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ポスト「シェアNPO」の可能性〜6/25イベント「シェアNPOとオルタナティブNPO」報告

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■シェアNPOとオルタナNPO

昨日(6/25)、育て上げネット理事長・工藤啓さん、経営コンサルタント・加藤徹生さんとともに、「シェアNPOとオルタナティブNPO」と題したイベントを、関西カウンセリングセンター理事長・古今堂靖さんの進行で行なった。
非常に有意義なイベントで、僕としては、このイベントに期待していた目的をほとんど果たすことができた。

3部構成のイベントで、1部は加藤さんの司会で僕が「シェアNPOとオルタナティブNPO」について語った。中身は当ブログのこの記事この記事に書いたとおりなので参照されたい。
要は、団塊世代が形成する「オルタナティブNPO」に対して、35才前後の団塊ジュニアが起業・経営する新しいかたちのNPOを「シェアNPO」とする。
オルタナNPOは「理念」を共有するが、シェアNPOは、互いの(期間限定の)利益と情報を共有する。そしてシェアNPOは、お互い無理ない範囲で連携していき「ウィンウィン」であることを是とする。


オルタナNPOは理念を共有し「ネットワーク」していくことに対して、シェアNPOは利益と情報を共有して「コラボレーション」していく。コラボは時間限定でもあるので、当初の目的を果たし時間が過ぎるとそのコラボを解体し、次のコラボを形成する。
NPOなので大きな理念(子どもの幸福等)は共有しているものの、どちらかというと「利益の共有」でつながっている。


■育て上げネットの斬新さ


こうしたことを説明したあと、2部は工藤さんが、「育て上げネット」による様々な画期的事業の報告(それらにはいろいろなかたちの「シェア」が見られる)を行なった。
詳しくは育て上げネットHPを参照いただきたいが、あらためてそれら多重的な試みを聞くと、その斬新さ・普遍性に驚く。

少子高齢化社会において、「若者・女性・高齢者」の社会参画は必須のテーマだが、このうち最も重要な「若者の社会参画」に関して、「シェア」(大手企業・NPO・行政などシシェアのパートナーも幅広い)の手法を縦横無尽に駆使する同法人は、若者(特にニート)支援において日本ナンバーワンだと僕は思う。

■問題が「近い」

3部は、それらを受けてこれからの展望を3人で語った。
僕としては、工藤さん世代のNPOの、次の世代(現在25才前後)のNPO、またはその次の世代(現在15才前後)がやがて創業するであろうNPOが…

20年NPOを覆う「空気」

■オルタナとシェアを共存させた人

淡路プラッツは今年で20周年になるが、ここまで何とか生き延びてこられたのは、たくさんの方のご支援が一義的にはあるものの、それはなんというかやはりタテマエであって、その一番の理由は、やはり初代塾長だった故・蓮井学さんのスピリットあるいは亡霊に取り憑かれていたためだったと思う。

蓮井さんが存命中は、そのスピリットがプラッツを引っ張っていった。亡くなってからは、その意志を残された人々が引き継ぎ、そしてその意志はあるときからなぜか亡霊のようなものに変わっていった。

蓮井さんのスピリットとは、まずは「子ども・若者に寄り添い、彼ら彼女らを支援し自立させたい」ということだった。
そのためであれば、蓮井さんが若い頃は嫌いだった「権力」だろうが(そうした意味で蓮井さんは基本的には「オルタナティブ」な人だった)同業のライバルだろうが気にせずどんどんネットワークしていき、互いの情報や支援のノウハウを「シェア」していくことができた。

5月6日ブログ「「オルタナティブNPOと「シェアNPO」に書いたとおり、蓮井さんとは、オルタナティブとシェアの2つの要素を持ち合わせた稀有な人だった。

そうした蓮井さんのスピリットが、彼が亡くなってからもプラッツには綿々と引き継がれ、いい意味でも悪い意味でも、蓮井さんの90年代のエピソードや、それを一時的に引き継いだ井村良英君(現NPO育て上げネット)や金城隆一君(現NPOちゅらゆい)の話はいまだにあちこちでよく出てくる。
それもこれも、蓮井さんが持っていた、「オルタナティブでありながらシェアできる人/団体」というイメージが、ポジティブに残存しているおかげだろう。

