2012年12月30日日曜日

癒しのパンダ~究極の「変な大人」


■なぜか「パンダ!」

きっかけは、この夏琵琶湖湖畔で行なった淡路プラッツスタッフ研修での気づきだった。それは、阪大臨床哲学/カフェフィロ講師の本間直樹さんと菊地建至さん運営による「コミュニティーボール」を使ったワークの中での出来事だった。

コミュニティーボールを投げ合いながら(スタッフ・サマー研修~変な大人は複数になる参照)、確か本間さんが、参加者の気になる動物あるいはお気に入りの動物はなんですか、という問いを投げかけた。参加者はそれぞれのお気に入りの動物を答えていき、僕の順番になった時、なぜか衝動的に「パンダ」と答えてしまった。

白浜の宿から3G回線でアップしたため画像が少し荒い。
が、その「変な大人/他者」(ここでは「変な子ども」も前にいますが)パワーの徹底的な癒しぶりには圧倒されます。パンダは基本的に動かないけど。

参加者や先生方にとっては僕特有のそれはジョークだととられたかもしれないが、僕は至って真面目で、だいぶ前に行った、白浜アドベンチャーワールドでの、5頭くらいのパンダを思い浮かべながら、あの特に抱いた独特の「変な感じ」が、衝動的に現れたのであった。
その衝動的現れとはつまり、ミョーに白浜のパンダたちに癒され和ませてもらった、あの感覚なのであった。
で、そのこと(本間さんの問い→僕の衝動的「パンダ」発言)をあらためて確かめるために、年末の極寒の白浜を久方ぶりに訪れたのであった。

■寒いのに、癒す……

前に見たパンダたちは子どもばかりだったのであるが、久しぶりの彼ら彼女らは、1頭を除いてすべて大人だった。「レンタル移籍の」彼ら彼女らはどうやら、繁殖等の理由から中国との間を行ったり来たりしているらしい。
僕にとっては、一頭一頭の名前はどうでもよく、なぜあの不可思議で超おとなしいけれどもそれなりにガタイがあって意外に迫力もある動物が、なぜ人をこれほど癒すのか、その一点のみに興味があり、激高3800円の入場料を再び支払ったのであった。

結論は……やはり、彼ら彼女らは僕を癒す。
たとえばこのポーズでいきなりお迎えだった。

ちょっと遠いが、寒いのにこれほどぼぉーっとしている。

起きているときは基本的にこのポーズ。


■高いモラルとスキルを求められる「変な大人」職人

そういえば冬休み直前、東京より某N村総研や某内閣府や某大学の方々がプラッツに大勢ヒアリングに来られ、子ども若者支援の内容についていろいろインタビューされたのだが、印象的だったのが、僕のいう「変な大人」について質問されたことだった。

なぜ「変な大人」は子どもや若者を癒すのか。そして、そのことがなぜたくさんの人の関心をよんでしまうのか(変な大人については以下の記事等を参照 「変な大人が子どもを癒す」①http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/05/blog-post_27.html)。

それが、白浜のパンダと再会して少し整理された気がしたので、以下に箇条書してみよう。

※「変な大人」はなぜ子ども・若者を癒すのか
1.現代日本の子ども・若者は、現代社会の規範(「学校にいく」「仕事に行く」「家庭を築く」等々)を内面化しながらも、そこから結果的に逸脱してしまった自分を責めている。
2.規範から逸脱した子ども・若者は、癒しを求めている。
3.彼ら彼女らを癒すことができるのは、社会規範から逸脱した存在(=変な大人・自由な大人等々で僕は呼んでいる)である。
4.変な大人/自由な大人は、無計画的にNPOに潜んでいる(たとえば僕)。
5.が、当然の話だが、変な大人/自由な大人は、NPO以外にもたくさんいる。その一例が、さいろ社の松本君(松本康治さんインタビュー「大事なものは何もなかった」)である。
6.変な大人/自由な大人は、何も人間に限定されていない。微妙に人間的ふるまいをみせながらも、だらっと座りながら延々笹を食べるか、ぐーぐー寝ているパンダは、その代表だ。松本君やパンダは、完璧な規範からの外れ方と同時にミョーに人間っぽいところ(まあ松本君は一応人間ですが)が、我々規範に縛られている人間を脱力させ、現代社会のとりきめから別の場所に我々を誘う。
7.しかし、変な大人/自由な大人の癒しはあくまで一時的なものであり、傷ついた子ども若者や動物園に来た普通の大人は、また普通の規範まみれの世界に戻っていく。なぜなら、彼ら(癒されたほう)は、元々そこ(普通の規範社会)に戻りたいからだ。
8.いわゆる支援の専門職(PSW・臨床心理士等)の役割が有効性を持つのは、子ども・若者が普通の規範社会に主体的に戻ってきたあと、になる。
9.その頃、変な大人は次の傷ついた子ども・若者を癒している。

このように、「変な大人」がより理論化されていけば、一部の真性「変な大人」だけではなく、変な大人を「スキル」として体得していくちょっとだけ変な大人(であり専門職)の出現が許される。
だが、「変な大人」は、変な言い方だが、高いモラルとスキルが要求されると思う。それはたぶん「職人」的な領域だろう。来年はこれをより理論化していきたい。

みなさま、今年もお世話になりました。僕の身体はたぶんほとんど元に戻ったと思います。ハワイの「渚」的感覚も忘れず(「死と生命の渚~はじめてのハワイ~」参照http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/11/blog-post_27.html)、来年もより自由に、変な大人でありながらも、欧米的NPOであることをプラッツは目指してがんばりますので、どうぞよろしくお願いします。★




