「中退」は、管理社会からの静かな撤退


■「管理社会」の一現象

昨日、お世話になっている大学教員の方お二人と「大学中退」について議論した。
いろいろな可能性が論じられたが、話は徐々に「現代の学生の人間関係」へと収斂していった。

僕としては、大学中退について、学生の学力の問題や大学のカリキュラムの問題等も検討しなければいけないのかなあとこの頃は思ってただけに、話が「学生の人間関係」のあり方に絞りこまれたことは、いわば「淡路プラッツお得意のジャンル」でもあるから、少し安心した(変な言い方だが)。

だが、話はそう単純なものではない。いま騒がれている「大学中退(広義では不登校/高校中退も含む)」の問題とは、すぐれて現代的な問題であり、現代社会の最も象徴的テーマであることが徐々に明らかになってきたからだ。
それは、「管理社会」の具体化に伴うネガティブな一現象ということでもある。

■セーフティネットではなく監視する「友だち」

お二人との対話では、このようなことが話された。
現在の大学では、まずは「元気な人達」が目立っている。同時に、欠席学生はすぐにマイノリティ(少数派)化される傾向がある。そして、自分の悩みを欠席学生は相談する相手がいない。

その相談相手、つまり「元気な人達」はマジョリティ(多数派)だから、大学中退を防ぐためには、そうしたマジョリティ(つまり出席している学生)を変化させ、結果として大学の雰囲気を変化させていく必要もある。

中退の一歩手前の現象は「長期欠席」である。そうした長期欠席の原因は、何よりも「友情関係」の不安定さに起因する。
だが、大学では、長期欠席する学生に対して、「自己責任論」が強い。不思議なことに、学生の「貧困」問題には理解があるが、長期欠席に対しては、①「自己責任論(がんばれ主義)」と、②「病理化(精神障害)による対象外化」が働く。

現在の学生は「人間関係を維持すること」で精一杯である。
そして、「友だち」がセーフティネットになっていない。それどころか、むしろ「友だち」は監視機能をもっている。監視するものに対しては相談できず、学生のほうから撤退し、長期欠席へと移行する。

中退予防とは、中退の手前の現象、つまり長期欠席の段階でのアプローチのことである。その際、以下がポイントとなる。
①「ピア(仲間・同僚)」の可能性
②「多様な人達」との出会い
③マジョリティにアプローチし排除的態度を変更させる
④学校以外の「もうひとつの場所」の構築
⑤「情報ネットワーク」の絡まない友だちの存在

■「居場所」をつくるためには

①と②は淡路プラッツ(のようなフリースペースやNPO)の「居場所(=生活支援)」でのアプローチと重なる。
③は相当長い時間がかかるものの、大学内システムの変更として取り組む価値はある(大学経営者の英断が必要になってくるが、そうした「英断」こそが日本の大学や日本人の最も苦手な分野)。

④は、これまた淡路プラッツ(のようなフリースペースやNPO)のような居場所を指す。もちろんミッションや行動指針に縛られる既存のNPOを利用するよりは、大学が独自に「居場所」をつくればいいが、これはある意味大学の自己否定につながるため、これまた日本人が苦手な「英断」が必要になる。

また④は、大学内にある「居場所」、つまりクラブやサークルを改革・活性化させるという方法もある。これは僕が、5月14日のブログ「僕にとっては、『文芸部』が大学中退予防の砦になった」に書いたように、実際に中退予防の効果はある。

現実には、大学側がこれに気づいて学内改革に臨むことができるか、そして大学の意向を受けた、サークルに通うことのできる「元気な学生たち」がこうした学内改革に応じることができるか、が問われる。
僕は今の大学のことをほとんど知らないので、実際にこうした改革が行なわれているのかもしれない。

■仕事ツールだがプライベートツールではないFacebook

⑤の「情報ネットワーク」とは、通常のメール(スマートフォンによってすべてのメールが現在進行形でチェックできる)と合わせて、FacebookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことを指す。
元々は日本ではミクシィ(や2ちゃんねる)等の匿名SNSが主流を占めていたが、実名SNSであるFacebookの拡大がこの流れを決定的にした。
有名人のメディア色が強いTwitterや、Facebookのフォロワーを狙うGoogle+などもここに加わり、ネットを主たる媒体にした「情報ネットワーク」によって、現代の子ども・若者は取り囲まれている。

Facebookは今のところ、仕事ツールとして30〜40代男性が主として使用するらしいが、僕が仮に学生としてFacebookと初めて出会っていれば、ネット上においてもある意味「キャラ」として振舞わなければいけないことに辟易としていたことだろう。

Facebookはあくまでも仕事ツールであって、プライベートツールではない。プライベートにFacebookを持ち込むと、それはたちまち互いが互いを監視する「管理社会」ツールとなってしまうだろう。

まだ十分整理されていないが、このように、現在起こっている大学中退の問題とは、現代の「管理社会」に特徴的な現象なのではないかと僕には思えてきた。現代哲学(主としてフーコーやドゥルーズ)が30年前に予言した現象が現実化しており、そこからある意味ネガティブに逃走しているあり方、それが「大学中退」なのではないかと思う。

こう考えると、臨床哲学を学んだ僕にも少しお手伝いできることがあるのでは、と思い始めた。★