当事者の沈黙と経験者の苦しみをつなぐもの 『「当事者」の時代』佐々木俊尚/光文社新書

一部で話題だということなので読んでみた。元本多勝一ファンとしては4章の本多論がおもしろかったものの、全体的には、著者なりのジャーナリズム論が展開されているだけで、僕が最も期待していた、「当事者論の最新理論」とは出会うことはできなかった。

あれは10年以上前になるだろうか、当時の僕は今以上に「哲学」していて(阪大・臨床哲学に入ったばかりだから張り切っていた)、なんでもかんでも徹底的に、根源的に、「土台から」問い直したかった。

その問い直しの一つのテーマに「当事者論」があった。
当時の僕は淡路プラッツに入ったばかりで、その前の個人事務所(ドーナツトーク社という名前だった)で行なっていた訪問活動も並行して展開していた。訪問先は当然、いわゆる「純粋ひきこもり」の青年たちが中心だった。

それとは別に、当時は徐々に「ひきこもり当事者たち」がカミングアウトして、それぞれの体験を語ったり書いたりし始めていた。僕は仕事を通して、そうした方々と日常的に親交を深めていったが、徐々に、訪問活動で日常的に接している「純粋ひきこもり」の青少年たちとは微妙に違う質感のようなものに気づき始めていた。

ひとことでいうと、「自分に対する饒舌度」が、純粋ひきこもりの青年とカミングアウトした青年とは極端に乖離していた。
純粋ひきこもりの青年は、多くの場合自分のひきこもり体験について語らない。自分がどのようにしてひきこもり、ひきこもったあとどういう思いで生活しているか、それは僕や親御さんが知りたいことではあるが、当の青年は一向に語ることをしない。

最初は意図的に語らないのだろうと思っていた。だが長期的にかかわっていくうち、どうやら彼ら彼女らは語らないのではなくて「語ることがない」のだということに気がついた。

ひきこもり支援者であればよく体験することだが、どこからみてもバリバリの純粋ひきこもり状態であっても、自分は「ひきこもりではない」と言い張る青少年がいる。また、ひきこもり体験の「原因」を聞いても、「忘れた」と言う青少年も珍しくはない。
後者はトラウマ論と結びつくと思うが、前者は「当事者とは何か」という問いに直結すると思う。
つまり、「当事者」であればあるほど、そのことがらに関する出来事や説明を、自分自身とくっつけて了解できない。

これは精神分析的に見ると、トラウマ論を中心とした複雑な理論で説明することはできるだろう。
それは割愛するが、現象として、「当事者であればあるほど、その当事者としての出来事(ひきこもりの原因と経過)は説明できない」、つまり「当事者は沈黙してしまう」ということを、訪問活動の中で僕は日々実感していた。

そうした実感と反するように、カミングアウトした青年たちは、自分の苦しい体験を切々と語る。その苦しさは十分共感できるだけに、僕は、訪問活動で出会う「語れない青年」と、カミングアウトした「饒舌な青年」のふたつをどう捉えたらいいのかわからなくなっていた。

ここでは経過とそれを裏付ける理論(主としてデリダとフロイトから裏付けた)は省く。僕は結局、このように結論することで自分の中で折り合いをつけた。
つまり、こういうことだった。
「当事者は、当事者でいる限りは決して語ることはできない。語ることができるのは『経験者』であり、経験者は経験者としての苦しみをもつ。そのふたつを区別したほうが支援する際に混同しなくてよい」

このあと、ここでいう「経験者」たちと少し議論になったが、僕としては後悔はしなかった。当事者も経験者もそれぞれの苦しみをもつ。経験者はその苦しみを語ることができる(それゆえにさらに苦しくなる)が、当事者はそもそも語れない。
なぜなら、同義反復ではあるが、語れない存在こそが当事者=サバルタンだからだ。

当事者の苦しみは、経験者が代表(ルプレザンタシオン)して語るか、まったくの第三者が代弁して語るしかない。
こうして理屈づけたあと、僕は後者(まったくの第三者)として語り続けようと思った。それ以来今に至る。

だが実は、それだけでは片付けられない「何か」が残っていると、僕はずっと思っている。経験者の苦しみと、当事者の沈黙をつなぐもの、それを僕はいまだに探し続けていて、本書にもそのヒントを探ったが、残念ながらなかった。

あれから10年たち、僕も「宿題」にとりかかる時期が来たようだ。そのふたつをつなぐキーをこれから探したい。★