2012年12月22日土曜日

お知らせ★3世代NPOと『公共性』~オルタナティブ世代、シェア世代、“Z”世代~ミートアップで語り尽くす

■1/19(土)、「シェアNPO」イベントの第2弾を行ないます

★出演(写真はFacebookより) 
田中俊英(NPO法人淡路プラッツ代表)

小嶋新(NPO法人しゃらく理事)












加藤徹生(一般社団法人WIA代表理事)














★日時、会場
2013年1月19日(土)14:00~16:00
デザイン・クリエイティブセンター神戸 レンタルスペース301
http://kiito.jp/floor-guide/rental-space/article/49/


2012年6月25日、「シェアNPOとオルタナティブNPO」と題したイベントを開催しました(下写真参照。ゲストは、NPO育て上げネット理事長・工藤啓さんでした。内容はhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/06/npo625nponpo.html参照)。
シリーズ2回目の今回は、現在のNPOを理解するキーワードとして、「公共性」を加えてみました。

2012.6.25「シェアNPOとオルタナティブNPO」より
左より、加藤氏、田中、工藤氏


また、上2世代にさらに「Z世代(20代)」を加えて、前回では議論の途中となった「シェアNPO(団塊ジュニア)の次の世代」あるいは次世代の社会貢献について考えてみたいと思います。

スピーカーは、前回と同じWIAの加藤さん、今回はじめて出演の「しゃらく」理事小嶋さん、そして淡路プラッツの田中という組み合わせです。
3人のスピーカーの短い発表の後、参加者も加わって気軽に話し合い(ミートアップ)ます。

東日本大震災を経験し、超少子高齢社会に突入した日本において、諸社会貢献セクターは、何を担うのか。そこで「公共性」という理念は何を支えるのか。
開催場所は、17年前に阪神大震災が直撃した神戸。阪神大震災後の経験と、東日本大震災後のこれからはどう結びくのか。

これらの問いを「ミートアップ」という形式のなかで考えます。(田中俊英)★

■お申し込みは下記メールへ
tanakatosihide@facebook.com

■参加費 500円

主催者▼
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田中俊英(NPO法人淡路プラッツ代表)

1964年生まれ。編集者、不登校の子供たちへのボランティア活動を
経て、1996年に不登校やひきこもりの青少年への訪問活動を中心と
した個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。2000年から、不登校
・ひきこもりの支援団体である「淡路プラッツ」でスタッフとして
働く。2002年、淡路プラッツがNPO法人となったことを契機に代表
に就任。2003年、大阪大学大学院文学研究科博士前期課程(臨床哲
学)を修了。

主な著書
『「ひきこもり」から家族を考える~動き出すことに意味がある』
『「待つ」をやめるときー「社会的ひきこもり」への視線

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加藤徹生(一般社団法人WIA代表理事)


1980年大阪市生まれ。喘息患者として公害病認定され、小学校時代
の3年間を療養生活に費やす。大学卒業と同時に経営コンサルタント
として独立。NPO法人ETIC.では、起業家育成モデルの地域展開に携
わり、その後、岐阜県のNPO法人G-netでは事務局長。
2009年、国内だけの活動に限界を感じ、アジア各国を旅し始める。
震災を機に、アジアおよびアメリカ地域の社会起業家とそれを支援
するプロフェッショナルと共にWorld in Asia、国際社会のリソース
を活用しながら、東北の社会起業家に投資を行う日本初の”ソーシ
ャルベンチャーキャピタル”を立ち上げた。

主な著書
『辺境から世界を変えるソーシャルビジネスが生み出す「村の起業家」』 

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小嶋新(NPO法人しゃらく理事)

立命館アジア太平洋大学卒業後、野村證券株式会社に入社。2006年、
NPO法人しゃらくの設立に参画する。2007年からNPO法人などを中心
に、ユーザビリティやアクセシビリティを重視し、WordPressなどCMS
を使った更新しやすいWebサイトの制作・運営に従事。
また、2010年頃から、兵庫県の生きがいしごとサポートセンター神
戸西や神戸市の協働コーディネーターなどNPOのコンサルティング、
ファンディング、リサーチ業務に比重を移している。
http://www.123kobe.com/



*終了後、懇親会を行う予定なので、お時間がある方はぜひ。
*参加費は会場使用料などに充当させていただきます。また有志に
よるイベントのため領収書は発行いたしません。ご了承ください。

2012年12月17日月曜日

大事なものは何もなかった~さいろ社・松本康治さん「自由」youtubeインタビュー


■究極の自由人、登場!

今日12/17、さいろ社・松本康治くんの案内で、六甲山・風吹岩まで登ることができた。その帰り道、六甲山中で、究極の自由人である松本君に「自由」に関するインタビューを行なうことができたので、ここにその映像を掲載しよう(なぜ「自由」インタビューを行なうかについては、「僕の残り人生の主題は『自由』のようだ」http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/11/blog-post_18.htmlを参照)。

ビデオ①自由だからこそ、「自由について語ることはない」1分

上の①において、「自由」に関して語ることはないと素直に述べる。そのことが、彼が本物の自由人であることを示している。

が、最大の白眉は、下のビデオ②の中で出てくる、阪神大震災被災当時の、「大事なものは何もなかった」という感想だろう。
ビデオ②「大事なものは何もなかった」阪神大震災被災時 4分

■自由と「死」

さらに続けて、自由と「死」との密接なつながりを、独特の平易な語り口で説明する。デリダではないが、「死」が底辺にあるからこそ、究極の肯定(=自由)がある。
ビデオ③「野垂れ死にを前提とするから自由がある」4分

最後に、ここまでのフォローを必死に試みるが、結局、その行為そのものが彼が究極の自由人であることを例証してしまっている。
ビデオ④自由だからこそ、全然フォローになっていない 1分