■理念と責任

その一方で、経営的に見ると、淡路プラッツの20年の歴史はほとんどが「ボランティア系団体」の歴史だったともいえる(ここでは、理念の指標として「オルタナティブ/シェア」、経営組織の指標として「ボランティア/事業」という対比を用いている)。
10年代になり経営規模がやっと小さな会社並み(社員5名+年間契約社員数名+アルバイトたくさん)になってきたものの、その「ボランティア」系団体の本質はそれほど変わってはいない。


ボランティア系団体にはいくつかの特徴がある。
長所のひとつは、思想や価値の実現化という側面に多くあり、理念が実体化しやすいということだ(たとえば「…

ネットワークではなく、NPOコラボレーション

■ネットワークとコラボレーション

オルタナティブNPOとシェアNPOというこの5月6日のブログで僕は以下のことを書いた。
現在、35才前後の団塊ジュニア世代が次々と創設するNPOはいわば「シェア型」であり、ゆるやかなつながり(ウィークタイ)のなかで情報や価値をシェアしつつ、互いに「ウィンウィン」であることを目指している。
これは、ジュニアの親世代(団塊世代)のスタイルである「オルタナティブ型」(メインストリームとは「別の」価値を提案する)とは対称的であり、この両者がいかにつながっていくかを現実的に検討することも、これからの我が国の社会のかたちを決定するだろう、と。

これら「シェア」と「オルタナティブ」は一つひとつのNPOのあり方を表す言葉だが、ここに、それらNPO同士が「つながっていくかたち」を示すことができれば、さらに一歩議論をすすめることができる。
僕は、この「つながっていくかたち」を検討する際、「ネットワーク」と「コラボレーション」というふたつのつながり方を比較検討すれば、より「いま」が理解できるのではないかと思う。

■ネットワークは空虚

ネットワークもコラボレーションもいずれも使い古された陳腐な表現ではあるが、逆にいうと、いずれの英単語も日本語として十分根づいているということでもあるから、今回のような概念比較する際には逆に使える。

どちらかというと、ネットワークのほうが外来語としては古いだろう。25年ほど前に友人の松本君と僕で「さいろ社」という出版社を起業した頃、ネットワークという言葉は大流行で、どこに取材に行っても誰に原稿を書いてもらってもそこに「ネットワーク」という言葉が踊っていた。
「市民ネットワークを形成し医療システムを監視しよう」「専門家の垣根を超えてネットワークすることが必要」等々、「締め」の言葉として必ずネットワークは登場していた。

当時僕はそうした原稿を毎日のように校正していて(さいろ社だけでははじめは食べていけなかったので大手の医療系出版社で校正のバイトもしていたがそこでも「ネットワーク」は頻出していた)、その出現の多さに辟易としていたものだ。

つまりは、「ネットワーク」はとりあえずの「締めの言葉」として登場するが、それはウィーン会議のように「踊る」ばかりで一向に現実化しない空虚な言葉だったのだ。
とりあえずネットワークと書いたり言ってお…

「中退」は、管理社会からの静かな撤退

■「管理社会」の一現象

昨日、お世話になっている大学教員の方お二人と「大学中退」について議論した。
いろいろな可能性が論じられたが、話は徐々に「現代の学生の人間関係」へと収斂していった。

僕としては、大学中退について、学生の学力の問題や大学のカリキュラムの問題等も検討しなければいけないのかなあとこの頃は思ってただけに、話が「学生の人間関係」のあり方に絞りこまれたことは、いわば「淡路プラッツお得意のジャンル」でもあるから、少し安心した(変な言い方だが)。

