日本での「ソーシャルシフト」〜『ソーシャルシフト』斉藤徹/日経新聞出版

この本でいう「ソーシャル」は、ソーシャルメディアのソーシャルのことで、具体的にはFacebookの拡大に伴う「シェア(情報共有)」の文化を指す。
ソーシャルメディアを活用した口コミ情報が今以上に威力を持ち、発信側からの一方的な情報コントロールはできなくなる。その(口コミ等の)市民パワーを意識するため、発信側(主として企業)には、社会貢献等の「誠実さ」が求められる。

アメリカではFacebookの拡大とともにこのような「ソーシャルシフト」が起こっているのだろうが、日本ではもうひとつの「ソーシャルシフト」が起こっていると僕は思う。
それは当然、東日本大震災後に訪れた、「ソーシャル」を尊重する雰囲気・空気・エートスを指す。このソーシャルは「絆」という言葉でも表され、またNPOを中心とした「社会貢献」が注目されていることにもつながる。
企業レベルでは、たとえばトヨタが「アクア」のこんなホームページ(http://aquafes.jp/top/)を提供していることにもつながる。

東日本大震災以降、日本では、ソーシャルという言葉を中心に、ソーシャルメディア、社会貢献、ボランティア、情報のオープン化等が速いスピードで展開されている。
欧米(あるいは世界全体)が主としてソーシャルメディアを中心に展開されている「ソーシャル」ムーブメントに対し、日本では時代の転換点のキーワードとして「ソーシャル」はあり、その現実化のひとつとして「ソーシャルメディア」や「社会貢献」はある。

NPOの発展(たとえば認定NPO等)も、そうしたパラダイムシフトとしてのソーシャル化の流れのひとつに位置づけられる。
1990年前後にひとつのピークを迎えた「個人/ポストモダン/バブル/高度資本主義」等の意味の連鎖はすっかり影を潜め、現在は「ソーシャル」を核とした一連の意味連鎖(社会貢献、オープン、フリー、NPO等)が時代の「空気」をかたちづくっているように僕には感じられる。

ただ、「社会」や「ソーシャル」には、本来さまざまな意味が含まれる。
人によっては、「持続可能な」社会や「社会民主主義の」社会等を思い起こすだろう。現在用いられているソーシャルは、どちらかというとこのような「持続可能」的な比較的暖かい意味を指していると思う。

僕は、社会というと時に「強欲」とまで形容される資本主義社会のことをすぐにイメージする。またドゥルーズが『ミルプラトー』や『アンチオイディプス』などで描いた「戦争機会」「リゾーム」「器官なき身体」等の錯綜・複合するコミュニケーション母体のようなものをイメージする人もいるだろう。

現在日本で展開する「ソーシャル」は、かなり暖かみをもったイメージをともなう。当分はそうしたイメージが主流だろうが、そのイメージは常に「強欲」や「複合」などの暴走的・暴力的内実も持つ。
その意味で、日本での「ソーシャル」がどこに実際にシフトすることになるのか、慎重に見守りたい。★