトルは、一般的なものではなくて、「僕にとってのすべての映画」という意味で、まあふだんの当ブログ読者にはあまり関係ないテーマかもしれないが、いまは恒例の四国・香川県へ帰省中であり、帰省するとどうもマイワールドに還ってしまう癖が僕にはあるのでご容赦を。
まさに、「私に還りなさ〜い♫」ですね(なんのこっちゃ)。

で、前々回は音楽について今年を振り返ったような気がしているので、今回は「映画」について振り返ってみようと思う(「本」はまたの機会に!)。

で、考えた結果が「エヴァ」だった。今年はエヴァ新作もなーんにもないのに、である。だって、音楽と同様、病後の僕は映画を観るパワーをすっかり失っており、アニメさえ「廻るピングドラム」も全然観ていないというありさまだ。ましてや、実写の映画なんて、なんていうか、「お腹いっぱい」という感じなのだ。

こう見えても僕は、シネマ哲学カフェの常連であり、中学生のときに「エマニュエル婦人」と「ゴッドファーザー」を見て以来、すっかり洋画にハマって中学時代は毎月『ロードショー』を買ってスクラップしていたというプチ映画マニアだ。
それが、最近はすっかり映画が遠くなった。蓮實重彦ではないが、「映画から遠く離れて」いる。その理由は音楽と違ってまだわからない。音楽は生命への入り口だったが、映画とはなんなのだろうか。

で、巡り巡ってたどり着いた映像は、「エヴァ」だった。

この頃の僕の頭の中は、エヴァンゲリオンの「魂のルフラン」が延々ループしており、エヴァ本編を見なおす体力は残っていないものの、今さらながら、30才ちょっとでこの作品を作り上げた庵野監督に脱帽し続けている。

今回ユーチューブでくっつけた下川みくにバージョンの「魂のルフラン」の映像には、主要人物・アスカのたくさんのカットが繋ぎ合わされており、それらのカットは「思春期のゆらぎ」そのものだ。
これらが入ったTV版のエピソードを見るだけでも、思春期の本質は理解できる。虚勢・偽善への嫌悪・性衝動・親との決別/親以外の他者への渇望等々、無理してサリンジャーを読まなくても、アスカ一人のエピソードを追っているだけでも十分だ。

だがエヴァの本質は思春期ドラマではない。まさに、生命のリフレインと魂のありかを直球でそれは表現した作品だ。
実はそれは現在も続いており、具体的には新映画版の中で表現されている。TV版を受けた上での「赤い海(経営流行言葉のレッドオーシャンではありません)」から新映画版は始まり、登場人物たちの「前のエピソードと似ているようでズレている」それらのあり方は、いま、この物語の中核である「魂のルフラン/リフレイン」そのものを描いていることが想像できる。

すごいのは、こうした物語の中核が、15年前のこの「魂のルフラン」の歌詞や、旧映画版「まごころを君に」の諸エピソードや、もっというと、TV版オープニング「残酷な天使のテーゼ」の0.数秒のカットの中に埋めこまれていたことだ。

この、魂のルフランというテーマに、庵野という一映像作家は生涯を縛られている。エヴァ以降、キューティーハニーやらなんやら変な実写映画ばかり撮っているが、それは、この「魂のルフラン」からいまだ逃れられないという証でもある。おふざけ実写で息抜きして体力を貯めて、15年毎に庵野は「魂のルフラン」に向かう。
まるで、庵野の魂自身がルフランしているように。この頃僕はそんな超オタク作家・庵野のことをすごく尊敬するようになった。

ミッションインポッシブルの新作が公開されようが、良心的邦画が立て続けに製作されようが、ポルトガルのペドロ・コスタ監督の新作が公開されようが、僕はやはり「エヴァ」に還る。その理由はいまだ不明。できれば来年解き明かします。でも、このまま謎でもいいかな。★

2011年12月28日水曜日

スモールステップ支援スケール Ver.1.0

今日からプラッツは冬休み。のんびりとした冬休み第一目は、とりあえずブログを更新することにし(ブログは僕の楽しみなんです)、昨日I統括リーダーとプラッツスタッフがまとめてくれた「スモールステップ支援表」を掲載することにした。
なかなかうまくコピーできないが、1時間くらい格闘してこれなので、今日のところはご容赦を〜。

