投稿

1月, 2012の投稿を表示しています

橋下市長「過剰なコンセンサス」批判と、「ソーシャル」ブーム

イメージ
■敵は「過剰なコンセンサス」

NPO関係者なら想像いただけると思うが、来年度に向けての委託事業募集のシーズンが少し前から始まっていて、この頃の僕はそうした企画書にかかりっきりになりつつある。
けれども体調のことがあるので無理をしないようにしており、そうなるとこのブログがあとまわしになってしまう。
だから今回は手短に。橋下大阪市市長の「敵」がどうやらはっきりしてきた。それは、池田信夫さんの言う「(日本社会における)過剰なコンセンサス」(http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51768741.html)ということになるらしい。他のブロガーの方も市長についてこの言葉は使っているようなので、「過剰なコンセンサス」は静かなブームになっていくかもしれない。
橋下市長が本当に我が国の「過剰なコンセンサス」を敵にしているのであれば、それは僕が長年苦しんできたものでもある。 僕はどちらかというと、「自分の中の多様なコンセンサス」に苦しんできており、そうした「他者の声」を聞きすぎて一時期身動きがとれなかった。そこから解放してくれたのが、実はデリダだったりする(『法の力』とか)。

■シーシャル=わたしたち
僕のような哲学的あるいは文学的悩みはさておき、日本社会の「過剰なコンセンサス」に悩んでいる人は数多いだろう。
けれども我が国の恐ろしい(というか深遠な)ところは、そうやって過剰なコンセンサスに悩んでいる人でそこから脱出したいと思っていたとしても、いつのまにか別種の過剰なコンセンサスに取り込まれてしまう、ということだ。 たとえば今の維新の会ブームもその一種かもしれない。
また、『ソーシャルシフト』や『ソーシャルデザイン』といった本が最近よく売れており、僕も買って読んでみたが(書評は時間ができてからあらためて書きます)、東日本大震災を通過して、我々の国はどうやら「社会=ソーシャル=わたしたち」という方向に向かい始めたようだ。
そうすると、たぶん、同時にあの「過剰なコンセンサス」もどんどん出現するだろう。それらはいったいどこに向かうのか。いずれにしろ今は転機ではある。 企画書執筆に戻りまーす。★

※これを書いたのが12年1月だから、わずか半年前。
現在は、過剰なコンセンサスはそのリジッドさを残しつつも、「シェア」という軽やかなエートスで置き換えら…

バイターンとレイブル〜モノではなくシステムが提案される10年〜

だいたい当ブログは1日平均50〜100アクセスなのであるが、前回の「レイブルはなぜ炎上するのか」(http://toroo4ever.blogspot.com/2012/01/blog-post_20.html)は、アップして2時間くらいで500アクセスになり、その日だけでも700アクセスくらいまでいった。これがどれほどのペースなのかイマイチわからなかったが、Facebookの中の某ブログ達人の方の書き込みによると、その人は1日平均100アクセス、アップした日は1500アクセスらしいから、僕のアクセス数もブログ初心者の割にはまあまあの数みたいだ(それともプチ炎上だったのかしら)。
ところで、青少年自立支援のジャンルは、一福祉ジャンルではなく、この国の「つくりかえ」に属するジャンルだと僕は思っている。 具体的には、超少子高齢化社会に突入したにもかかわらず、前世紀後半の少子化以前の社会システムを変革できずにいる我が国において、その矛盾が先鋭化して現れているジャンルだということだ。
引退世代への年金支払い額を減額することもできず、かといって現役世代を増加させることもできず、高度成長期に設計した社会システムを延命させつつ根本的変革ができない国。ひとことで言うと、それが今の我が国の姿だ。
若者の自立支援は一福祉ジャンル、言い換えると一マイノリティ支援のジャンルではないと僕は思う。若者が今より多く社会参加して税金と年金を負担し、そして結婚して家庭を持ち子どもをつくり、同時に女性とシニア世代が税と社会保険を支払うことで超少子高齢化社会を下支えし、これから約50年過ごす。
今の団塊ジュニアが徐々に亡くなっていっているであろう50年後(僕のような新人類世代は消滅している)、人口構成はやっと上から下まで(第三次世界大戦のような異常事態がない限り)標準化したものになるだろう。 それまでの50年をいかにつくり、どう快適に過ごすか。そのためにどんな社会設計ができるか。2012年からの10年くらいは、そうしたことが問われるかなり重要な10年になる。
その10年において重要なことは、新しい社会システムの提案・構築や新しい社会階層の発見になるのではないかと僕は思う。この10年においては、前世紀後半の80年頃(当時は高度資本主義などと呼ばれていた)から00年代頃まで続いた「新しい製品(たとえばテレビ・電子レンジ…

