子ども・若者は、「規律(学校)と監視(Facebook・Twitter)」社会で生きている〜変な大人/イバショ論⑥〜



■高校中退予防事業〜となりカフェ〜

春頃から淡路プラッツがのんびりと準備してきたもののひとつに高校中退予防事業があり、先月末から今月にかけてプレゼンやらなんやらがあって、8月からいよいよ事業開始することになった。
正式には、大阪府新しい公共の場づくりのためのモデル事業の枠内での「高校中退・不登校フォローアップ事業」なのであるが、通称は「となりカフェ」という。

提携先の高校の名称も含めて詳しくは当ブログやホームページで随時報告していく予定だが、僕としては、以前よりず〜っと気になっていた、「ハイティーンひきこもり」の問題というか、高校中退以降の青少年の生活のあり方にやっととりかかることができて、ものすごくうれしい。
去年、僕が病気療養中につくったプラッツの行動指針のひとつに「潜在性へのアプローチ」というのがあって、これがその高校中退問題にぴったり当てはまるテーマなのだ。


高校中退の問題は、ひきこもり・ニートの問題が生じる最大の源泉だと僕は思う。
大学中退も大きな問題だとは思うが、高校中退は潜在化の深刻度がより重い。
大学中退は「就労支援」というフィルターにまだ絡めとりやすいが(そのフィルターにたどり着いてもらうまで紆余曲折は当然ある)、高校中退はそもそも「支援」の網から抜け落ちている。


公的支援のあまりの少なさから、現代の日本では、高校を中退すると即ブラックボックス化してしまう。かといって、年齢面からすぐには就労には結びつきにくいため、就労支援の網の目からも抜け落ちている(その結果、長期のひきこもりになる)。
現在、若者サポートステーションが高校生支援に取り組んでいるものの、サポステの性格からどうしても「就労」という切り口になってしまうため、そこに拒否反応を示す生徒/保護者はなかなか網の中に入れない。そうなると、サポステの能力の優劣が反映されるから、仕組みとして平均的支援が提供しにくい。


就労からの切り口だけではなく、生徒の生活面すべてを考慮するような予防的支援が求められているのだ。


■子ども・若者世界には、「規律」だけではなく「監視」もある


そこで、「となりカフェ」のようなものが求められていると思うのだが、詳しくは次回以降。
今回は、あらためて現在の日本の10代がいかに生きにくくなっているのかを簡単に考えてみる。


学校は「規律社会」の典型である。この言葉は哲学者のフーコーが元ネタではあるが、フーコーの議論(『監獄の誕生』等)を紹介するまでもなく、誰にでも想像できるだろう。パノプティコンと呼ばれる刑務所の建物構造に見られるように、近代以降の社会では、建物の構造そのものから、集団に規律を与えるシステムが採用されている。
その背景にあるさらに大きな意味は、近代ヨーロッパ諸国が、子どもや若者を、システムとして「産業と軍隊」に組み込むためだったと言われる。


日本も明治維新以降、必死に近代ヨーロッパを真似してきたから、このような規律社会を目指してきた。加えて、そのおとなしい国民性と、「空気」偏重で「決定できない」独特な内向き文化から、それ(規律社会化)がわりと成功してきた。
まあこれも今や常識の枠内にあると思う。
フーコーの中では読みやすい


ポイントは、最近になって、こうした規律社会に加えて「監視社会」の要素も本格的に加わってきたということだ。
これもまたフーコーを参照してほしいが(30年も前に提唱しているわけだから、やっぱりフーコーってすごいなあ)、いつもこのブログに登場する哲学者ドゥルーズもフーコーの議論を少し補足した。


これまた詳しく知りたい人はフーコー(『性の歴史Ⅰ』)やドゥルーズ(『記号と事件』だったかな)にあたってほしいが、ひとことでいうと、学校や刑務所のような中心的管理機構を置くことなく、現代では環境それ自体において、人が互いを監視しあうようになったということだ。
解説本などでは、たとえばマクドナルドの小さな椅子(わざと小さくして長居できないようにしている)や街のあちこちにある警備カメラなどがあげられる。
中心的な組織(学校や刑務所や会社)が統治することなく、現代社会では、街の構造そのものによって互いが互いをチェックしているということだ。


僕などは、現代の最大の監視装置は、やはりインターネットにあると思う。特に、FacebookやTwitterなどのSNSがその役割を果たしているだろう。
ネットでざっと検索したところでは、現代の高校生や大学生は、オフィシャルな自分はFacebookで、極私的自分はTwitterでと使い分けているようだが(まだTwitterの利用率が高いようだ。Twitterは5割、Facebookは2割程度とのこと)、いずれにしろ生活すべてに張り巡らされたネットによって、自分のほとんどすべてを周囲に知られていることには変わりはない。


■監視=コミュニケーション


そうした環境に3才の頃から(つまり「人間」として覚醒し始めたその時から)囲まれていると、人はどうなっていくのだろう。
そうした人たちが今、着々と年齢を重ねている。すぐに小学校を終えることだろう。


ミクシーを先駆者としてTwitterやFacebookが日本で爆発的に広がり始めたのはここ数年のことではあるが、子どもの数年は大人の何倍もの密度がある。
現在の高校生がFacebookを知ったのはおそらく中学生時だろうが、それでも最も多感な時期に、学校という規律社会に加え、監視社会の中で過ごしている。


監視というとネガティブな印象を与えるかもしれない。これを少しポジティブに、「コミュニケーション社会」と言い換えてもいい。現代の子ども・若者たちは、近代的規律に加えて、常にコミュニケーションという網の中に入っている。


そう考えてくると、不登校やひきこもりは、近代的規律社会からの逃走に加え、脱近代的監視社会からの離脱でもあるとも言える。
だが切なくも尊重したいのは、子ども・若者たちが、そうした逃走や離脱をあくまでも一時的なものにしたいと考えているということだ(変な大人論1や2を参照)。


つまりは、不登校やひきこもりを一刻も早くやめ、元の規律・監視(コミュニケーション)社会に戻りたいと思っている。
支援者であるのであれば、そこを尊重しなければいけない(いやなら学者かジャーナリストを目指せばいい)。僕は支援者の道を選んだので、そうした子ども・若者のニーズを尊重し、満たしたいと思う。


最近取り上げている「変な大人/イバショ」も、大きな枠組みで考えれば、現代の「規律/監視社会の補完装置」だとも言える。
つまり、規律と監視から成り立つ社会は、変な大人とイバショのフォローを得ながら維持され続ける、ということだ。★










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