Ver.はヴァージョンの略のつもりで、1.0とあるように、これまで書いてきたものはゼロ桁ヴァージョンとし、これを正式なものとする。

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★ひきこもり/ニート・スモールステップ支援表 Ver.1.0
アウトリーチ支援
生活体験
支援
就労体験支援
 
①親子間断絶型ひきこもり
②外出不可能型ひきこもり
③外出可能型ひきこもり
④心理面談型ニート
⑤就労面談型ニート
⑥短期就労実習型ニート
⑦長期就労実習型ニート
⑧短期アルバイト型ニート
⑨長期アルバイト型ニート
⑩正社員
家族
外出
支援者
就労

※④生活体験支援/心理面談型ニートは、以下の3段階に分かれる。
a.コミュニケーション(会話)
b.生活訓練(調理・清掃等)
c.レクリェーション(買物・カラオケ・旅行等)
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④の生活体験支援はa〜cの三段階にさらに分かれ、この段階は従来ブラックボックスであり支援者の「腕」の見せどころでもあり(だからプラッツ初代塾長・故蓮井氏のような「職人」伝説も生まれた)、ミステリアスゾーンであった。
ただ、このブラックボックスを円満かつ充実に過ごせたものは確実に次の就労体験支援段階へと移行できる。

このことは、淡路プラッツのような老舗フリースペースの支援がなぜ有効かという理由にもなる。つまり、老舗フリースペースは、自然とこの生活体験支援をメニューの中心に占めており、この段階を「慌てず騒がずぼちぼちのんびりと」若者が体験していくことで、自然と④段階すべてをクリアしている。
また、ニート若者段階に絞り込まずひきこもり段階の若者までレンジを広げるサポステで成功しているところは、必ずこの生活支援段階のa〜cを上手に取り込んでいると思う。
プラッツはサポステに応募していないので詳しくは知らないものの、サポステを実質的にとりまとめる厚労省は、この点を重視しなければいけない。

つまり、サポステにやってくる若者の何割かは、いきなり⑤段階から始めるとサポステを必ず挫折する。ひきこもりを脱したばかりの若者も射程に入れるのであれば、④のテーストを上手に取り込むサポステを評価しなければいけない。
要するに、「就労数」だけを評価対象とするのは、各サポステの意欲を削ぐということだ。

逆に、「就労数」だけにあくまでこだわるのであれば、潜在的ひきこもり層はよりひきこもっていくだろう。そのために、④を中心とした施設を創設していくか(セカンドプラッツのような今年度の大阪府の取り組み)、その層を「なかったもの」として潜在化/サバルタン化させたままにするか。

国のような大きな単位では、「就労数」のような明確な指標に頼らざるをえないというのも実情だろう。ニート層(⑤〜⑨)は国、ひきこもり/ニート初期段階層(①〜④)は自治体と棲み分けするのも手かもしれない。
いずれにしろ、若者問題はひとつの福祉問題ではない。主として人口構成的観点から、これから50年以上は続く「新しい国づくりの中心」にそれは位置する。そろそろ、その視点で2012年は各団体が語っていかなければいけないだろう。★

2011年12月22日木曜日

生命の世界にしか「うた」はない〜長渕剛・自衛隊激励ライブ「乾杯」〜



前回、法政大の樋口准教授のセミナーの報告をすると書いたが、それは少し専門的すぎる内容だったので、もう少し練ったあと別のかたちで書くとしよう。
今回は、昨日なんとなくグーグルニュースのリンクからたどり着いたユーチューブ長渕剛映像について少し書いてみよう。

うまくリンクできていればいいが、このユーチューブの動画は何か人の心を揺さぶるものがある。伝統的左翼からすると長渕剛は立派な右翼なので、その名前を聞いただけでも吐き気を覚える人もいるかもしれないが、この映像には、長渕剛の画像は実は「背中」だけしか映っていない。
映しだされているのは、激励ライブに召集された全国の自衛隊員の人たちの顔、顔、顔、だ。

当然この自衛隊員の方たちは、今回の東日本大震災の救援のために動員された人たちで、このライブは4月16日に行なわれたそうだから、震災後まだ1ヶ月しかたっていない。
日頃いくら厳しい訓練を受けているとはいえ、2万人におよぶ遺体の収容と、3000人に達する行方不明者の捜索は、彼ら隊員たちを疲労困憊の極地へと追い込んだに違いない。その疲労は、この映像に映し出される人たちの、なかば呆然とした暗い影を見るだけで普通に想像できる。