4本合計しても10分ちょっとの短めのビデオなので、もしお時間あればがんばって通してご鑑賞してみてください。

松本君と僕は、互いが23~24才の頃、「さいろ社」という出版社(http://www.sairosha.com/)を設立した(今風に言うと起業かな~)。起業後数年で食べていけるようになったのではあるが、わがままな僕は一足先に抜けて、今の世界に飛び込んでしまった。

粘り強い松本君は、NHKのETV特集等にとりあげられるなど、さいろ社をかなりいいところまで成長させたのではあるが、ビデオ②にあるような事情も重なり、現在は、関西における孤高の出版社となり、または「銭湯文化ライター」(『関西のレトロ銭湯』http://www.sairosha.com/hon/sento-shoten.htm)としてラジオ出演等を重ねている(テレビ出演の以来は断っているようだ)。

僕は、そんな松本君を尊敬している。★

2012年12月16日日曜日

最強のアップルシステム〜僕のfoolishな仕事環境〜


■年末モードはアップルマニアで

今年もまだ2週間は残っているものの、淡路プラッツ20周年記念3回連続シンポジウムも無事全回満員で終えることができたし、来年度を見据えた正社員合宿も12月初頭に何とかこなしたし、斎藤環さんシンポジウム出演をはじめとするいくつかの講演仕事もほとんど終わったし(あとは12/19茨木プラッツのシンポジウムだけhttp://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.html)、僕の頭はほとんど年末モードに突入している。

そんなわけで、年末モードの頭のまま、明日は盟友・さいろ社松本君の案内で六甲山の麓を散策するのであるが、今回のブログは、より脱力的に、アップルマニアになってはや15年、今年になってようやく僕の理想としていたモバイル仕事環境が整ってきたので、それを簡単に報告してみよう!!

テザリング中のiPhone5とiPadミニ。Bluetoothでつないでます。

■iPhone5とiPadミニは軽い!!

まずはiPhone5とiPadミニの組み合わせだ。長い文章の入力がない限り、だいたいはこのセットで日常仕事のほとんどをこなすことができる。重量は2つあわせても400グラムを少し超える程度。
iPhone5は、Facebook等で僕もさんざ書いている通り、「テザリング」機能(要するにインターネットするためのアンテナ)がついており、いつでもどこでもネットができる。
ネットができるということは、メールを読み書きしたりFacebookで仕事の打ち合わせをしたりするのがいつでもどこでもできるようになったということだ。

外でのネットなんて、もう誰でもやっていることはあるが、携帯無線LANルーターやノートパソコンやデジカメ等、これまでは必須と呼ばれていたそれらモバイルセットがすべて不要になった。それらはトータルで2キロ近くになったこともあったから、このiPhone5とiPadミニ5の400グラムセットは、本当にありがたい。
僕はこんなちっちゃなカバンにその2つを入れて先週はあちこち(行政の3時間半会議や斎藤環さんシンポなど出かける先はいろいろ)出歩いたが、このセットで一向に不便ではなかった。

ちっちゃいよ〜!!

■「子どもたちにプレゼントしろ!!」を実践

テザリングにもWi-FiとBluetoothとUSB接続の三種類があるが、はじめ僕はWi-Fiばかり使っていたところ、iPhone5の電池の減りが早くて「イマイチかもなあ」と危惧していたが、ネット情報でBluetoothにすると電池は安心と書いていたから試してみたところ、これはマジで最強だった。

動画を見るのであればWi-Fiが便利だが、外では文書閲覧のみだから、速度の遅いBluetoothで十分なのだ。ソフトバンクiPhone5(12/15よりテザリング開始)でこれからテザリってみようという方、是非ともBluetoothでお試しあれ。

iPadミニは、予想以上にすぐれたやつだった。何回も繰り返すが、とにかく軽い!! レティーナディスプレイでないことなど、この軽さに馴染んでしまうとまったく気にならない。
僕はiPadを初代と3代目(レティーナディスプレイ)を即日購入してきたが、あれらは微妙に重くてほとんど外に持ち出すことはなかった。

結局、初代は「となりカフェ」へ、3代目はプラッツ若手スタッフHIのもとへと旅立っていった。亡きスティーブ・ジョブズは、「アップルの新製品は毎年買え、そして古いものは子どもたちにプレゼントしろ」と語っていたが、アップルフリークの僕はそのまま実践している。まあHIには格安で売却してしまったのだが(お酒をやめたら僕、セコくなった……)。

■最強のアップル「総合システム」

リマインダーも渋いっすね。背景はハワイのワイキキ〜

軽くなったことについてどうも熱く語りすぎた。
僕は実は、病気で倒れる前の2年間ほどは、携帯は「エクスペリア」に浮気しており、同機種を2つも買い換えていた。
でもなんとなく(なんとなくとしか表現できない使いにくさがアンドロイドにはあった)アップルに回帰してしまい、iPhone4sを使い始めたのが1年半くらい前、2年ぶりのアップルのソフト群(というかアップルを中心としたコンピュータ/ネット総合システム)は異常なほど進歩していた。

その一端を、僕のiPhone5トップ画面に紹介している。この中では、Evernote・Facebook・Twitter・グーグルマップ(12月になって無事復帰)・youtubeがアップルのソフトではない。
が、以前に比べればこれら他社製品がスムースにアップルソフトと同期しており(フリークであれば御存知の通り、以前はひどかった)、たとえば写真をとってメモを取ってそれをレポート化しスタッフに配る、という行為が、iPhone5とiPadミニセットのみで、するするっとできてしまう。

写真はiPhone5で取る。レンズは案外すぐれもの。次に、フォトストリーム(アップル)という機能で、僕のアップル製品すべてがその写真を共有する。当然iPadミニにも数分後共有される。
Evernoteを開き、新しく書類を作り始める。自動共有されている写真をEvernoteに貼り付け、追加テキストを入力し、一本レポートあるいは企画書が完成。その書類を、おなじみドロップボックス(上写真にはない。次ページトップにある)に放り込むと、全スタッフが共有することができる。プリントしたければ、最新キャノンプリンターの近くに立つだけで(ソフトの入力なしに)書類が無線印刷できる!!

iPhone5トップ画面に「imovie〜youtube」とある一連のソフトは、動画投稿用だ。当ブログにも時々動画インタビューを掲載しているが、あれはこのiPhone5のみで作成したものだ。
iPhone5のカメラで撮影し、それをimovieで簡単編集し、youtubeにあげる。そのyoutubeにあげた動画を、ブログ執筆時にリンクする。そうすると、動画インタビュー・ブログ記事のできがりだ。

■Stay foolish!!

