2012年2月25日土曜日

アップルの組織へ〜ツリー型からフラット型へ

 おっと、しまった、今週はプレゼンやらいろいろあって、もう土曜日だ。身体が健康になるにつれ、ブログが週一更新になってきた。
 でも、知人たちが言うには、ブログ更新は週一程度がいいらしい。週一程度でひとつのテーマについて少し掘り下げて書くことが効果的だという。ブログというものは、テーマをあまり掘り下げると、ネットという媒体では人は集中しにくいため最後まで読んでくれないのだそうだ。

 改行も頻繁に行ない、いくつかの段落ごとに一行あけ、中身の掘り下げ度もほどほどに1200字程度、更新も週一で、これが人気ブログの秘訣だとか。
 同じ文章でも、掘り下げ度や濃密度でははるかに本物の書籍のほうが濃い。僕みたいに昔の記者時代の癖が治らずブログに慣れていない人は、活字仕事時代のノリであまり改行せずぐいぐい掘り下げてしまうから、よほどの有名人でない限りはなかなか読んでもらえないブログになってしまう。

 そんなわけで今回は、NPO経営論の中での「組織」づくりについて書いてみよう。組織といっても、「もしドラ」みたいな組織行動/組織コミュニケーション論ではなく、ここでは組織体系/システム論のことだ。

 僕はバックボーンが哲学で、特にドゥルーズ好きのポストモダニストだったりするから、ドゥルーズ(とガタリ)が提唱する「リゾーム型」組織を本来ならば追求したい。
 けれども、リゾーム型はあまりにラディカルで現実の組織では使えない(リゾーム型とは、植物の茎のようにあちこちで交差するコミュニケーションをなかば放ったらかしにするかたち、だと思う)。
 だから僕が考えたのは、「フラット型」という組織体系だった。フラット型は代表的な人/機関を中心に、たとえば「人事」「財務」という機能/担当が円を描くようにくっついていく。
 これと対称的なのがいわゆる「ツリー型」で、クリスマスツリーのごとくトップのスター(社長、代表、監督……)から下にいくつも控える階層に向けて指令が流れていく組織だ。現代日本のほとんど組織がまだこの体系だという。

 それぞれのセクション(人事、財務、戦略、事業管理、渉外、企画、広報、ブランド戦略、総務、研修等々に分かれる)をさらに「主担」と「副担」に分かれて受け持つ。真ん中の代表と各セクション担当者のふたりが定期的に会議を開き、議題を提供、決定していく。

 これで来年のプラッツは決定! と思いつつぶらぶら本屋で雑誌を立ち読みしていたら、なんと、フラット型をワールドワイドにとっくに実践していた企業があった。
 それが、今回のタイトルにも書いた、あのアップルだった(アップルの各セクションはまさにワールドワイドだが)。亡きスティーブ・ジョブズは晩年の数年間はこの組織づくりに心血を注いだらしい。図(『Mac Fan3月号より』)のように、いくつかのセクション/機能を代表する上級副社長が真ん中のジョブズCEOを囲んでいる(ジョブズのすぐ上にある名前が今回CEOに就任したディム・クック)。

 さすがジョブズ、亡くなってからも僕に教えてくれるんだ。
 
 そんなわけでネタ元はアップルかもしれないが、フラット型は単純だけれども、かなり魅力的なかたちだ。
 この組織形態だと代表の決定権が過重になるという危険性があるのかもしれないが、たとえば予算いくらまでは各担当に任せるという具合にお金の額で判断と責任のラインを線引きすれば、細かい判断は各担当が行なうことになり、同時に「決定」の訓練にもなる(アップルではなくプラッツみたいな小さな組織の話です)。
 最終決定は代表が背負うものの、フラット型は各レベルごとの責任を意識させることができる。責任とは哲学的には、「他者との関係のあり方」をそれぞれの局面で負うことでもある。責任ないところには他者とのリアルな関係の構築はできないことから、決定/判断/責任をどのポジションの人がどのレベルまで負うのかをシステムとして決めておくことは重要だ。