2万人もの遺体の収容とは、2万の死との直面ということでもある。それがある日突然現れ、仕事とはいえ、その夥しい数の死と実際に直面し、社会が納得する範囲でその死を丁寧に見送っていかなければいけない。それをこの隊員たちは、来る日も来る日も、続けていた、そんな日に長渕は現れた。

長渕は、ギター一本で「乾杯」を熱唱する。当然のことながら、途中からは自衛隊員の人たちといっしょに歌う。「乾杯」の歌詞は結婚式の定番でもあるように、その日の激励ライブには似合わない内容かもしれない。だが聞きようによっては「生きること」そのものを謳歌するような内容であるとも受け取ることができる。

映像の主役の隊員たちは、長渕の声に吸い寄せられるようにして、ともに歌う。その姿は徐々に活気に溢れ出し、自然と両隣の隊員同士で肩を組み、エンディングのリフレインまで突き進む。
長渕は、何百人の隊員を前にして、自分の声と生ギター一本のみで「乾杯」を歌いきってしまう。

ところで僕は、去年の大きな病気のあと、あれほど好きだった音楽がすっかり聞けなくなった。というより、音楽の必要がなくなった。iphone4sがあろうが専用スピーカーがあろうがラジコというアプリをインストールしようがビートルズが超安売りしていようがあまり関係なく、ついに音楽は僕の友達ではなくなっていた。

その理由はわかったようで明確ではなかったのだが、この長渕の映像を見て、確信した。つまり音楽とは、「生命」の世界にあるものなのだ。
自衛隊員たちは、長渕の声を聞き長渕のギターストロークに身を任せ、ともに「乾杯」を熱唱している。その姿は、乾杯のリフレインがひとつ終わるたびに、生気に溢れ始めるように感じる。言い換えると、夥しい数の「死」に直面していた世界から、身体をもった人間が隣に立ちともに「乾杯」を熱唱できる「生命」の世界へ戻ってきているように思える。

「うた」は生命の世界とつながっており、音楽は生命の世界への扉なのだ。

僕は病気と手術とその前後の10日間ほどの意識喪失により、なんとなく生命の世界から遠ざかってしまった。村上春樹風にカッコ付けて言うと、一度「森」の世界に入ってしまった。
いまはこの世界を楽しんでおり、前にも増してポジティブだ。だがまだ、あの圧倒的な世界の転換の実感が僕を縛り続けている。そこはやはりこの世界とは別の世界である。そのため音楽はまだ遠い。

今日は日曜の樋口セミナーに出席した代休だし、何かCDでも買ってこようかな。でも長渕はしんどいなあ。★

2011年12月16日金曜日

たとえば「ニート専用特例子会社」〜12/15レイブル(後期ニート)就労検討会議@WTC

昨日12/15、午後すべてを使って、寒風吹きすさぶ大阪WTCビル(前橋下知事が府庁機能を一部移転させた)20階オフィスで、「レイブル」就労検討会議があった。
大阪の主だった若者就労支援機関(6サポステ+府のひきこもり支援事業を行うNPO+長年自立支援を行なう府内外のNPO等)が集まって、13時から18時まで延々討議し、そのあと打ち上げも22時頃まで続いたという(僕は体調上30分で中座したが)、ロングロング検討会議であった。

会議といっても、これは例の「ニート100人会議」を開催した民間NPO(トイボックス、スマイルスタイル)が運営するものだから、かなり今風というか2010年代の香りが漂う楽しいものだった。
主催者(大阪府)あいさつや行政説明などにも、音量は下げてはいるもののBGMが流れ、また席の配置も普通の長方形型ではなく小テーブルに分かれており、世間一般がイメージする「会議」とはかなり異なるものだった。