しまった、楽しくなって、脈絡なく紹介してしまった……。これがアップルフリークの痛いところ。まあ、年末モードだと思って勘弁してくださいね。
もう実践している人には「何をいまさら」の記述だったかもしれないが、これからの人には少しも参考になれば幸いです。Stay hungry,Stay foolish!


古〜いMacBook Pro15インチ(当時は30万近くした)とiPadミニちゃん。iPadミニのほうが実は早くて軽くてすぐれもの。でも、Proも捨てがたいから子どもたちにプレゼントできない〜。

2012年12月10日月曜日

「公共性」〜NPO社員に求められるもの


■斎藤環さん

あっという間に1週間が過ぎた。今週は明日火曜日に斎藤環さんの講演会が兵庫県であり、その第2部に僕は他の方々(育て上げネットの井村良英さん〈元プラッツ塾長でもある〉、関西学院大の貴戸理恵さん)と登場することになっているのだが、その報告はおそらく明後日以降になると思われるので、今回は簡単に最近のNPOに関する僕の思いつきみたいなのをノートしておこう。

おっとその前に、上の斎藤環さんイベントはここを参照くださいね。→若者の今を考えるフォーラム
そういえばついでに、来週12/19に、「茨木プラッツ」で比較的大きめのイベントもあるので、ここでお知らせしておきます。→ひきこもり、親が動き続けることhttp://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.html
みなさま、どうぞよろしくお願いします。

■「横取り」はNPOのほう

僕は最近やっと、「NPO職員(ここでは正社員のこと)」はまず何を獲得する必要があるのか、ということが明確になった。
それは一言でいうと、「公共性」だ。

この「公共性」の上に、それぞれのNPOの業務・ジャンルがある。たとえばプラッツだと、「青少年支援」というジャンルであり、その中に「保護者面談」「当事者面談」「生活支援/居場所」「就労支援」「親の会」等々の業務・メニューがある。

だがよく考えるとすぐに思い当たるように、このようなジャンルや業務は別にNPOでなくとも、福祉・教育・医療といった対人支援的ジャンルでは幅広く行なわれている。
面談は病院や保健所や学校や教育センター等で日々行なわれているし、居場所にしろ、教育センターや地域の青少年施設等で日常的に展開されている。

それらの業務やジャンルはNPOだけのものではないのだ。
いや、それよりももしろ、それらの業務を行なう多様な施設は何十年も前から各地域で地道に取り組みをしており、大きな成果を上げている。98年にNPO法によって誕生したNPOのほうこそ、これらジャンルや業務を「横取り」している立場なのだ。

■「いま」と公共性

だが、サービス機関が増えることはサービス利用者にとっては喜ばしいことなので、顧客の強引な取り合いさえなければそれは健全な競争だから、俯瞰的に見るとよいことだ。
ポイントは、後から出てきたNPOのほうが、先進的な諸機関との差異化をいまだきちんとできていないことだと思う。

それに関して僕は実は地道に長年考えてきた。その結果、上に書いた通り、「公共性」という言葉にぶち当たった。

もう少し補足すると、NPOとは、「『いま』という時代にそのつど対応していく公共的なあり方を模索する機関」ということになるだろうか。
単なる行政サービス機関でもなく(普通の行政機関は「いま」という時代には一歩遅れて対応する)、団体の一利益を追求するわけでもなく(これは普通の会社)、現在起こっている「公的」諸問題に行政に先駆けて取り組む、それがNPOというわけだ。

その結果の、青少年支援という「ジャンル」であり、たとえば保護者面談という「日常業務」なのだが、それはあくまでも「いま」のほうから求めてくるニーズに対応した結果としての、ジャンルであり業務だ。

■「NPOしゃらく」の公共性

たとえば、僕が最近お世話になっているNPOに「しゃらく」という団体がある(ホームページ→http://www.123kobe.com/)。
しゃらくは、高齢者の旅行付添あるいは高齢者一人ひとりに見合った旅行プランを提供する業務をメインとするNPOだ。

これなどは、おそらく、少子高齢化社会のなかで高齢者が占める重要性を考慮し、「現役世代補完」として高齢者が現役のサブ的に働くだけではなく、旅行も含めた豊かな生活の提案を行なう業務をする団体だと僕は解釈している。
つまり、「少子高齢社会への貢献」という公共性の上にたった、「高齢者旅行サービス」という業務を展開しているのだ。

この点が普通の旅行会社が行なう高齢者向け旅行案内とは異なる点だ。一見業務内容は同じでも、その底にある「公共性」という視点が、NPOしゃらくと他の旅行会社を区別することになる。

このように、そろそろNPO側も、NPO独自の意義を全面に出していく必要がある。そうすることで初めて、たとえば「寄付」をお願いする意味もくっくりと浮かび上がる。寄付行為は、今のままでは、単なる団体の資金集め(その結果の業界持ち回り)に終わりかねない危険性を持っている。