 おっと、ブログとしては量的に書きすぎてしまったかな。
 でもまあ、今NPOを立ち上げ、少し経営が軌道に乗り始め、規模が拡大してくると(スタッフが3人→5人→8人といったわずかな人数の変化でも「組織」は違う運営方式を求める)、それなりにコーポレートを考える必要がある。
 コーポレートは、大きく分けて「組織」と「戦略」に分かれ、組織はさらに「コミュニケーション」と「システム」に分かれる。
 今回は後者の組織システムの話をしたのだが、規模の変化に伴う組織運営に悩む方々にとって、こうした議論が少しでも役に立てればうれしいです。★

2012年2月19日日曜日

グローバリゼーションに呑み込まれる「ニート」


ここ一週間は入院・手術前に匹敵するほど忙しかった。まあ体調の都合で夜の飲み会はすべてパスだから、1年半前と比べると、忙しいのは忙しかったが、身体にはだいぶ余裕がある。相変わらず11時前には寝て「成長ホルモン」を分泌させ身体ケアは怠りない。
そんな忙しさも、明後日21日火曜日のこのイベント(http://osaka1gan.jp/news/20120116_01.html←貼付け画像ではなくここからチェックを)で一段落。いつもののんびりモードに戻る予定。

この一週間何をしていたかというと、東京日帰り出張で友だちの大学教授と出版社の人と打合せたり、大阪・北摂ネットワークで行政関連の方々(茨木・吹田・豊中・池田・箕面・摂津・島本町等々、ほとんどすべての関係者にお集まりいただいた)と青少年支援について語り合ったり、コネクションズ大阪のセミナーで久しぶりに親御さん相手にしゃべったり(40名もの参加!)、まあ病み上がりの身にしてはわりとハードだったのだ。

それらすべての方々から出た話ではないが、この一週間の忙しさのなかで、重要なことがぽつぽつ話し合われた。何を話したかというと、タイトルにあるように、「ひきこもりやニートといった各論は、『若者問題』という大きな枠組みに呑み込まれつつある」ということだった。

ひきこもりやニートといった一つひとつの問題に拘泥できないほど、猛スピードで事態は展開しており、それは今のところは「若者問題」というしかないのではないか。
現在展開している「事態」の内容そのものも、若者問題として大雑把に語らざるをえない現状そのものも、いまのところは踏み込んで語る余裕は誰にもない。とにかく、「もう『ひきこもり』や『ニート』といった言葉が、今進んでいる事態に追い越されているよね」といった感覚論でしか語れない。
この話題が、ここ一週間でお会いしたりFacebookで語られたりしている中に頻繁に登場した。これは僕は一過性のことではないと思う。
このような感覚の背景にあるものは何か。とりあえずは以下の二点が考えられる。

1.超少子高齢化社会が始まってしまった

 20年前から危惧され続けていた超少子高齢化社会がどうやら始まってしまった。団塊の世代が引退し始め、今まで以上の年金財源が必要になる。だが、当ブログでも度々言及するように、年金制度のドラスティックな改革は「過剰なコンセンサス社会」である我が国では無理だ。
 そうなると、60代はとりあえず働くことが常識となり(あるいは人は一生何らかのかたちで働き事実上の「同世代負担」年金となるか)、専業主婦はいなくなってすべての現役世代女性が働き、そして若者は今以上の就労支援を受けつつ働いて年金と税を払う。

 だが、ニートではなくフリーターになった若者でも、その何割かは団塊世代以上の親が年金を肩代わりしている。僕はいろんな専門家に聞いているが、現在、日本中のどれくらいの親がどれくらいの子どもに総額いくらの年金を肩代わりしているか、どうやら統計はとられていないらしい。
 親は世間に内緒で子どもの年金を肩代わりしている(僕が親でもそうするからこの行為は当たり前だが)。ニートとひきこもりはもちろん、子どもが非常勤雇用であっても、事実上の社会参加をしていない若者が大量に隠れて存在している。
 これにより我々は、「若者問題」全般が、ニート/ひきこもりといった各論を呑み込んでいる感覚を持つ。

