たとえば、『羊をめぐる冒険』があった〜ハイティーンを支えるもの〜

『羊をめぐる冒険』の舞台といわれる、北海道・美深駅から奥に入ったところにある松山湿原の看板。
詳しくは、このブログを参照あれ。東京紅團http://www.tokyo-kurenaidan.com/haruki-hitsuji2.htm僕も最近見つけたのだが、文学マニア垂涎のブログだと思います。


■11/3、よろしくお願いします

おっと、またもや前回ブログから1週間たってしまった。この間、さまざまな会議への出席を中心に(というか、僕の仕事の中心は「会議」になってしまった。それにまだ慣れていないのでいろいろご迷惑をおかけしています……)、1週間フル稼働だった。

でも、プラッツスタッフからすると、「あのタナカ代表、何してるんだろ」みたいな感じで映っているのかもしれない。いろんな社長エッセイを読んでいると、こういうのがいわゆる「トップの孤独」なんだそうだ。

でも僕は、まわりから一人になればなるほど幸福になってしまう。碓か、未来工業の社長さんが、「500人社員がいても、戦略と人事は社長一人が決めればいい」と書いていたけれども、僕は非常に共感する。というか、未来さんの社長を尊敬します、関心ある方は、『日本一社員がしあわせな会社のヘンな“きまり” 』の読んでみてください。

ところで、淡路プラッツ20周年シンポ第2弾が来週に迫ってきた!! 詳しくは、「設立20周年シンポジウム②潜在化する10代〜高校中退予防の現場からhttp://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.html」を参照いただきたいが、前回までとはいかないものの(まあ前回も結局はありがたいことに満員になったのではあるが)、集客状況はピンチらしい。
みなさま(特に教育関係者の皆様)、ご関心ある方はどうぞ覗いてみてください。場所は前回からは変わり、クレオ大阪北http://www.creo-osaka.or.jp/north/index.htmlですのでご注意を!!

■現実のイバショと、理念のイバショ

ところで、高校中退のことをこの頃僕はず〜っと考えていて、行き着くところはやはり「連続体(①中学と高校の進路連携、②高校内イバショの設置、③通信制高校のフォロー)としての高校中退」と、「イバショ」の中身ということになる。
「連続体」に関しては最近のブログに触れてきたので、今回は少しだけ「イバショ」を補足してみよう。

支援施設としてのイバショ(漢字で書くと意味が限定されるため、カタカナ表記で一般化している)は、たとえば、大学生のメンタルフレンドとおしゃべりしたりゲームしたりスポーツできたりする支援空間がある。
淡路プラッツでも、大阪市の委託事業「サテライト事業」のなかで、市内の2ヶ所でイバショスペースを展開している(http://awajiplatz.web.fc2.com/hutoukou.html)。

また、理念としてのイバショについては、この記事(「安心と責任のあいだ」http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/10/youtube.html)に記したように(youtube動画でも語ったように)、「家族=安心(愛と言い換えてもいいか)」「仕事=責任」のあいたに、「イバショ=自由」があるとした。

このように「イバショ」には、今のところ僕は、「現実の支援施設としてのイバショ」と「理念としてのイバショ」という2つの位相があるとしている。
この議論はもう少し熟成させていきたいが、現実の支援的なイバショ的存在として、支援施設とは別に、「文化」の力が大きいのでは、とこの頃思ってきた。
少なくとも僕個人は、文化(サブカルチャー含む)の力によって、10代の頃はずいぶん力づけられたのであった。

■文化というイバショ

僕はいま48才だから、18才の頃は1982年ということになり、バブル前夜というよりは、70年代文化がまだぷんぷんと残っていた時代にハイティーンを過ごした。

そこには当然、ロックがあり、マンガがあり、アニメがあり、文学があった。それらをいちいち書くのは恥ずかしいので今回はスルーするが、毎日これらに囲まれた生活を送るのは、当時はすがるものが欲しかったので仕方なくそれらに囲まれていたとはいうものの、あれは僕にとっては明らかに「イバショ」だった。

具体的には、パブリック・イメージリミテッドやギャング・オブ・フォーをイキガって聞き、大島弓子を読みあさり、ガンダムをセリフの一つひとつを覚えるようにして見、そしてドストエフスキーをガシガシ読んだ。

高校生の頃、僕は友達が一人もおらず孤独だったが(現在の孤独は楽しいが当時の孤独は寂しかった)、何かに「囲まれて」はいた。そして、その何かを受け止めてばかりではなく、反発したり真似したりしていた。
それは今から思うと、のちに大学で文芸部に勇気をもって入部し、先輩たちにしごかれることになる、プチ練習になったのだと思う。先輩たちと会話するかわりに僕は、清志郎に語りかけ、エドガーとアラン(萩尾望都)に共感し、青ジャケ・ルパンを10回は見た。

当時は孤独で孤独で仕方がなかったけれども、今から思うと、あれは「文化というイバショ」という空間に包まれていたのであった。

■「鼠と僕」のイバショ

この前、北海道・札幌出張のついでに旭川に行き、初めてきた場所なのに、なんだかすごく懐かしく、落ち着いた気持ちになった。
帰ってきて気づいたのだが、そこから北に100キロ以上行ったところに、村上春樹『羊をめぐる冒険』のラストの舞台があった。あの、「鼠」と「僕」が最後の対話をする山小屋がある場所だ。

今から思うと、この第一長編(最初期2作をのぞく)から村上春樹は、「生と死のあいだ」に執拗にこだわり続けた作家だった。
『羊をめぐる冒険』のラストが僕に与えた衝撃は計り知れない。僕、というか、ハイティーンから20才にかけて「自分にとってのイバショ」を執拗に求め続けていた僕にとって、という意味だ。

当時の僕にとって(それはすべてのハイティーンとってと言い換えてもいいのかもしれないが)、生と死は非常に近く、それをつなぎ、そのふたつが会話し、結局は「生」に戻ってくるその物語は、僕を落ち着かせた。鼠には悪いけど、僕は結局「僕」の側についたのであった。

この手の小説は世界中にあふれており、『羊をめぐる冒険』もその一例にすぎない。が、それは僕にとっては明らかに抽象的なイバショではあった。

現代において、また現代のハイティーンにとって、僕にとっての『羊をめぐる冒険』のような存在は何なんだろう。最近僕の日常は「戦略」とかのしょーもない仕事ばかりなので、めっきり疎くなってしまった。まさか、西尾維新じゃないよなあ。★