「レイブル」はなぜ炎上するのか〜「咲く」ことは「よいこと」ではなく「気持いいこと」〜

どうも「レイブル」の評判がネット上で悪いらしい。だいぶ「炎上」しているとのこと。たぶん2ちゃんねるあたりだと思うのだが、僕はまだ確認していない。が、レイブルという言葉が出現した時から、この事態はある程度予測できた。
レイブルとはレイトブルーマーの略で、「遅咲き」という英語が元ネタだそうだ。ネーミングした側は社会参加できていない若者に対して非常に温かい視線を持っており、ニートという言葉が世間では否定的に語られていることから、ニート以外の言葉が模索されていた。 そこに、昨年11月の「ニート100人会議」で出たレイブルという言葉がちょうど重なり、この言葉は生まれた。
名づけの経緯はそうしたもので、元々はニートに関連するネガティブな印象を減らしたいという意図から来ている。
では、レイブルの何が反感を呼ぶのか。 それは、遅いにしろ早いにしろ、「咲く」ことそのものは「よいこと」であるという価値が、その言葉にはあらかじめ含まれているからだろう。どちらにしろ咲かなければならない世の中なのであれば、咲くことにともなう苦労は変わらない。 いずれにしろ咲くこと自体(つまり仕事をするということ自体)は求められており、「咲くこと」=「よいこと」だという価値は不動のものとしてその背景にはある。
レイブルという言い換えは、「咲くこと」そのものまで深く問い直さず、咲くことはよいことであるという事前の了承はそのままにしている。そのことを「遅咲き」といった言葉のマジックでごまかしてほしくないというのが、ネット上での炎上という匿名の抗議であると僕は推察している。
この匿名の抗議についてはもっともであると僕は思う。これについては、2つの視点からより深く考察することができる。
1つは、咲くことそのものを問い直さないことに抗議している人の内面において、さて、咲くことそのものに実は憧れている部分はないか、という点だ。実は咲くことに憧れながらそのこと自体を隠し、「咲くことそのものはそれほどよいことではない」という価値の転倒の操作をしていないか。
これはいわゆる、例の「ルサンチマン」という操作でもある。このような内面の価値操作(憧れている、その憧れの対象の美点を内的に変更する)は人間であれば誰でも行なうもので、それほど珍しいものではない。 ポイントは、そうしたルサンチマン操作を自分は行なっているかもしれないと知っていれば、「炎上」まで…

理念には理念で〜橋下市長Twitter→内田樹氏を見て〜

1/13、橋下徹・大阪市市長が、哲学者(でいいんですよね)の内田樹さんをTwitterでさんざ批判していたので何となく読んでみた。中身は1/13付けこちら(https://twitter.com/#!/t_ishin)を参照してほしいが、橋下氏の意見は徹底していて、それをひとことで言うと、「何もやらない学者はごちゃごちゃ言う前になにか一つでもやりなさい!」ということになる。
僕は新聞等での内田氏の文章を読んでいないので何とも言えないが、とにかく橋下市長はこうしたアカデミズム的抽象論には徹底的に抗議するようだ。その、「言う前にやれ」という批判はとてもわかりやすくて、この人が一般受けする理由もよくわかる。
僕は、内田氏のような哲学畑の理念トークと、橋下市長のような現実的政策トークと噛みあわせることは、ある意味「技術」の問題だと思っている。 橋下さんもおっしゃるとおり、学者は(特に文系の学者は)行動が伴わないことが多い。だが、「なるほど〜」と思わせる理念を時々学者たちは語ることがある。逆に橋下さんのような日々現実のぐちゃぐちゃに揉まれている人は、刺激的な政策論は全面に出すものの、それを支える理念を隠すか後回しにすることが多い。
本来は、理念の提示と政策の実行は同じコインの表裏だから、理念系と政策系は組み合わせ方によっては非常におもしろいコンビとなる。 規模はものすご〜く小さくなるけど、たとえば淡路プラッツでいうと、僕は典型的理念の人で、支援の実践もできるものの、病気以降はあえて自分の仕事は「理念の提示」だと絞り込んで日々動いている。
けれども理念だけでは人もモノもお金も動かない。この理念に基づいて動かしくてくれる人が必要になる。プラッツで言うと、I統括リーダーをはじめとしたスタッフたちがこれにあたる。 理念・戦略は代表の仕事、それを現実化するための様々な仕事は統括リーダーやスタッフの仕事と役割分担してここ半年は動いてきた。プラッツのような未熟な組織でさえこんなふうに動いているのだから、普通の会社や組織はもっとシステマチックに合理的に動いているのだろう。
だから、理念に反論するときは、やはり理念でぶつかる必要がある。逆に、政策実行に反論する際は、政策実行のフェイズで語らなければいけない。理念と実行は互いを補うが、それぞれの立場はまったく別の面に立っているので、議論は決して噛み合わない。
頭…