公共性のより詳しい中身については、以降、折にふれて言及していこう。★




2012年12月2日日曜日

「発達障害を伝える責任〜告知と提示」12/1シンポジウム報告


■6名による濃密な発表

昨日、淡路プラッツ20周年記念シンポジウム第3弾「発達障害を伝える責任〜告知と提示〜」が満員御礼で開催された。そこで展開された濃密な議論はアンケートなどを見ても概ね好評で、ここでは「ガイドライン」を中心に簡単に報告しておこう。
なお、「提示」の意味については、当ブログのこの記事「告知ではなく提示〜suggestion〜」http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/07/suggestion.htmlを参照願いたい。

発表者は、淡路プラッツが主催する「発達障害と自立を考える研究会」の4人のメンバー(プラッツ外の専門家で構成)に、プラッツスタッフ2名(代表の僕と、事業責任者・辻田)が加わった6名だった。
シンポジウム前半はこの6名が各々分担して以下の3点を発表した。

①「生活困難者・障がい者就労支援の現場から〜伝えることの倫理」
②「伝えない理由/私の伝え方」
③「カテゴライズではなく特徴を知ること/カテゴライズという暴力性」

それぞれ15分×6名の濃密な発表がノンストップで行なわれた。ちなみに僕は最後の「カテゴライズという暴力性」担当で、ふだんこうした場所ではほとんど披露しない、哲学タームと哲学者の名前(暴力・他者・責任等、哲学者はデリダやサイード)を全開して発表した。

つまり、名付けとは二重の意味で「暴力」であり(言語化とカテゴライズ化)、マイノリティの創設(ここでは発達障害の創設)はマジョリティ(一般市民)の安定装置として機能しているということだ(発達障害を創設することで市民は「普通」でいられる)。

加えて、カテゴライズの暴力(発達障害の伝達〈告知であれ提示であれ〉)が行なわれる瞬間は、まるで「魔法」のような瞬間であり、根源的にはその行為と瞬間は誰にも説明できないということも語った。
そうした根源的メカニズムをわかったうえで、支援者はあえて「告知」あるいは「提示」を行なわなければならず、それが根源的「他者への責任」ということになる。

■パワーポイント資料よりテキストの抜粋

後半は、研究会でまとめつつある「『提示』のためのガイドライン案」を辻田が発表した。以下、パワーポイント資料よりテキスト部分をコピーしてみよう。

★ガイドライン作成の注意事項

あくまでも「案」であること
「告知(診断)」が必要かどうかを判断するということ自体が難しい
受診につないでも医師の診断がつかない場合もある
自分たちの見立てが間違うこともある
診断名まで伝えるか、特徴を伝えることまで、とするかによって、伝える相手や伝え方が違う
※「発達障がい提示することは、とても主観的な判断となる可能性をはらんでいることを、忘れてはいけない
★ガイドラインの意味
「提示」の中で、不用意に傷つく人がいないように
発達障がい」と提示することで、そこに伝えた側の責任が生まれることを明確にする
発達障がい」と提示することの暴力性・権力性を明確にする
それでも、「提示」することの責任を確認する

★なぜ伝えるか〜why〜

本人が困っている現状の打開のため
 伝えることで、本人がブレークスルーできるか
周囲が困っている現状の打開のため
 →本人の力を信じ、正当に評価してくれるか
医師や専門機関につなぐ必要がある場合
 (「告知」作業につなげるため)
★伝えるタイミング〜when〜
伝える側が多軸的根拠を持っている
 生活・これまでの経緯などを踏まえている
  複数人での見立て、発達障がいの特徴のいくつかが符合
当事者が困っている
 努力してもうまくいかないことが続いている
当事者と伝える側の間に「信頼関係」ができている
 →何を根拠に「信頼関係」と考えるか

★誰が、誰に伝えるか〜who〜
誰が
 ●医師
 ●専門家(カウンセラー、ワーカー、ハローワーク職員、福祉職員)
 ●一般(会社の上司、教師、学校関係者)
 ●周囲の人(親戚、友人)
誰に
 ●家族 ●本人 周囲の人
★どこで伝える〜where〜
・個人情報が守られる
伝えられる側が安心できる
じっくり話ができる


★何を伝える〜what〜
医師・専門家が伝える場合
 ①困っていることやその整理
 ②提示(障害名・特性)
 ③情報提供(支援機関や将来のイメージ
一般・周囲の人が伝える場合
 ●困っていること ●情報提供 

★どのように伝える〜how〜
相手の気持に寄り添う(障害名より生きづらさ)
伝える理由を明確にしてから伝える
伝えっぱなしにしない。定時後、支援を継続する(「その後」の始まり)。

★その他
発達障害やそれにまつわる提示で生じる関係性の変化・結果を引き受けることが、責任である。
他機関との連携
 提示したあとに信頼できる機関につなげることができる。
 「土台」をつくっておく(医師・支援窓口)
 連携できる機関の見通しなしに伝えないこと

以上、提示の実質的山場は「何を伝える〜what」(医師・専門家が伝える場合)②提示(障害名・特性)なのだが、その前後にこの程度は準備しておく必要があるということだ。
これをもう少し煮詰めたうえで、来年中には「発達障害、その提示のためのガイドライン」決定版を発表したい。★












2012年11月27日火曜日

死と生命の渚〜初めてのハワイ〜


■もうひとつの顔をもつハワイ

みなさん、アロハ!! 日本では秋も深まり多くの方々は仕事に忙殺されていると思うが、僕はこの5日間のんびりハワイに行ってきた。
そこで、ここ最近の当ブログのテーマでもある「死と生」について、の〜んびり考えたので、簡単にブログっておこう。

下のyoutube動画でも僕が語っている通り、ハワイという土地は、日本で一般的に流通しているイメージとは違うもう一つの顔を明らかにもっていて、それは一言でいうと、「生と死のあいだ」にある領域だということだ。