だが、話はそう単純なものではない。いま騒がれている「大学中退(広義では不登校/高校中退も含む)」の問題とは、すぐれて現代的な問題であり、現代社会の最も象徴的テーマであることが徐々に明らかになってきたからだ。
それは、「管理社会」の具体化に伴うネガティブな一現象ということでもある。

■セーフティネットではなく監視する「友だち」

お二人との対話では、このようなことが話された。
現在の大学では、まずは「元気な人達」が目立っている。同時に、欠席学生はすぐにマイノリティ(少数派)化される傾向がある。そして、自分の悩みを欠席学生は相談する相手がいない。

その相談相手、つまり「元気な人達」はマジョリティ(多数派)だから、大学中退を防ぐためには、そうしたマジョリティ(つまり出席している学生)を変化させ、結果として大学の雰囲気を変化させていく必要もある。

中退の一歩手前の現象は「長期欠席」である。そうした長期欠席の原因は、何よりも「友情関係」の不安定さに起因する。
だが、大学では、長期欠席する学生に対して、「自己責任論」が強い。不思議なことに、学生の「貧困」問題には理解があるが、長期欠席に対しては、①「自己責任論(がんばれ主義)」と、②「病理化(精神障害)による対象外化」が働く。

現在の学生は「人間関係を維持すること」で精一杯である。 そして、「友だち」がセーフティネットになっていない。それどころか、むしろ「友だち」は監視機能をもっている。監視するものに対しては相談できず、学生のほうから撤退し、長期欠席へと移行する。
中退予防とは、中退の手前の現象、つまり長期欠席の段階でのアプローチのことである。その際、以下がポイントとなる。 ①「ピア(仲間・同僚)」の可能性 ②「多様な人達」との出会い ③マジョリティにアプローチし排除的態度を変…

「自由」は癒しツールだが自立ツールではない 「変な大人」論②

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■「普通」が拡大すると、「変」も拡大する

前回からブログトップページのレイアウトを変えてみたところ、フラットかつ容易に過去のブログにも辿りつけるせいか、妙に閲覧数が上がっている。
僕としては読みにくいことこのうえないトップページ(グーグルの「動的ビュー」というサービス)なのですぐに元に戻そうと思っていたのだが、もうしばらく様子をみることにする。

前回、「変な人」が傷ついた子ども・若者を癒すと書いた。そしてその「変」は、「自由」に結びついているのでは、というところで終わった。

「変」は、この超高度情報管理社会においては「自由」と結びついている、というのはそれほど説明は不要だろう。情報が隅々にまでいきとどき何もかも便利になった代償として、我々は以前よりもタテマエ上「普通さ」を求められる。
これは矛盾するようだけれども、人間とはこんなものなのかもしれない。誰にでも自分の情報が漏れるかもしれないという可能性が前提にある場合、タテマエ上、我々は「普通」であろうとする。

とりあえず「普通」であれば揉め事は起こらないから、まずは「普通」からスタートするというわけだ。
情報がツーツーの社会ではすべてがトラブルになる。そんなトラブル発生を防止するには、「普通」であることが何よりも重要になるからだ。

そうなると「普通」が拡大していき、それは「社会規範」も拡大していくということだから、そうした社会規範からはみ出る「自由」は「変」ということになる。



■不登校の増大

社会規範のない社会はない。だから、そこからはみ出る「自由」は、どんな社会にもある。言い換えると、どんな社会にも「変な人」はいるということだ。
そしてその変な人は、通常の社会では、単なる変な人として終わる。そこには癒しも何もないだろう。

だが、超高度情報管理社会において無数の情報で縛られた人々(つまり我々)の周辺では、情報とともに、無数の社会規範が散りばめられている。
残念なことに、情報の拡大と拡散は自由の拡大をもたらさなかった。我々は、情報の拡大と同時に起こるトラブルから逃れるため、より「普通」であることを選ぶことにしたようだ。

言い換えると、トラブル防止のために、我々は規範という自己規制を「普通の拡大」というかたちで具体化している。そのため、ものすご〜く息苦しく生きにくい社会が形成された。

そうなると、基本「普通」の社会が…