よりハードにそのセカイにひきこもった〜エヴァンゲリオンQ〜


■永遠の思春期ループワールド

『エヴァンゲリオンQ』がついに公開された。僕は3日目に見に行ったが、平日のマイカル・シネコンだったため、客の入りはガラガラ、のんびりゆっくりと見ることができた。のんびりゆっくり、子どもの声や若者の雑談に気を取られることなく、映画にのみ意識を集中できる環境だったのだが……。

残念ながら、開始30分くらいから僕の意識は映画を離れ始めた。そのあまりの古さ、世界の固定化、作家性の枯渇に唖然としながら。

話題の冒頭6分バージョン。この迫力に騙されるとあとでしんどい。

2ちゃんねる等ですでに様々な議論があるが、僕はこの『エヴァQ』は駄作だと思う。前作の『エヴァ破』がエンタメ作品としては優れものだっただけに(詳しくは当ブログ記事「エヴァQ」は駄作だろうhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/09/q2.html参照)、この2本の格差は驚愕ものと書いてしまってもいいと思う。

庵野監督は、やはりエンタメに徹することはできなかった。それどころか、90年代のセカイ系の泥沼に囚われたままだということをこの『エヴァQ』で露呈してしまった。「本当の死」を『千と千尋』で描いた宮崎駿とは異なり、永遠の思春期のループワールドを庵野は生きている。それがあまりに痛々しい。

■究極のセカイ系

ストーリーはあってないようなものだ。地球どころか、たぶん全宇宙と全次元の生成と滅亡に、2人の人間(シンジ・アスカ)と1人の「使徒」っぽい存在(カヲル)と1人のクローン(レイ)と謎の生命体(マリ)が関与するという話。
物語の後半はこの傾向が徹底され、特にはじめの4人(シンジ・アスカ・カヲル・レイ)のアングラ劇を見せられているような気になる。これは大学の演劇研究会か? と突っ込みながら僕は見ていた。

エンタメに徹しない庵野が寄ってたつ物語構成パターンは、例の「セカイ系」で、主人公の日常のあり方が全世界と全宇宙の運命を決めていくというものだ(詳しくは当ブログ記事決断主義と若者http://toroo4ever.blogspot.jp/2011/08/22.htmlなどを参照)。

が、セカイ系はセカイ系でも、ここまでスケールが大きなセカイを、ここまで少人数の人々がすべて握っているという話はかつてあっただろうか。そりゃまあ、たとえば「ぼくらの……」や「グレンラガン」などもかなり大きめのセカイ(宇宙)ではあったが、まだセカイ系としては恥ずかしがっていたというか、奥ゆかしかった。言い換えると、それらのセカイ系作品そのものが、パロディ作品でもあったのだ。

■「スモールステップ」の揺り戻し

しかし『エヴァQ』はパロディどころか、直球でセカイ系している。まるでそれ以外に世界がないごとく、セカイ系で推し進めてしまった。まるでこれは、ひきこもり青年が外に出ていくどころかよりハードにひきこもりはじめた状況に似ている。

『破』でせっかく自己の世界を破って他者の世界とつながり始めたというのに、数年たって出会ってみると、なぜかよりハードにひきこもっている。
『破』のエンタメワールド(他者が前提となった世界)が居心地悪かったのか怖かったのか、以前にもまして自分のセカイにひきこもってしまった。
ひきこもり青年が社会化していくときによく陥る、このような「スモールステップの揺り戻し」と『Q』が僕には重なって見えた。

だから「駄作」というのはやはり少しかわいそうで、「社会参加(エンタメ化)していく過程での揺り戻し作」という点から、「労作」あるいは「習作」といったほうが近いか。

だがこれは次に傑作が待っているという意味での習作ではなく、傑作を求めているがそこには届かず、永遠に作品を作り続けるのみという意味での習作に近い。
90年代で死滅したはずのセカイ系価値を結局は出ることができないその物語世界という点でも、その「永遠の思春期ループ」こそが『エヴァンゲリオン』の本質だったといえるだろう。

そもそも今回の新シリーズは反復やリフレインがテーマであると最初からわかっていたが、その反復は、やはり「思春期の反復」だったということだ。これは引き続き多くの人を捉えるが、僕のように離れていく人も多く出現する、メルクマールの作品となるだろう。★

ミサトさんの「サービス、サービス〜」も虚しく……