陽気なVサインとともに、ハワイを語る。1分半と短いです。帰りのリムジンの車中で。リムジン、最高〜

これは沖縄にも共通する。海や水平線や半永久的に押し寄せる波にぐるっと囲まれている沖縄やハワイでは、現代社会が提供する「リゾート」的なものを超えた、生命の渚のような空気が時々漂う。
僕は特定の宗教を信じているわけではないものの、あえていうと、宗教(言語や文化)が成立するもっとずっと前からそうした「生命の渚」は我々地球の生命体を取り囲んでいると僕は想像している。

オアフ島北西部の景勝地。
こうした土地の地名は、土地が発するものを逆に邪魔すると僕は思う。

ハワイのフラ(ダンス)は、そうした「渚」において石器時代から延々と伝わるある種の「トーク」だとも思う。ゆっくりと身体全体を使って、身体の斜め上辺りに手を差し出す、そのポーズが印象的だ。

■生のサイドでポジティブに

こうした空気は、前回当ブログでとりあげた「エヴァQ」とは対極的な位置にあると僕は思う。
エヴァQは今も思春期に囚われ続け、それはある種の「自意識の奴隷」であり続けている。「エヴァ破」において、そうした思春期/自意識の奴隷から一歩抜け出し、エンタメ/他者の世界に踏み出そうとしたものの、数年たって結局元の思春期の奴隷に戻ってしまった。

思春期の奴隷状態から抜け出すには、エンタメという近現代的「他者」の世界という手がある。
どうせこの世界は自分が自意識でごちゃごちゃ悩む前にそもそも「他者ベース」なのだから、初めからそれを引き受け、他者の快楽の最大公約数的な作品を作ってしまおう、というわけだ。エヴァ破はその線の傑作だった。

だがもうひとつ手がある。それが、ハワイに表象される「生と死の渚」から始めるという手だ。そのエリアをとことん意識した上で、生のサイドでポジティブに生きていく(ことを提案する)方法だ。

アメリカドラマ「ロスト」の舞台。あの作品も「生と死の渚」がテーマだった。
評価は微妙だが、今回僕がハワイに行こうと思ったのは同作品の影響大。


■脳出血以来、ずっと

振り返ってみると、アメリカドラマ「ロスト」にはまったり、村上春樹作品をまた読み始めたり(たとえば『羊をめぐる冒険』があったhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/10/blog-post_28.html)、ここ数ヶ月北海道や沖縄でこのような思索をしたり、ハワイに飛行機で9時間かけて行ったりと、最近の僕は、どうも「思春期の奴隷」でもなく「『他者』の世界」でもなく、もっともっと根源的な領域での人間の生き方について探求しているようだ。

その根源的領域、「生命と死の渚」の領域の代表がハワイなのであるが、これは振り返れば、2年前の夏に脳出血で倒れ、何とか生き延びることができて以来、ずっと探し求めていることなのだと思う。

オアフ島北側にウミガメの生息地があり、毎日野生のウミガメがヒトのそばで日光浴している。

そこに、僕の長年のテーマである、「人間と『他(者)』のコミュニケーション」が重なり、臨床哲学を学び終えた時点での結論的コミュニケーション論(僕の修論のテーマでもありました)だった「自我の前にそもそも『他』の領域があるのだからそこから始めよう」を超えた場所に僕はやってきつつあるのかもしれない。

そこはどうやら、「死を見つめつつ徹底的にポジティブである領域」のようだ。
何のためらいもない、ベタ〜な表現ではあるが、この領域を押さえきってしまうことが、青少年支援や、それだけに留まらないもっと幅広く仕事をしていくであろう50才以降の僕にとっては重要になっていくのだろうと直感している。

早朝のワイキキビーチ。ホテルから徒歩1分。


自意識でもなく、他者でもなく、それらすべてを包んだ「死と生の渚」。既成の学問も宗教も、ある意味「死」を一度通過した今の僕には響いてこない。すべてが小手先のように思えてならないから。

今こそ、自分が現実に見て出会って会話する、そうした日常の中から、自分の力で僕は生を切り開いていけるような気がしている。いやあ、病気から復活してよかったです。
ちょっと恥ずかしいけど、ハワイに行って以上のようなことをしみじみ感じたため、あえて記録しておきます。★

定番、ワイキキの夕日。これも宿泊ホテルの窓から。

わりと傑作のような気がする、パノラマ撮影したワイキキと僕。うまくこの迫力が伝わるかなあ。

2012年11月22日木曜日

よりハードにそのセカイにひきこもった〜エヴァンゲリオンQ〜


■永遠の思春期ループワールド

『エヴァンゲリオンQ』がついに公開された。僕は3日目に見に行ったが、平日のマイカル・シネコンだったため、客の入りはガラガラ、のんびりゆっくりと見ることができた。のんびりゆっくり、子どもの声や若者の雑談に気を取られることなく、映画にのみ意識を集中できる環境だったのだが……。

残念ながら、開始30分くらいから僕の意識は映画を離れ始めた。そのあまりの古さ、世界の固定化、作家性の枯渇に唖然としながら。

話題の冒頭6分バージョン。この迫力に騙されるとあとでしんどい。

2ちゃんねる等ですでに様々な議論があるが、僕はこの『エヴァQ』は駄作だと思う。前作の『エヴァ破』がエンタメ作品としては優れものだっただけに(詳しくは当ブログ記事「エヴァQ」は駄作だろうhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/09/q2.html参照)、この2本の格差は驚愕ものと書いてしまってもいいと思う。

