僕にとっては、「文芸部」が大学中退予防の砦になった

こんなクラブが当時あったら……

■3畳部屋とドストエフスキー

昨日の日曜日、大学時代のクラブの後輩2人と、琵琶湖の畔にあるプリンスホテルにて、プチ同窓会ランチみたいなのを楽しんできた。
僕は、講演活動やFacebookの最終学歴では大阪大学大学院臨床哲学という厳ついものになっているが、最初の大学は龍谷大学という京都にあるフツーの私立大学の、しかも心理学や哲学ではない、フツーの経済学部出身だ。

龍谷大学はもちろん第一志望でなく(立命館は見事撃沈)、かといって浪人させてもらえるほど実家は豊かではなかったから(&18才の僕は一刻も早く実家を出たかったから)、少しためらいながらも高校を出てストレートで入ったのが、京都の伏見区にある第二志望の龍谷大学なのであった。
そこで4年過ごし、バブル期どまんなかの時期に、京都の地味〜な出版社に就職し、そこを1年でやめて、その地味〜な出版社で出会った友人(当ブログにも度々登場する松本君)とともにつくった個人出版社が「さいろ社」というわけなのであった。

龍谷大学は、4回生卒業時においては僕にとって最高の大学になっていたが、1回生時は、それはそれはブラックで希望のない、超ダサ〜い大学だった。いや、龍大がブラックというのではなく、思春期を延々引っ張っていた当時の僕がブラックだったという意味で。

1回生時は友だちもほとんどおらず、1日1時限だけ必修科目に出席してぎりぎりの単位をキープしながら、なんとか日々を過ごしていた。
バイトもする気にならず(本音をいうとバイトするのが怖かった)、親からの仕送りをギリギリに絞って生活していた。月末などは近所の定食屋で1日1食というのはザラ。

3畳部屋で共同風呂・トイレという、当時としても珍しい超学生寮みたいなところで暮らしており、その寮自体は学生たちで賑やかだったけれども、僕はいつも一人で部屋にこもり、ヘッドフォンをして音楽を聞いていた。
当時はまだ「ロックミュージック」の思想性が信じられていた時代で、つまりロック=反体制=ここではない自分探しみたいなのが素朴に信じられていたし(『ロッキング・オン』が急拡大していた時代)、僕も信じていた。だからヘッドフォンの中では、ジョンレノン、パブリック・イメージ・リミテッド、ポップグループ、そして初期のRCサクセションなどが鳴り響いていた。ああ恥ずかしい……。

そんな時代にドストエフスキーや埴谷唯高を読破し、孤高で文学でロックな19才を僕は過ごしていたわけだが、実は寂しかった。というか、すごーく、すごーく寂しかったのであった。
まあ、今風の言葉で当時の僕を言い換えると、半分ひきこもりの、大学中退寸前の、抑うつ状態学生だったわけです。

■生涯最大の緊張

そんな調子で2回生になり、なぜか僕は「このままじゃマズイんじゃないか」と自力で考えた。で、ない知恵を必死になって絞り出した結論が、「クラブに入ろう!!」だった。

入るクラブは文芸部以外になかった。ロック好きでもギターは弾けなかったし(高校時挫折し、ギターは弟に譲った)、映画もそれほど自信はなかった。が、文学であれば、ドストエフスキーとサリンジャーと夏目漱石と埴谷雄高と大江健三郎というふうに、結構自信があった。
自信があるということは、部室で論破されないだろうということだった。

だが、2回生の春に(しかも6月に)入部するのは勇気が必要だった。その理由は、①1回生ではない、②新入生歓迎時期を過ぎている、③文芸部で人間関係を築く自信がない、④文芸部で何をしゃべったらいいかわからない、⑤文芸部のドアをノックする勇気がない、⑥そもそも文芸部に入りたいということを表明するのが超恥ずかしい……と、きりがなかった。

そういえば『涼宮ハルヒ』シリーズは文芸部の部室を乗っ取って活動する話だが、当時はあんなコジャレたというか、ヒッキーの気持ちに寄り添ってくれる作品群は皆無だった。文芸部=ちょっとクラいみたいなイメージがあり、まあそんなクラいど真ん中の自分ではあったがそれを認められないのがひきこもり/自意識過剰であり、まあそのど真ん中にいたのが当時の僕なのであった。

が、これは過去にも書いてきたが、本当に勇気を振り絞って(僕は48才になるまでたくさん緊張してきたが、たぶんあれが生涯最大の緊張経験だった)文芸部のドアをノックし開けてみると、そこには、僕の10倍は変な人達がうようよしていたのであった。

それから、文芸部で読書会に参加し、文芸部で定期刊行物を作成し、文芸部でたくさんお酒を飲んで激論し、そして文芸部代表として学園祭実行委員会でパンフレットを編集し、そのパンフレットが新聞で取り上げられ、文芸部代表として全クラブが寄稿する学術誌を編集し、そして、当然「愛と友情」が炸裂しと、怒涛の大学時代が本格的にスタートしたのであった。
そうやって、4回生が終わる頃、僕とって龍谷大学は最高の大学になっていた。

■「居場所」としての有効性

で、今から振り返ると、龍谷大学、いや、文芸部は僕にとって最高の「居場所」だった。
「居場所」機能には、①コミュニケーション、②生活(清掃等)訓練、③レクリェーションの3つがあると、現在の僕はいろいろ書いたりしゃべったりしているが、まさに文芸部はその3機能が凝縮していた。編集作業などは就労実習のひとつなので、就労訓練までもそこには加わっていた(実際その編集実務を元にさいろ社の作業を行なった)。

昨日久しぶりにクラブ関係の後輩2人とランチし、帰りの電車でそんなことを思い出していた。
やはり文芸部が惜しかったのは、2回生の6月、その部室のドアを開けることが異常に緊張したことだ。

あそこで、途中入社ならぬ「途中入部」が大学の中で常識であればもっと楽にひきこもりの僕はドアをノックできただろう。
またそれ以前に、文芸部ってどんなところかを説明してくれる「案内所」みたいなものも別の部屋にあれば、もっと気軽に訪れることができたかもしれない。
その案内所に、やはり専門カウンセラーがいてくれれば、もっともっと安心できたかもしれない(いや、それはかえって抵抗あるかな)。

現在さまざまな「大学中退」予防策が考案されていると思う。もしかしてクラブやサークルがその最大の社会資源かもしれないのだが、そのわりには各大学ともその資源の再構築に取り組めていないのでは、と昨日あらためて思った。

まあこの頃の僕は、社会の最新情報に疎くなってしまっているので、すでに、こうした「クラブの“居場所”としての有効性」は積極活用されているのかもしれませんね。★