それら挨拶や事業説明が終わったあと、プラッツを含む関係団体が次々と事前に用意したそれぞれの提案を3分プレゼンし、そのあと「ワールドカフェ」の手法を用いてディスカッションが始まった。
社会人院生ながら阪大「臨床哲学」大学院出身の僕としては、哲学カフェには精通しているが、恥ずかしながら「ワールドカフェ」は初めて聞いた用語だった(ニート100人会議で初めて知った)。
カフェの形式としてはそれほど目新しいものはないものの、20分1セッション×3の時間枠の中、一グループ5〜6人がセッションのたびにテーブルを移動する。その過程で徐々に問いが明確化されていく。
問いとはつまり、「我々は企業に対してニートの雇用をどのように提案できるか」ということだ(僕がまとめるとどうしても哲学カフェ風になってしまうが、現実のワールドカフェはそれほど「概念」と「現実提案」を峻別しない)。


休憩中

















「ニート専用特例子会社」プレゼン中

















最終的に6つ出てきた提案の中で、僕が属したグループは、今回のタイトルに書いた、「ニート専用特例子会社」をつくり、そこと企業がウィンウィンでつながれないかというものだった。
企業からすれば、ニートの若者を雇用することは労働効率性の面でリスクが伴うだろう。かといって最低賃金の壁はすりぬける裏技(阪大社会学・井出先生のお話では、それらは「医師の診断」や「継続した雇用でないこと」等5つあるらしい)はあるというものの、やはり手続きが面倒だ。

そうなると、障害者専用の特例子会社が現在広がっているように、ニート専用の特例子会社があると企業もハードルが一気に下がるだろう。
この場合、企業には、障害者のような法的しばりがニートにはないことが、このシステム構築に躊躇するだろうという議論も出た。
その後、打ち上げの居酒屋では、この点に関して、ニート専用の派遣会社あるいは請負会社ができないだろうかという議論も出た。この場合、ニートの働き方管理と精神的ケアはその派遣会社が行なうから、企業の負担は減る。

念の為に書いておくと、ニート当事者自身が「生涯最低賃金を下回る賃金では困るけれども、就労初期は有給ボランティア程度でも十分OK」と考える方が多いということがこうした提案の背景にはある。つまり、当事者も企業も「プチ・ウィンウィン」というわけです。

いずれも、確か最低賃金の壁はクリアできると誰かが言っていたような……。臨床哲学出身(+基本的に一支援者)の僕としては、根本的な理念とシステム構築には全力で協力できるが、最低賃金等の現実問題にはからっきし弱い。
だが、この社会はすべては役割分担。それぞれが特異なことをパズルのピースをはめ込むようにして協力し合えばいいと思っている。

年明けにまた、この続きの会議があるようだ。今度はFM大阪で開かれるんだったっけ。僕が参加できればまたここで報告するし、参加できなければ別のかたちで報告しよう。
いずれにしろ、大阪がまた熱くなってきた。この感じは、ニートの概念が輸入される前後の2003年以来だ。

そういえばあの頃大阪でともに活動し、現在は法政大学で活躍されている樋口明彦准教授がこの日曜日に来阪されて、僕もセミナーでご一緒する予定だ。次回はそれを報告しよう。★

2011年12月10日土曜日

若者自立業界は「ブルーオーシャン」か〜『ブルーオーシャン戦略』講談社


キムとモボルニュによる「ブルーオーシャン」という概念は、どうやら「成熟市場における穴場」のようなものらしい。
たとえば、成熟市場の極みであるワイン業界を例にとると、1000以上のメーカーが似たような商品(高価格帯にしろ低価格帯にしろ、それらはその価格帯のなかでは区別がつかない)を出すアメリカ市場の中で、思い切って何か(たとえば「苦味」成分)を切り捨て何か(たとえば「フルーティーさ」)を強調し、ラベルをワインらしくないもの(たとえばジュースのような)に切り替えたただけで、ある商品は「新しいフルーティーなワイン市場」(ブルーオーシャン)を切り開いたという。

同じ枠組みの中(いわゆる「ワイン」的なもの)からあっさり飛び出て、何かを切り捨て何かをそこに付け加え新しい市場を生み出す。これがブルーオーシャン(同じ価値の商品同士で血みどろの競争をする「レッドオーシャン」という用語と対比させている)ということらしい。

それをもとに考えると、前回触れた「若者自立産業/市場」はまだ成熟すらしていないので、「プレ・レッドオーシャン」とでもいったほうがいいのだろうか。いや、その市場規模の大きさが近いうちに明らかになったとして、そこに介護業界のように民間業者がなだれこんでこないとしたら、レッドオーシャンにすらならないかもしれない。
となると、そこはまったく一からのブルーオーシャンということになる。

