パリと大阪、その「直感的」大きさ 『体制維新——大阪都』橋下徹・堺屋太一/文春新書





郷里の香川県から大阪に戻ってきたはいいが、今日までに残された冬休みを、居心地の良いマンションになんとなくひきこもって過ごしてしまった。
明日から仕事始めなのでぼちぼちエンジンかけるか、でも張り切り過ぎると再発が恐いし〜などとうだうだしつつ、昨日地元の紀伊国屋にぶらっと寄ってみると、前から気になっていた『さよなら! 僕らのソニー』(立石泰則/文春新書)がまだ1冊残っていたので購入した。
で、その横に並んでいた本書がちらっと目に入り、休み明けエンジン再点火にはちょうどいいかと思ってこちらも購入した。

同書は、ふだんテレビや雑誌ではインパクトはあるが散漫な印象のある「大阪都」構想がまとめられているという点ではわかりやすい。
大阪都とは、つまりは「21世紀の日本のあり方」を示すひとつのモデルだ。現在、世界的にすすめられているという「都市の再構築」の流れに日本も乗り、そのモデルとして大阪の創り変えを二人の著者は提案している。「よいことも悪いことも大阪から始まる」と1章の小見出しにあるとおり、「よいこと」の見本として大阪都は示される。

言い換えると、グローバリゼーションの奔流のなか、日本は都市戦略で生き残っていくべき、という著者らからのメッセージでもある。このように見ると、メディアの飛びつきやすい教育改革等の話題は傍流だ。著者らは、グローバリゼーションに対するこの本質的な一提案をもっと全面的に押し出すべきだと思う。
僕の知るかぎり、グローバリゼーションに真正面から(つまりは「政治的実行力」を伴いながら)向かう力は、今のところ日本にはこの動き以外にない。

グローバリゼーションに臨む際、「大阪」がひとつの武器になる。このことを著者は(特に橋下氏は)「直感的に」気づいている。僕はこの人は、たくさんの長所を(そして短所も)持っている人だと思うが、その最も特徴的な点は、「直感」力に長けているという点だと思う。たとえば教育改革について、このようなくだりがある。
「僕は直感で、大阪府民は自分の地域の学力状況を知りたいはずだと感じていました」(p77)

何気なく使われているこの「直感」に、氏の特徴がすべて集約されているように思う。大阪都について、堺屋太一氏の力技を借りてまで大々的にかつ詳細に説明し尽くしてはいるが、そのエネルギーの源は、おそらくこの「直感」から来る「今の日本には大阪都しかない」という判断なのだろう。
その直感からくる判断を、「決断」と言い換えてもいい。氏は、何かにとり憑かれるようにして「大阪都」に向かい始めた。今のところ大阪府民も(その新しもの好きという特徴から)支持している。その疾走がどこに着地するのかはまだわからない。

このブログを書く前、大阪のどこにそうした「決断」をさせるものがあるのか、僕はいろいろ考えていた。それは、中沢新一氏の言う「アースダイバー」(『週刊現代』連載中の大阪篇はおもしろいのでお勧め)的なものなのか、上に書いたような「よいことも悪いことも大阪から」のノリで済ませるしかないのか。

その流れで、過去に行ったいろんな街を思い出していると、ふとある街のことが思い出された。その街は、規模は東京と大阪の中間あたり(都市間比較地図はこの地図からhttp://8boshi.com/parikukan6.htmlコピーさせてもらいました。ありがとうごさいます)だが、僕が8年前に行った際の感触としては、非常に大阪に似ていた。当然、街並みの景観自体は大阪は圧倒的に負けている。だが、その規模、その広さ、そのまとまり感が、なんとなく似ているような気がする。

そう、その街は、パリ。パリや大阪くらいの広さが、人が生活し、仕事をし、ネットワークしていくにはちょうどいいと僕は思う。この大きさは、アート(大阪万博等)や起業(パナソニック他)等を生む。
だから橋下氏は、この大阪を「直感的に」対グローバリゼーションの新システムとして使おうと実験している(その実験を府民や国民は選択するのか)。淡路プラッツが「大阪の可能性」を活動指針の3つめに据えたのも、大げさにいえばそんな点にある。★