パリと大阪、その「直感的」大きさ 『体制維新——大阪都』橋下徹・堺屋太一/文春新書

イメージ
郷里の香川県から大阪に戻ってきたはいいが、今日までに残された冬休みを、居心地の良いマンションになんとなくひきこもって過ごしてしまった。明日から仕事始めなのでぼちぼちエンジンかけるか、でも張り切り過ぎると再発が恐いし〜などとうだうだしつつ、昨日地元の紀伊国屋にぶらっと寄ってみると、前から気になっていた『さよなら! 僕らのソニー』(立石泰則/文春新書)がまだ1冊残っていたので購入した。 で、その横に並んでいた本書がちらっと目に入り、休み明けエンジン再点火にはちょうどいいかと思ってこちらも購入した。
同書は、ふだんテレビや雑誌ではインパクトはあるが散漫な印象のある「大阪都」構想がまとめられているという点ではわかりやすい。 大阪都とは、つまりは「21世紀の日本のあり方」を示すひとつのモデルだ。現在、世界的にすすめられているという「都市の再構築」の流れに日本も乗り、そのモデルとして大阪の創り変えを二人の著者は提案している。「よいことも悪いことも大阪から始まる」と1章の小見出しにあるとおり、「よいこと」の見本として大阪都は示される。
言い換えると、グローバリゼーションの奔流のなか、日本は都市戦略で生き残っていくべき、という著者らからのメッセージでもある。このように見ると、メディアの飛びつきやすい教育改革等の話題は傍流だ。著者らは、グローバリゼーションに対するこの本質的な一提案をもっと全面的に押し出すべきだと思う。 僕の知るかぎり、グローバリゼーションに真正面から(つまりは「政治的実行力」を伴いながら)向かう力は、今のところ日本にはこの動き以外にない。
グローバリゼーションに臨む際、「大阪」がひとつの武器になる。このことを著者は(特に橋下氏は)「直感的に」気づいている。僕はこの人は、たくさんの長所を(そして短所も)持っている人だと思うが、その最も特徴的な点は、「直感」力に長けているという点だと思う。たとえば教育改革について、このようなくだりがある。 「僕は直感で、大阪府民は自分の地域の学力状況を知りたいはずだと感じていました」(p77)
何気なく使われているこの「直感」に、氏の特徴がすべて集約されているように思う。大阪都について、堺屋太一氏の力技を借りてまで大々的にかつ詳細に説明し尽くしてはいるが、そのエネルギーの源は、おそらくこの「直感」から来る「今の日本には大阪都しかない」という判断なのだ…

4つの行動指針〜淡路プラッツの2012年〜

昨年の11月頃、当ブログではいきなり「キーワードシリーズ」を始めた。それは3回続けられ、1回目は「幸福」、2回目は潜在性、3回目は「大阪」と、かなり突発的に脈絡なく続けられたのだが、あれにはあれで意味はあった。

つまりは、あれらがプラッツの「行動指針」というわけなのであった。
まあNPOなのだから、ミッションがあれば別に行動指針までいらないのかもしれないが、ほら、例の『9割がバイトでも最高のスタッフに育つディズニーの教え方』(福島文二郎/中経出版)に行動指針の重要性というのが結構説かれていて、単純で影響されやすい僕は、「プラッツでも行動指針があったらいいなあ」とずっと考えていたのだった。