いずれにしろ、若者自立産業ははやく目覚めるべきだと僕は思う。そのことで市場が活性化し、社会が若者の自立の重要性に気づき、若者たちがそれぞれのニーズにあったサービスを利用する。
問題は利用者の支払能力であるので市場化は難しいだろうと僕の友人は指摘したが、普通考えると市場化は難しいとなるのであれば、それこそその市場はレッドオーシャンではなく、ニュー・ブルーオーシャンであるといもいえる。
誰もが市場化は難しいと思いながらも、そうしたサービス受給可能性を持つ人々が数百万人存在するかもしれない業界、それが現在の若者自立産業なのだから。

現在の、若者サポートステーション拡大期(近いうちに縮小期に転じるだろうが)の次は、自立支援法が拡大されて適用される時期が訪れると思う(施設や地域によってはもう訪れている)。
そして同時に、どれくらいの民間業者が参入してくるかということもポイントだろう。老人介護業界ほどでなくとも、NPOサービスだけではない、民間の会社サービスがそこにどのくらいの「うまみ」を見つけるか。

そうした民間サービスの中には悪徳サービスも含まれるだろうが、悪徳サービスが現れるほどの市場規模は若者自立市場にはあると僕は思う。特に、団塊の世代が引退して自分の身体・健康のみに消費行動を絞らないこれから10年は、そうした親御さん世代が市場の中心支払い者になっていくのではないか。
そこに、サポートステーションや自立支援法といった公的サービスが絡み、若者の自立は経済市場の中に大々的に組み込まれていくのではないか。いや、そこに組み込まれなければ、超少子高齢化社会を支える現役世代の拡大は期待できない。

年金の賦課方式(現役世代が引退世代を支える)から積立方式(同世代で支える)への円滑な以降は数十年を要するという。そうなると、社会参加する現役世代を分厚くしていくことが当面の超少子高齢化社会を乗り切っていく方策だと思われ、それはつまり、現役(若者)世代が年金と健康保険と税金を無理のない範囲で払うことがその解決法のひとつになる(当然、全国民対象の消費税アップ等も同時に行なわれるだろう)。

今日午前中、堺サポートセンターで講演をひとつこなしてきたのだが、そこに来ている親御さんの熱い視線を思い出すにつれ、はやくきちんとした市場(とそれに伴うサービス良化のための競争)を形成し、そこに適切な行政サービスが絡む社会にしていくべきだと確信したので、説明不足かもしれないが以上を書いた。★

2011年12月6日火曜日

「若者自立産業」の誕生

今年からプラッツは日月と休みになり、僕も生涯初めてかもしれない連休制度の中で生活している。
なにしろ、大学を出てすぐに入った出版社では営業をやらされ、長野から広島まで1年間ほとんど休みなく出張仕事に行かされるという社会人1年目(そこは1年でやめたが)以来、普通の週休二日的人生とは縁のない生活を送ってきたものだから(00年にプラッツに入ってからも連休ではなかった、というか昨年の病気まではあまり休みがなかった)、いまの当たり前の休みが何よりもうれしい。

で、このブログ執筆も今までの「なんとしても3〜4日に1回執筆態勢」をちょっとゆるめて、自分のリフレッシュのほうを優先させている。
そんなわけで、昨日の休みはあえてブログを書かずにだらだら過ごし、今日火曜日の仕事始めにこうして書いている。

今回もサクっとまとめてみよう。
タイトルの「若者自立産業」とは、当然、〈ひきこもり/ニート/非正規雇用〉若者の自立を指し、僕は、若者の自立支援に関するジャンルが、従来の一支援分野から一産業へと拡大してきたのではないかと考えている。
一支援分野とは、たとえば不登校支援のような教育的支援ジャンル、たとえば発達障害支援のような福祉的(まあこれはかなり横断的ではあるが)支援ジャンルを指す。
若者支援は、これらの支援ジャンルという部分的側面を抱えつつ、同時に、大きく「自立産業」という側面を持ち始めたのではないかと、この頃僕は思い始めた。