2.グローバリゼーションが若者を呑み込んでいる

 僕は経済学者ではなく一介のカウンセラー兼哲学オタク兼弱小NPO経営者だからよくわからないけれども、どうやら10年以上前から危惧されていた「グローバリゼーション」の大嵐がついに我が国を呑み込みつつあるのではないか。
 ユニクロの工場は中国からバングラデシュに移動し、タイの洪水により家電メーカーが軒並み赤字に陥ったことと、日本国内で非正規雇用労働者が30%を上回ったことは、どこかで直結していると僕は思う。製造業が世界展開していることと国内労働者の構成が急激に変化していることはリンクしていると言い換えてもよい。
 そして国内労働の70%はサービス業であり、それは単純なマニュアル業務か複雑な専門業務かに分かれる。前者は当然非正規雇用であるが、そのマニュアル業務にもわりと高度なスキル(仕事の基本〜ホウレンソウや器械の扱い等〜は当然のこと、コミュニケーション技術や専門技術も現代のバイトは覚えなければいけない)が求められる。
 その現代のバイトレベルに達するだけでも、スモールステップを踏んだ職業訓練が必要だ。ニート/ひきこもりはもちろん、それ以外の非正規雇用(何しろ大卒の30%はバイトだ)も必死になっている、非正規雇用の平均水準技量を獲得するために。
 こうしたことにより我々は、グローバリゼーションに必死に対応している若者すべての問題が、ニート/ひきこもりといった各論を呑み込んでいる感覚を持つ。

 どうも僕には、この過剰なコンセンサス社会が、もうひとつの特徴である「臭いものに蓋をし出る杭を叩く」傾向を加速させているように思えるのだが……。
 だから自然とプラッツは、この傾向に対して向かっていくことになります。★


2012年2月11日土曜日

「いいじゃないですか、萌えるなあ」〜僕にとってのニコ動出演は、「公開面談」だった

はあ、やっと、某委託事業企画書を執筆し、他の書類も揃えて昨日(受付初日!!)提出した。
委託事業の受付初日に敢然と提出するのが僕の美学で、それは当然、行政関係者の方も、そしてプラッツスタッフも誰も知らない僕だけの美学だ。

スタッフなどは、毎回、「締め切りまで何日もあるんだから、そんな強迫性障害みたいに(まあ僕は十分強迫くんなのだが)初日に持っていかなくてもいいじゃないですか」という表情で僕を睨んでいる。特に、総務・財務関係スタッフは僕を睨みまくりだ。

けれども、スタッフ君/さんたちよ、この、受付初日に提出するというスッキリ感を、みなさんも一度は代表として味わってみればわかる。
そのために、連休明けにでも代表職を3泊4日でレンタルしてもいいくらいなのだが、初日→ばしっと提出→その事業への気合い発露→気持よく連休→そして気持ちよく来週へと突入→そしてそして、これが一番大事なのだが、超気持ちよくプレゼンに臨み、居並ぶライバルNPOたちと競争する闘争心がメラメラとわいてくるではないか!!

以前このブログにも「ネットワークと競争」(http://toroo4ever.blogspot.com/2011/10/blog-post.html)として書いたように、社会を少しでも住みやすいものとするという大ミッションのもと、各NPOは「ネットワークと競争」という矛盾した運動に常に晒されている。

その緊張感が、さらによい社会的サービスを生んでいく。ポストモダン社会のなかで、フランス哲学者のドゥルーズが「器官なき身体」とよんだ流動的な社会体の代表格は、もしかすると株式会社ではなくNPOかもしれない、などとこの頃の僕は思っている。
そんなわけで、亡きドゥルーズの意思を継ぐためにも、僕は委託事業の書類を受付初日提出するのであった……。意味不明か。

前回のブログで予告したように、2/6、無事Ustreamとニコニコ動画に初出演した。
その中身は貼りつけた動画で見ていただくとして(1時間半もありますが)、収録が終わって僕が考えたことは、今回のタイトルにもしたように、「ああ、たとえ面談の現場を持つことができなくても、僕は映像という媒体で『公開面談』を行なうことができるなあ」という、番組主催者の狙いとは全然別のところでの大きな納得なのであった。