庵野監督は、やはりエンタメに徹することはできなかった。それどころか、90年代のセカイ系の泥沼に囚われたままだということをこの『エヴァQ』で露呈してしまった。「本当の死」を『千と千尋』で描いた宮崎駿とは異なり、永遠の思春期のループワールドを庵野は生きている。それがあまりに痛々しい。

■究極のセカイ系

ストーリーはあってないようなものだ。地球どころか、たぶん全宇宙と全次元の生成と滅亡に、2人の人間(シンジ・アスカ)と1人の「使徒」っぽい存在(カヲル)と1人のクローン(レイ)と謎の生命体(マリ)が関与するという話。
物語の後半はこの傾向が徹底され、特にはじめの4人(シンジ・アスカ・カヲル・レイ)のアングラ劇を見せられているような気になる。これは大学の演劇研究会か? と突っ込みながら僕は見ていた。

エンタメに徹しない庵野が寄ってたつ物語構成パターンは、例の「セカイ系」で、主人公の日常のあり方が全世界と全宇宙の運命を決めていくというものだ(詳しくは当ブログ記事決断主義と若者http://toroo4ever.blogspot.jp/2011/08/22.htmlなどを参照)。

が、セカイ系はセカイ系でも、ここまでスケールが大きなセカイを、ここまで少人数の人々がすべて握っているという話はかつてあっただろうか。そりゃまあ、たとえば「ぼくらの……」や「グレンラガン」などもかなり大きめのセカイ(宇宙)ではあったが、まだセカイ系としては恥ずかしがっていたというか、奥ゆかしかった。言い換えると、それらのセカイ系作品そのものが、パロディ作品でもあったのだ。

■「スモールステップ」の揺り戻し

しかし『エヴァQ』はパロディどころか、直球でセカイ系している。まるでそれ以外に世界がないごとく、セカイ系で推し進めてしまった。まるでこれは、ひきこもり青年が外に出ていくどころかよりハードにひきこもりはじめた状況に似ている。

『破』でせっかく自己の世界を破って他者の世界とつながり始めたというのに、数年たって出会ってみると、なぜかよりハードにひきこもっている。
『破』のエンタメワールド(他者が前提となった世界)が居心地悪かったのか怖かったのか、以前にもまして自分のセカイにひきこもってしまった。
ひきこもり青年が社会化していくときによく陥る、このような「スモールステップの揺り戻し」と『Q』が僕には重なって見えた。

だから「駄作」というのはやはり少しかわいそうで、「社会参加(エンタメ化)していく過程での揺り戻し作」という点から、「労作」あるいは「習作」といったほうが近いか。

だがこれは次に傑作が待っているという意味での習作ではなく、傑作を求めているがそこには届かず、永遠に作品を作り続けるのみという意味での習作に近い。
90年代で死滅したはずのセカイ系価値を結局は出ることができないその物語世界という点でも、その「永遠の思春期ループ」こそが『エヴァンゲリオン』の本質だったといえるだろう。

そもそも今回の新シリーズは反復やリフレインがテーマであると最初からわかっていたが、その反復は、やはり「思春期の反復」だったということだ。これは引き続き多くの人を捉えるが、僕のように離れていく人も多く出現する、メルクマールの作品となるだろう。★

ミサトさんの「サービス、サービス〜」も虚しく……


2012年11月18日日曜日

僕の残り人生の主題は「自由」のようだ〜あなたのテーマは?


■管理社会とは別の平面にある、「自由」

48才にして僕は、というか48才になったおかげで、といいったほうが正しいのだろうが、自分の残りの人生のテーマがはっきりした。それをこの頃明確に意識できるようになったので、ここに時々確認のために戻ってこれるように、ブログにも記しておこう。

それは、超ベタ〜だが、「自由」なのであった。

再確認したのは、前回の菊地・大北インタビューの中での大北さんのこの発言部分だった。重要な部分のみを1分30秒にカットしたので、以下に貼り付けてみる。


前回ブログ動画part2のうち、後半1分30秒部分を抽出。
僕の問いのあと、大北「自由」発言。1分半なので気軽です。

大北さんの「自由」は見てもらえればわかるが、「私が私で答えることが、自由であることのきっかけとなる」と説明している。この発言の前段として、現代社会での統計数字等を用いた「管理化」の強化に言及されており、これは大北さんの研究背景からも当然フーコーの議論が結びついてくる。

ただここでは哲学的背景はおいといて、管理社会とは別の(あるいは同時ではあるが別次元の)生き方として、「私が私で(実名で)語る」があり、そこにこそ「自由」が深く絡む、といった大北さんなりの生き方のマニフェストのようなものが提示されている。
自由の平面が、管理社会の平面とは別の場所に横たわっている、ということだ。そのために、大北さんの場合は「私で語ること」がある。

■ポジティブな「自由」

もうひとつ、9月13日の当ブログ記事「自由になるために」を引用しよう。
ここでは、僕の恩師である、大阪大学大学院「臨床哲学」准教授・本間直樹先生がインタビューに答えてくださっているのだが、このビデオ2の5分20秒すぎに、「自由」という言葉が出現する。


「自由」に関して長めの説明なので、あえて編集せず再録。
5:20すぎまで早送りすると、「自由」が出現します。

本間先生が提供する「ワークショップ(先生はこの表現は嫌うだろうが)」の2時間という枠組みの中で、参加者がその2時間の間「自由に生きる」ことは、「あらゆる意味で重要だ」とする。

その先はまだ先生は煮詰め切っていないものの、参加者の「顔」が明らかに違うと、そうしたワークショップの主催者は先生に指摘するのだそうだ。
そして、実はそれらワークショップの形式や道具(コミュニティボール)は二次的なものであり、最も重要な要素はワークショップをファシリテートする先生自身の存在なのだと最後の最後で先生は語る(そこまでの流れが重要なため、このビデオはカットできなかった)。

