日本では「戦略」はムリ?〜なでしこ・スーパーカブ・東日本大震災〜


■なでしこ戦略への批判

オリンピックが始まって1週間くらいたつのかな、新聞もテレビもオリンピック一色なので僕も興味深く見ているが、この間、「日本人」を考えるのに適した出来事が2つあった。
ひとつは、なでしこジャパンの監督が予選3戦目で引き分け戦術を選択したことに対する批判が予想外にあったこと、もうひとつは400メートルハードル男子予選で、怪我をしているのにもかからず「最後まで走り抜いた」日本人選手がいたこと、だった。

いずれの事例も、「中長期的な勝敗よりも、短期決戦の中で『潔く』戦うことを重視する」日本の特質が典型的にあらわれたものだ。
怪我をしているのに走りぬく選手に対して、テレビ中継では批判を聞かなかった。日本以外の国であれば、たとえば「他の選手に譲るべき」「将来の選手寿命を考えるべき」等の批判のほうが多いだろう。

なでしこ監督のひきわけ戦術に関しても、どちらかというと批判的トーンのほうが多いように感じた(擁護議論もあるのだろうがそこまでチェックしていない)。
今回の大会のテーマ(ミッション)はおそらく、「ポテンシャルの落ちた澤をいかしながら、大野・川澄・宮間等の中核選手の集団リーダーシップのもと、どう優勝するか」というものだっただろう。
おもしろい。だが、なぜ戦略を持てないのかという説明が弱い。惜しい。

そのために監督は、今回の大会の戦略を「できるだけリスクを回避して効率的に戦う」というものにしたのではないかと推察する。
その戦略のもと、「優勝候補の中でも日本が勝つ確率の高いブラジル」を準々決勝の相手に選び、「移動距離の負担を減らす」ことも考慮したのではないか。

なでしこの戦いは、戦略性のない日本人としては珍しく戦略的であり(監督が会見でその戦略を漏らしたのは迂闊だったのか、戦略性のない日本人に対する皮肉か)、非常に見習うべきものだったのではないかと僕は思う。
けれども、単に「潔くない」という点から(つまりは何となくの「空気」から)批判されている。
これ(負傷ハードル選手への無批判と、なでしこ監督の戦略優先主義への批判)こそが、僕は「日本」、そして「日本人」そのものだと思う。


■「偶然の成功体験」が戦略になってしまう

最近売れている『「超」入門 失敗の本質』(鈴木博毅/ダイヤモンド社)によると、戦略が苦手な日本企業は「一点突破・全面展開」を好み、その戦略性も偶然に獲得することが多いという(ホンダのスーパーカブは、スーパーカブ的乗り物にニーズがあることを、アメリカでの市場展開の中から偶然に気づいた)。

同書は日本独特の戦略の獲得パターンを「体験的学習」と名づけている。何気ない日常の積み重ねのなか、たとえば「スーパーカブはもしかすると『ふだん乗り』としてニーズがあるかも」と気付く。
そのようにして偶然に発見し、試しに市場展開すると意外と当たる。これが偶然に「スーパーカブは売れるかも!!」となり、大々的に売りだしてみると見事に大当たりし、現在まで続く大ヒット商品となる。
このような偶然の積み重ねから「体験的」に戦略は生まれてくるのが、日本の特質のようだ。

これに対して、リーマン危機・東日本大震災/福島原発大事故を通して決定的に転換を迫られている(評論家諸氏が「幕末・明治維新と第二次大戦敗戦に続く、第三の転換点」と呼んでいるのは御存知の通り)日本社会に存在する組織、つまりは企業やNPOには、体験的なものではない、「普通の」戦略が求められている。

普通の戦略を『失敗の本質』で取り上げられているアメリカ軍の例で説明すると、勝利という大目標(この場合戦争なのでミッションではなく目標になる)を目指し、当時のアメリカ軍は「持久総力戦」という戦略を選択した。そのために、「生産力・国力増強」という戦術を選ぶ。
今回のサッカーのなでしこでいうと、「リスク回避のなかでの効率的勝利」という戦略を選択し、そのために「引き分け」戦術がある。

対して当時の日本軍は、「決戦戦争」という戦略を選択し(つまりは「一点突破・全面展開」でなんとかする)、「目の前の戦場での勝利」という戦術を選んでいる(そのためアメリカ軍が無視した太平洋の小島も占領してしまう)。
日本軍の戦略を一言で表すと、「とにかく目の前の戦いに全力でぶつかればなんとかなる」というもので、これはつまりは戦略ではない。

ただ戦争を離れて経済活動にまで広げて考えると、これらのなかにも時々成功する体験が含まれ、それがたまたま「スーパーカブ」だったりする。そしてこれが以降の「戦略」になっていく。

■一生の中で必ずある

Twitterでもこの頃僕はつぶやいているが、問題は、日本人がなぜこのような「行き当たりばったり」主義を好み、「その場で美しく散る」ことを好む傾向にあるか、ということだ。
なぜ日本は、戦術的/タクティクス的(その場かぎりでの戦い)あるいはタスク的(日常業務の細かい改善)にはあれほど配慮が行き届きながら、数年単位の「戦略/ストラテジー」となるとからっきしダメなのか。

今のところ僕の結論は、およそ80年に一度大地震が襲い(ここ150年でも、安政の大地震〜関東大震災〜阪神大震災・東日本大震災)、数万人単位が一瞬にして亡くなっていく大地の上に住んでいるから、としか言いようがない。
80年に一度ということは、人間が短命にならない限りはその一生の中で必ず一度体験するということだ。何世代の中での一度ではなく、一世代の中で必ず一度は大地震が起こる、限りなく不安定な土地の上で我々は2000年以上に渡って生活している。

そうした条件下で生活していると、自然と長期的視野を持つ必然性がなく、「目の前の」「その瞬間の」「美しさ」「潔さ」あるいは「もののあはれ」「完全燃焼」等を重視する。
これはいわばニーチェ/ドゥルーズ的でもあるから、哲学マニアの僕としては完全賛同せざるをえないのではあるが、戦略性の求められる時代の転換点にあるNPO経営者としては「潔さ」だけでは話にならないのも事実だ。

まあ、このようなことから、我々日本人は「戦略なき国民性」あるいは「タスク至上主義的国民性」を持つに至ったと今のところは考えざるをえない。
もうひとつあるとすれば、やはり「周囲を海に囲まれた閉鎖性から、大規模な内戦がほとんどないため」ということになるのかな。

実は僕の中にも「スーパーカブ」はあるだけに、なかなかしんどい。★