「変な大人」が子どもを癒す〜「変な大人」論①


■一般化される居場所/生活支援

昨夜の夜から、また実家の香川県に帰省している。夕方新大阪から新幹線に飛び乗り、21時頃地元の駅に到着したのだが、当然タクシーなどいるはずもなく、まっくらな田舎の道をとぼとぼとウォーキングした。
大病のあと、僕にとってくらやみはそれほど不気味ではなく、むしろなんとなく「帰ってきた」感が高揚して気持ちいい。
こわいのは、後ろから走ってくる、クルマ。夜中、くらやみの中をそうしたクルマは猛スピードで僕を追い抜いていく。人が一番怖い。

こんな海のそばで僕は育ちました
昨日一昨日の週末は、経営コンサルタントと語り合ったり、発達障害に関する熱い研究会を開催したり、スタッフ研修を開いたりと、実に濃密な時間を過ごした。
なかでも、昨日午後行なったスタッフ研修は、「居場所〜生活支援」をテーマとしたものだった。本ブログのネタにもふさわしいと思うので、少し報告しておこう。

簡単な講義の後、僕が質問したのは2点だった。一つは「居場所に配置するスタッフ数」、もう一つは「専門資格による違いとは」だった。
居場所=生活支援の有効性がまだ定着していないから、これらは当然マニアックな議論になるが、本当にこのまま若者問題が拡大・定着すれば(僕はそうなると思う)、これらはいずれは一般化されていく問題だ。

■生活支援がプラッツは得意

これまで当ブログで時々書いてきたものをおさらいすると、子ども・若者支援には、①アウトリーチ、②生活支援、③就労(学)支援の三段階がある。
詳しくは「スモールステップ支援スケール Ver.1.0」http://toroo4ever.blogspot.jp/2011/12/ver10.htmlを参考にしていただきたいが、現在③は充実し始め、①の重要性に社会は気づき始めている段階だ。
だが、①と③をつなぐ役割をする②が、まだまったく理論化されておらず、その重要性が明確になっていない。①が成功してもいきなり③に放りこめば挫折する確率が高くなる。

そして、淡路プラッツの最も得意とする支援は②だ。②の有効性を知っているプラッツには、それを広く発信していく役割が求められていると僕は思い、講演活動などではスタッフが積極的にこれらを伝えるようにしている。

で、昨日の僕の質問に戻ると、一つ目の居場所のスタッフ数=若者一人あたりのスタッフ数は、生活支援がなんらかの公的支援になった場合、避けて通れない問題だと思う。多ければ多いほどいいものの(最低「若者2人にスタッフ1人」?)、子ども・若者の「自立度」によってそれほどべったりと寄り添わなくてもいい場合がある。
また、生活支援に恒久的財源が保障されていないいま、人件費的にも「2:1」は普通は苦しい。だが、このような議論がやっと大っぴらに行なえるようになってきた。

■臨床心理士とその他専門職の違い

もうひとつの質問、専門資格による違いを具体的に言うと、現在プラッツには、臨床心理士・精神保健福祉士・キャリアカウンセラーの三つの専門家がスタッフとして若者支援を行なっている。
だがこれら専門家の多くは、はじめから若者支援をしようと思ってそれら資格を取得したわけではなく、はじめに資格を取得し、現実の仕事の一つとしてあとから若者支援とめぐりあっている。特に、現実の仕事数・種類に限りがある臨床心理士はその傾向が見受けられ、これは何もプラッツに限ったことではないだろう。

つまりは若者支援の場合、病院等の専門機関とは違って、資格の枠内のみで仕事を行なわない。その資格をベースにした「個人の傾向/あり方」を武器に、利用者/クライアント/子ども・若者に出会い、かかわり、支援をする。プラッツの某スタッフの言葉を借りれば、「全人格的に」若者とかかわっていくということだ。

とはいっても 、資格ごとに関わり方の違いはある。たとえば、昨日の研修では「介入」という言葉で表現された、支援者の意思表示の程度の問題がある。
臨床心理士には「介入」はややソフトに抑える傾向があり、その他専門職はそこにはそれほど慎重にはならない。資格以外にも、スタッフ自身の性格の傾向や対人関係のパターンがそこには大きく影響しているだろうが、資格ごとのかかわりの違いは確かにあるようだ。
「全人格的」といっても、その全人格の一部にその人が持っている専門資格は当然影響を与えているから、当然といえば当然だ。

■「変」とは「自由」

これらの議論を聞いていて僕が思い出したのは、元プラッツスタッフ(現臨床心理士/大学教員)が書いた、修士論文のことだ。
その論文を一言でまとめると、傷ついた子ども・若者が癒され再チャレンジしていけるようになるとき、ある段階で「変わった大人」との出会いがポジティブに作用している、という。「変な大人」との出会いが、子どもや若者たちを癒し、再チャレンジさせる力を与えるのだ。

また古い話だが、さいろ社時代に僕が編集した『子どもが決める時代』(絶版)という本も思い出した。
その本の著者・佐藤幸男さん(臨床心理士)は、最初「相談家庭教師」という名前で不登校の子どもたちへの訪問活動を行なっていた。そこで佐藤さんは徹底的に変な大人であり続け、そこに子どもたちは何らかの癒しを受けていた。

こうした「変な大人」が子ども・若者たちを癒す、という議論はまったく珍しいものではない。たとえば、淡路プラッツの初代塾長の蓮井学さんなどはその典型だろう。もしかすると僕も、そうした変な大人の一人なのかもしれない。

この「変な大人」の「変」は、おそらく「自由」と関係があると僕は思っている。
「自由」を徹底すると、それは現代社会では「変」になるのだろうか。「自由」が、子ども・若者を癒し、再チャレンジさせているのだろうか。(不定期につづく)★