それはたとえば、受験産業や老人介護産業などと比べてもいいかもしれない。それらの産業は細かく見ると、受験であれば、受験生の勉強・メンタル支援や受験校の選択などのテクニカルなアドバイス、老人介護であれば、認知症介護の新技術開発やケアマネージャーの研修等、それぞれ膨大なジャンルの専門分野に分かれていく。
だが、それら専門的な下位ジャンルをまとめるようにして、大きな上位概念として「◯◯産業」としてまとめることができる。なぜまとめられるかというと、それは簡単、そこには大きな「市場」があるから、だ。

受験にしろ老人介護にしろ、それらは単なる一教育・一福祉分野に留まらず、社会全体を巻き込むようなかたちで「産業」が形成されている。
僕はその産業の一系列のひとつとして、「若者自立産業」が形成されつつあるのでは、と思い始めた。言い換えると、それは「産業」になるほどの大きな市場規模を持っているのではないかということだ。
その市場/人口規模はどのくらいのものなのかは正確にはわからない。受験産業であれば18才以下の人口は2009年で2200万人弱だが、若者自立産業はそこまで大きくはないだろう。が、ニートやひきこもりの概算数である60万人や70万人では留まらないというのは当ブログでも何度も指摘してきた通りだ(動的ニートと静的ニート)。

現実的に社会参加していない(年金・健康保険・税金を自力で払っていない人たち)若者の数(その多くは非正規雇用あるいはニートと呼ばれている)は、僕は数百万人は存在すると考えている。
この層が自力で年金・健康保険・税金(関節税含む)を払っていくことが、すでに突入してしまった超少子高齢化社会が満たされたものになるか殺伐としたものになるかを左右する大きな鍵を握る。
年金の仕組みそのものは、数十年かけて賦課方式(現役世代が引退世代をカバー)から積立方式(同世代同士でカバー)へと徐々に移行する政策がとられていくと思うが、いずれにしろ、若者による年金・保健・税での社会参加が、社会を下支えする大きな力となることは変わりない。
要するに、若者の社会参加数が拡大すればするほど、その若者自身も含む超少子高齢化社会がポジティブなものになっていき、拡大のテンポが遅れればネガティブ要素が拡大するということだ。

そういう意味で、若者の社会参加支援は一福祉・一教育ジャンルではなくなっている。そして同時に、その規模(おそらく数百万人)からも一支援ジャンルを大きくはみ出して、巨大な社会問題となっている。
だがそれは同時に「大きな市場」がそこにあるということでもある。
大きな市場を言い換えると、それは、「産業」の誕生ということになる。つまりは、「若者自立産業」が誕生する土壌がいつのまにか形成されており、あとはそこに「命名」と「産業を実態化するシステム」が伴えばいいということでもある。

産業化そのものはよくも悪くもなく、ただそれだけの市場が形成されているということだ。
これがこのとおりだとしたら、あとは、市場実態に応じた商品の形成が必要になってくる。それは、「福祉」と「商品」の間を横断する幅広い形態となるだろう。
たとえば、非正規雇用若者を支援するサービスは、消費者である若者自身にその支援サービスに対する購買力があるため、ある程度有料になるだろう。逆に、ひきこもりアウトリーチサービスは、消費者自身に購買力がないため、無料の福祉サービスか有料(価格はどうしても採算ライン優先になる)になる。

本来であれば、アウトリーチという困難な福祉サービスほど無料に近づけ、当事者の支払能力がある自立支援サービスほど有料設定するのがフェアであるのだが、現在の日本はそのあたりが斑状に設定されていてわかりにくい。
若者サポートステーションなども、アウトリーチ/グループカウンセリング/就労支援はそれぞれ分けてサービス設定し、福祉色が強くなればなるほど(つまりはアウトリーチに近づけば近づくほど)無料化していき、顧客の支払い能力が見込まれるものはそれなりに有料化したほうが市場に活気が出て、サービス内容もより細かく豊かになると僕は思う。

今の日本は政策に行き当たりばったりなところが大きいのと、若者の自立というジャンルが有史以来市場化した経験がないため(それはどの国も同じだが)、せっかくの新市場を活かし発展させていない。
これが、受験や老人介護のように市場を発見・展開することができれば、大きな進展が始まると僕は期待する。まあ、市場とは発見せずとも自然と現れるものなので、僕の見通しが正しければ数年以内には行政のサポートを超えたさまざまな民間サービスが展開されるだろう。★