橋下市長「過剰なコンセンサス」批判と、「ソーシャル」ブーム


ソニーはもがき続け、橋下氏は走り続ける。
もしかすると、「シェア文化」第一世代としてのちのち位置づけられるかも。
■敵は「過剰なコンセンサス」

NPO関係者なら想像いただけると思うが、来年度に向けての委託事業募集のシーズンが少し前から始まっていて、この頃の僕はそうした企画書にかかりっきりになりつつある。
けれども体調のことがあるので無理をしないようにしており、そうなるとこのブログがあとまわしになってしまう。

だから今回は手短に。橋下大阪市市長の「敵」がどうやらはっきりしてきた。それは、池田信夫さんの言う「(日本社会における)過剰なコンセンサス」(http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51768741.html)ということになるらしい。他のブロガーの方も市長についてこの言葉は使っているようなので、「過剰なコンセンサス」は静かなブームになっていくかもしれない。

橋下市長が本当に我が国の「過剰なコンセンサス」を敵にしているのであれば、それは僕が長年苦しんできたものでもある。
僕はどちらかというと、「自分の中の多様なコンセンサス」に苦しんできており、そうした「他者の声」を聞きすぎて一時期身動きがとれなかった。そこから解放してくれたのが、実はデリダだったりする(『法の力』とか)。

■シーシャル=わたしたち

僕のような哲学的あるいは文学的悩みはさておき、日本社会の「過剰なコンセンサス」に悩んでいる人は数多いだろう。
けれども我が国の恐ろしい(というか深遠な)ところは、そうやって過剰なコンセンサスに悩んでいる人でそこから脱出したいと思っていたとしても、いつのまにか別種の過剰なコンセンサスに取り込まれてしまう、ということだ。
たとえば今の維新の会ブームもその一種かもしれない。

また、『ソーシャルシフト』や『ソーシャルデザイン』といった本が最近よく売れており、僕も買って読んでみたが(書評は時間ができてからあらためて書きます)、東日本大震災を通過して、我々の国はどうやら「社会=ソーシャル=わたしたち」という方向に向かい始めたようだ。

そうすると、たぶん、同時にあの「過剰なコンセンサス」もどんどん出現するだろう。それらはいったいどこに向かうのか。いずれにしろ今は転機ではある。
企画書執筆に戻りまーす。★

※これを書いたのが12年1月だから、わずか半年前。
現在は、過剰なコンセンサスはそのリジッドさを残しつつも、「シェア」という軽やかなエートスで置き換えられつつあるように思う。
団塊ジュニア世代を中心としたシェア文化により、従来の硬直的コンセンサス文化がポジティブに変化していくか。
最近の僕は、この動向をもうちょっと見守りたくなってきた。(2012.06.04記)★