イバショ〜安心と責任と自由(youtube動画①)〜淡路プラッツ20周年シンポジウム①基調講演


■無事開催できた!

昨日の連続シンポジウムの1回目は無事開催することができ、会場も無事満員となり、僕はものすご〜く安心した。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。

3回連続シンポジウムの1回目は、事実上のゲストは一人(松山廉さん/京都若者サポートステーション・統括コーディネーター)で、あとは僕・石田(プラッツ事業責任者)・井上(プラッツ新人スタッフ)という「年の差一回り違いプラッツトリオ(48才・30代半ば・20代前半)」が占拠してしまうという強気の布陣だったにもかかわらず、たぶん話は盛り上がった。

僕以外の三人からは、それぞれの現場から報告していただいた。主な対象は、松山さんはニート、石田はひきこもり、井上は不登校ということになる(松山さんはヤンキーにも強い)。

僕は、たぶん僕にしかできないであろう「臨床哲学」チックな話をした。それは下のyoutube動画にもあるとおり現代社会の中での「イバショ」の位置づけの話と、当ブログではおなじみ「変な大人」の話が中心だった(それにしても昨日も「変な大人」話は盛り上がった。マジで本にまとめてみようかな)。

■安心=家族、責任=仕事、自由=イバショ

iPhone5の固定画像ですみません。全部で25分あるため、この①は9分。②と③は近日アップ予定。
①の冒頭3分程度に全体の要約をしゃべりました(碓か……)。

基調講演は全部で25分もあり、youtubeへのアップロードに時間がかかることから、今回は最初の9分しか貼り付けていない(随時アップしていきます)。
ただ、動画は見るのが疲れるから、以下、文字でまとめておこう。

こんなシンプルなことを基調講演ではお伝えした。

多くの人間は3才頃まで世界は「家族」のみであり、フロイト的葛藤はあるにしろ、その空間は基本的に「安心」要素で満たされている。

だが、すぐに家族以外の他人に取り囲まれ始める。その他者の世界には、「責任」的要素が含まれている。
大人になるとその責任的要素は「仕事」と呼ばれ生活の大半を占めることになるが、子ども時代はそれは「学校」と呼ばれている。

けれども実はその責任=仕事/学校の裏側にくっつくようにして、息抜きの要素が存在している。
それが、「イバショ」である(このイバショは一般化されており、単なる「居場所」より
も理念的で幅広い意味を持つ)。それは「自由」の要素を含んでおり、90年代前半までは我が国の仕事/学校にもべったりとくっついていた。

が、世界的経済変動(グローバリゼーション化)を主とした原因として、仕事の裏側にあったイバショが壊滅してしまった。仕事/学校は責任のみで表象され、その裏側にあったイバショ=自由はなくなってしまったのだ。

具体的には、非正社員の増殖と研修対象・期間の狭小化(それまでは非正社員は少数派であり研修期間は長かった)、社内でのレクリェーション比率の低下、学校内ではサークル/クラブ活動への敷居の低さ(と同時に退部しやすさと容易な孤立化)などとなって表れている。

イバショがなくなった結果、我々には、家族=安心と仕事/学校=責任だけが残った。
家族が残ればいいじゃないかという指摘があるかもしれないが、家族だけでは人間は息抜きできない。家族は家族で濃密な空間なのだ(その証拠に、さまざまな事件は家族間で起こることが多い)。
家族と仕事のみの社会、これは非常に息苦しい社会でもある。

■それぞれがイバショをつくろう

これを箇条書きで書くとこうなる。
90年代前半までは、

1.家族……安心
2.仕事/学校……責任
3.イバショ……自由

の3要素がバランスよく我々を取り囲んでいた。
ところが90年代半ば以降、3のイバショが消失し、

1.家族……安心
2.仕事/学校……責任

だけになってしまった。我々から息抜き/自由が消えてしまったのだ(強いていうと、Google的大企業のオフィスや食堂には残っているかな)。
これは窮屈な社会だ。だから、淡路プラッツのような自由なNPOに対するニーズがある。
だから、自由なイバショに棲息する「変な大人」が子ども・若者たちから歓迎される。

以上に加えて、つ僕が昨強く日訴えたのは、このようなことに共感できる大人は、それぞれの地元で「イバショ」をつくってほしいということだった。
グローバリゼーションに破壊された我々の社会には、自然なかたちで「イバショ」は復活しない。
このようなことに自覚的な大人たちのみが、イバショを復活させることができる。

これは、NPOをみなさんつくりましょうという話ではなく、それぞれの職場的なところや学校的なところに「イバショ」的自由空間・時間を少し挟んでやるだけでいいのだ。

それは一見バカバカしくて大人気ないことかもしれないけれども、そのような「イバショ」がなければ我々人間は疲れきってしまうのだから仕方がない。

家族と仕事だけでは人間は疲れきってしまう、人為的にそれぞれのイバショをつくろう、というのが今のところの僕の結論だ。★