長い間考えた末、結局以下の4つに収斂してきた。
そのうちの3つを11月の当欄で紹介したというわけだ。ひとつめの「ニッチャー」は、わざわざブログ記事にしなくてもイメージできるため11月はとりあげなかった。

これは実は、プラッツHP表紙に先月から載っていたりする。このように、プラッツHPは地味〜にマイナーチェンジを繰り返しているので、要注意。
ちなみに僕は、専門業者さんに頼んでHPを一新したいのだが、今のところスタッフたちの反対にあっており、マイナーチェンジ路線が当分続くだろう。このHPは、僕が大病をする前、「ニートによるひきこもり雇用支援事業」担当であり変なアーティストでもあるスタッフMと僕のふたりで大枠を考えたもので、変なアーティストMと元編集者僕のテイストは入っているものの、やはり素人くささは否めない。

だが、HPの更新作業は「ニートによる〜事業」の若者たちがすべてやってくれているから、専門業者さんに頼むよりは、若者たちの社会参加に当HPの存在も少しは役に立ってるだろうから、それはそれで大いに意義がある。

そういうわけで、ここにあらためて、淡路プラッツの行動指針を並べてみよう。

………………

★淡路プラッツ・4つの行動指針
 1.ニッチャ―
   まだどのNPO・支援機関も手を付けていない「隙間」で活動していく。

 2.“潜在性”へのアプローチ
   通常の支援・方法では届かない、“潜在的な層”へのアプローチをしていく。
   たとえば、支援施設に定着しないひきこもり、高校中退後のハイティーン
   ひきこもり/ニート、保護者が年金を肩代わりしている若者など。

 3.「…

船の形を変え違う流れに乗って〜今年もよろしくお願いします〜

みなさま、あけましておめでとうございます。

さて、僕はこの頃本当に思うのですが、我々は21世紀前半という「大きな時代の船」に同船している人たちです。
お互い、好き嫌いや個性というレベルを乗り越えて、今のこの時代にたまたま乗りあわせてしまった「同乗者」だと思います。

そして、一日本に限って見ただけでも、今のこの時代は、激しい変化にさらされている時代でもあります。それこそ100年単位レベルでの変化の時代であるということは誰も異論がないことでしょう。

そこに、我々は同じ船の客として乗りあわせてしまいました。

不思議なことに、我が国では、そうした激しい時代が来ることはとっくにわかっていながら、いざその時代が来てしまうと、そのことはなかったかのように振る舞う国でもあります。

そして、昨年までは何も決定できず、すべては少しずつ変化されつつも大枠では諸問題が先送りされてきました。
たぶん、今年もそうした流れは変わらないと思います。
大きなことは決定できず、集団の空気の中でゆっくりと物事が進んでいく、という流れです。

けれどもそろそろ、そのような流れに乗っているだけでは船が座礁するかもしれないポイントが近づいてきていると言われています。僕もそう思います。

我々がそのど真ん中にいる、子ども若者支援・教育の分野は、その座礁ポイントのど真ん中になる可能性を秘めているし、逆に、新しい流れをつくる起点になることができる分野でもあります。

僕は残念ながら、体力的な理由から、流れのど真ん中にいることはできなくなってしまいました。
でもそれなりにまた復活してはきています。

まずはみなさん、もうすでに座礁ポイントに突入してしまったことを確認し合いましょう。
そしてそのあと、座礁していく悲観論だけを語るのではなく、船の形を変え違う流れに乗り、別の幸福を見つけていく努力をしましょう。

我々にはそうした潜在的力があると思います。
そして、せっかく同じ時代の船に乗った者同士、競争し合いながらも互いにそれが役立つような結果を目指して進みましょう。

これは、支援団体、子ども/若者・保護者、協力協賛団体/企業すべてのみなさんに呼びかけるものでもあります。
こんな小さなブログではありますが、賛同された方は、各々の言葉で身近な方たちに語りかけてみてください。

同じ船に乗っていること自体、奇跡的なことだと僕は思います。チームワークと競争で、この難局を幸福…