この発言の背景にも、先生なりの思想はあるのだろうが、ここではその思想の研究はたいした問題ではない。
ポイントは、先生が何気なく使った「自由」という言葉の、肯定性にある。上の大北さんと同じく、ここでも「自由」は限りなくポジティブな意味合いを持って使用されている。

■「自由」をテーマにしたyoutubeインタビュー集を

実は僕は、若い頃は経済学を少し学んだのだが、当時はマネタリズムやサプライサイドの経済学が流行っていたということもあり、そこでは「自由」は微妙にやっかいなものとして語られていた。
その一方で僕は、中学生の頃、アメリカンニューシネマの遅れてきた熱烈なファンだったということもあり(「イージーライダー」「マッシュ」「明日に向かって撃て」等)、「自由」を今この世界にはない理想的な価値として捉える癖を持っている。

大北さんも本間先生も、どちらかといえば自由をポジティブに捉えているけれども、お二人ともその使い方は微妙に異なる。
僕自身、「自由」を非常にポジティブなものとして捉えている。

が、10代の頃に抱いていた甘い理想のようなものではなく、50才を目前にし、死が近づいてきた一人の人間として「自由」をそれなりに位置づけたくなった。
同時にそれは、僕の仕事、つまり「フリースクール」や「イバショ」や「変な大人=自由な大人」などの一連の議論につながることにもなる。

とりあえずは、「自由」をキーワードにyoutubeインタビューシリーズを続けていき、ある程度集めて一つの作品にしたいと思います。

ところで、あなたのテーマは?★




2012年11月12日月曜日

発信力とは、応答と名乗り〜グループ「哲学者になる」(菊地建至さん+大北全俊さん+田中)インタビュー

■お知らせ■淡路プラッツ20周年シンポジウム③「発達障害を伝える責任〜告知と提示」http://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.htmlのご予約を受付中!! 
おかげさまで残り座席は少なくなってきました。お申込みは、電話(06-6324-7633)かメール(awajiplatz@gmail.com)で。


■あやしい「〜力」

NPOや社会貢献、それに類する「業界」では(経営学的なものにも多く見受けられるが)、この頃よく「発信力」という言葉が登場する。いわく、発信力を磨く必要がある、アドボカシーのためにも発信力は必要だ、等々。

基本的に僕は、こうした「発信力」的ネーミングはあやしいと思っている、というか、あまりに言葉が軽いと思っている。
発信力だけではなく「〜力」というのは数年前から大流行で、元々この〜力の「力」は、「聴くことの力」(鷲田清一先生)の「力」あたりから来たようにも感じているが、鷲田先生の言葉の意味から遠く離れ、巷の「力」はものすご〜く軽くなった。

が、こうした流行言葉にあえて乗っていくことも僕は楽しんだりする。今回は、哲学の友人である、菊地健至さんと大北全俊さんにインタビューするというかたちで、この「発信力」というのを少しだけ深く考えてみた。

ビデオ1(9分) 各々の自己紹介。左手前が大北さん、右奥が菊地さん。
最後に、「応答」と「名乗り」が出てくる。

ビデオ2(9分) 「応答」と「名乗り」がいかに発信力につながるかを説明。
最後のほうに「自由」という言葉がさらりと出てくるが、僕はこれにひそかに感動した。

ビデオ3(6分) ビデオ2の補足と、最後に「哲学者になる」の説明を田中から。
この3から見てもいいかもしれない。

■純粋な「発信力」など、ない

ビデオ1にもある通り、菊地さんは関西の10以上の大学で教える筋金入りの非常勤講師、大北さんは大阪大学「臨床哲学」の教員だ。お二人とも僕は尊敬していて、菊地さんには淡路プラッツが行なったこの夏のスタッフ研修で、2日間みっちり講師役をお願いしたし、大北さんには僕が臨床哲学の「モグリ院生」だった頃からお世話になっている。

ビデオは3本合わせると25分近くになるから、全部見るのはしんどいだろう。幸いにyoutube動画は軽くなっているようだから、早コマ送りでざっと流し見することもできる。

おふたりに興味がある方はビデオ1の自己紹介からじっくりどうぞ。「発信力」がテーマなのになぜ「応答」と「名乗り」なんだろうという、テーマ性に興味がある方は、ビデオ2から早コマ送りするのもよし。

ポイントは、哲学を実生活でも徹底して実践しているおふたりらしく、「主体的に行なう純粋な発信力などそもそもない」という点を自明の理として出発しているところだろう(自明すぎてお二人はこの点は言及していません)。
ベタ〜ではあるが、主体が発信する際には、そこには常に「他者」が前提とされている。
そのことを、大北さんは「応答」、菊地さんは「名乗り」という一言で表したのだと思う(まあそれだけでもないでしょうが)。

■グループ「哲学者になる」

最後に僕から、このyoutube鼎談はシリーズ化し、だいたい3ヶ月に1度開いてみなさんにお届けすると宣言している。
そしてこのグループ名は「哲学者になる」ということも。僕も入れての3人組です。

毎日それに「なりつづける」という行為をもって、その人はそのものになる。
だから哲学研究者と哲学者は違い、哲学研究者ではあるが哲学者ではない人も世の中にはたくさんいる。もちろんその逆もたくさんおり(たとえば僕)、その両方であることも少ないがいる(たとえば菊地さんと大北さん、また当ブログに以前登場してもらった本間直樹先生などhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html)。

「応答」や「名乗り」等、当ブログの読者の方々には馴染みがなくまどろっこしい議論かもしれないが、こうした次元の議論がないとそれは「軽い」と我々は感じてしまう。
だから時々、こうした根源的なレベルを論じるインタビューも掲載していきますね。
次回(2月)は3人が広島に飛んで語ります〜。「ローカル性」あたりがテーマになるかなあ。★