今回ブログタイトルの、「いいじゃないですか、萌えるなあ」という僕の発言は、番組開始より14分50秒あたりで飛び出す発言だ。これは、レイブル子ちゃんだったかな、2ちゃんねるユーザーあたりがつくったキャラに対して、「批判」とは捉えず、ある種の「照れ混じりの評価」だと僕は受け取り感心した末の発言なのだった。

僕はこのように、基本的にオタク心、そしてひきこもり心を愛する。というか、僕自身、オタクでありひきこもりそのもののメンタルを持っていると思う。だから、ルサンチマンも交えた彼ら彼女らの複雑な心理が自分に重なるようにわかってしまう。
そのため、基本的に大肯定してしまうのだ、ひきこもりやおたくというメンタリティーに対して。

そういえば、僕は個別面談(カウンセリング)の場でも、このようにして、ひきこもりの青年たちのメンタリティーとシンクロさせて会話する。
だが最近は経営の仕事ばかりでまったく面談をしておらず、「このまま面談せずに次の人生のステージに移行するのかな」と一抹の寂しさを抱いていた。
けれども、このようにしてUstream等の映像メディアを使えば、まるで「公開面談」のようにして、当事者や親御さんを励ますことができると気づいた。

ニコニコ動画では、僕は「オレンジ」(セーターの色)と呼ばれ、時には「神」扱いされていたらしい。これはうれしい。そんなわけで、4月になったら、プラッツでも独自にUstream番組を作ろうかなあと思い始めたのだった。★

2012年2月4日土曜日

2/6(月)19時〜、ニコニコ動画とUSTREAMに出ます

僕は、前回に引き続き、まだまだ某委託事業の応募書類を作成中〜。
でもよく考えると、2/6(月)19〜20時に、ニコニコ動画とUSTREAMという二大ネット番組に出演する予定なので、今回はその宣伝だ。
番組名は、「特別緊急生放送〜レイブルの正体とは?」(http://osaka1gan.jp/news/20120127_01.html)というもので、どうもネットでは評判が悪い「レイブル」について、何人かの出演者が説明を試みる番組だ。僕もその説明する一人というわけだ。



僕としては、レイブルに反発してしまう心情もよくわかる。「言葉の言い換え」にすぎないと言われてしまえば、そのとおりだとも思う。
けれども、言葉の言い換えは、ネガティブな効果(新たなマイノリティの創出)とともに、意外とポジティブな側面もあるということを訴えるつもりだ。

言い換えによるポジティブ効果とは、「言い換えによって一時的に起こる“ブーム”にあえて乗ってしまう楽しさ」とでも言えばいいだろうか、言い換えることで必ず起こる“祭り”のようなものの、その「メリット」だけにあえて便乗してしまうということだ。
マイノリティの、マイノリティ部分をあえて誇張したり隠蔽したりしてしまう戦略は、姑息といえば姑息なんだけど、そうしたメカニズムさえ熟知していれば、これを逆手にとってマイノリティ側のメリットとすることができる、ということだ。

この戦略は、おそらくどんなマイノリティ問題にも含まれている。当ブログでもいつも言及するように、ニート問題は事実はマイノリティ問題ではなく、人口構成上の問題から実は「日本の問題そのもの」だ。
だが、そうした事実が気づかれるまでにはまだ少し(数年?)時間がかかるだろう。それまでに(つまりはマイノリティ問題として位置づけられている間に)、マイノリティ問題として「おいしいところ」をかっさらっていけばいい、というのが僕の考えだ。

あえて、その呼称をダイナミックに受け止め、世間が求める「レイブルらしさ」を演じてみる。おそらくそこには、苦しさと同時に、おもしろさ・楽しさもあると思う。今回貼りつけたCMなども、その誇張性にあえて身を委ねてしまうというのも、ひとつの戦略ではないだろうか。それこそ、大人の戦略。★