2012年3月27日火曜日

当事者の沈黙と経験者の苦しみをつなぐもの 『「当事者」の時代』佐々木俊尚/光文社新書

一部で話題だということなので読んでみた。元本多勝一ファンとしては4章の本多論がおもしろかったものの、全体的には、著者なりのジャーナリズム論が展開されているだけで、僕が最も期待していた、「当事者論の最新理論」とは出会うことはできなかった。

あれは10年以上前になるだろうか、当時の僕は今以上に「哲学」していて(阪大・臨床哲学に入ったばかりだから張り切っていた)、なんでもかんでも徹底的に、根源的に、「土台から」問い直したかった。

その問い直しの一つのテーマに「当事者論」があった。
当時の僕は淡路プラッツに入ったばかりで、その前の個人事務所(ドーナツトーク社という名前だった)で行なっていた訪問活動も並行して展開していた。訪問先は当然、いわゆる「純粋ひきこもり」の青年たちが中心だった。

それとは別に、当時は徐々に「ひきこもり当事者たち」がカミングアウトして、それぞれの体験を語ったり書いたりし始めていた。僕は仕事を通して、そうした方々と日常的に親交を深めていったが、徐々に、訪問活動で日常的に接している「純粋ひきこもり」の青少年たちとは微妙に違う質感のようなものに気づき始めていた。

ひとことでいうと、「自分に対する饒舌度」が、純粋ひきこもりの青年とカミングアウトした青年とは極端に乖離していた。
純粋ひきこもりの青年は、多くの場合自分のひきこもり体験について語らない。自分がどのようにしてひきこもり、ひきこもったあとどういう思いで生活しているか、それは僕や親御さんが知りたいことではあるが、当の青年は一向に語ることをしない。

最初は意図的に語らないのだろうと思っていた。だが長期的にかかわっていくうち、どうやら彼ら彼女らは語らないのではなくて「語ることがない」のだということに気がついた。

ひきこもり支援者であればよく体験することだが、どこからみてもバリバリの純粋ひきこもり状態であっても、自分は「ひきこもりではない」と言い張る青少年がいる。また、ひきこもり体験の「原因」を聞いても、「忘れた」と言う青少年も珍しくはない。
後者はトラウマ論と結びつくと思うが、前者は「当事者とは何か」という問いに直結すると思う。
つまり、「当事者」であればあるほど、そのことがらに関する出来事や説明を、自分自身とくっつけて了解できない。

これは精神分析的に見ると、トラウマ論を中心とした複雑な理論で説明することはできるだろう。
それは割愛するが、現象として、「当事者であればあるほど、その当事者としての出来事(ひきこもりの原因と経過)は説明できない」、つまり「当事者は沈黙してしまう」ということを、訪問活動の中で僕は日々実感していた。

そうした実感と反するように、カミングアウトした青年たちは、自分の苦しい体験を切々と語る。その苦しさは十分共感できるだけに、僕は、訪問活動で出会う「語れない青年」と、カミングアウトした「饒舌な青年」のふたつをどう捉えたらいいのかわからなくなっていた。

ここでは経過とそれを裏付ける理論(主としてデリダとフロイトから裏付けた)は省く。僕は結局、このように結論することで自分の中で折り合いをつけた。
つまり、こういうことだった。
「当事者は、当事者でいる限りは決して語ることはできない。語ることができるのは『経験者』であり、経験者は経験者としての苦しみをもつ。そのふたつを区別したほうが支援する際に混同しなくてよい」

このあと、ここでいう「経験者」たちと少し議論になったが、僕としては後悔はしなかった。当事者も経験者もそれぞれの苦しみをもつ。経験者はその苦しみを語ることができる(それゆえにさらに苦しくなる)が、当事者はそもそも語れない。
なぜなら、同義反復ではあるが、語れない存在こそが当事者=サバルタンだからだ。

当事者の苦しみは、経験者が代表(ルプレザンタシオン)して語るか、まったくの第三者が代弁して語るしかない。
こうして理屈づけたあと、僕は後者(まったくの第三者)として語り続けようと思った。それ以来今に至る。

だが実は、それだけでは片付けられない「何か」が残っていると、僕はずっと思っている。経験者の苦しみと、当事者の沈黙をつなぐもの、それを僕はいまだに探し続けていて、本書にもそのヒントを探ったが、残念ながらなかった。

あれから10年たち、僕も「宿題」にとりかかる時期が来たようだ。そのふたつをつなぐキーをこれから探したい。★

2012年3月19日月曜日

ソーシャル・イノベーションの「集積」

セピア調のiPad(Airが台、Xiも隣)

1.新型iPad

Facebookにもいくつか感想を書いたが、昨日やっと新型iPadを買った。梅田ヨドバシになかったので一瞬焦ったものの、心斎橋アップルストアには山積みしていた。

噂のretina(網膜の意味)ディスプレイは確かに美しいが5分で飽きる(1時間くらい経過すると目が痛くないことに気づき、改めてその素晴らしさを実感できるが)。
その後半日研究して出した結論、それが「アップルのイノベーションとは、新型iPadのような優秀な新製品だけを指すのではなく、それも含んだアップルサービス全体のことを指す」だった。

新型iPad(あるいはiPhone4S)は単なる「美しい窓」でしかない。その窓を抜けた先には、iOSやOSライオンが支えitunesやiCloudで構築された「アップルワールド」が待っている。
たとえばiPhone4Sで写真をとる。それは自動的にiCloudによって僕の持つすべてのアップルディバイスで共有され、それぞれのディバイスに自動的にとりこまれる(これがiCloud)。
ちなみに今回添付している写真も、さっき隣の部屋で充電中の新型iPadを撮ったのが、いつのまにか僕のMacBook Proのiphotoというソフトに取り込まれており、このブログに添付する際に自然とアルバムの一枚として現れる。僕はそれを選択するだけだ。

itunesにしても、過去に僕がitunesで買った大量の曲群がどのディバイスからもダウンロードできるようになった。新型iPadには、以前のようにパソコンから改めて移行させなくても、itunesの曲に関してはクラウド→iPadという流れでダウンロードできてしまう。

素晴らしすぎる。iPadは、これら一連の流れをノンストレスで行ってくれる出先窓口にすぎない。
ジョブズ復帰以前からアップル製品を使用してきたが、皮肉なことに彼が亡くなった今、おそらくジョブズがやりたかったことが完成したと思う。
製品を含んだサービス全体で世の中をゴロっと動かす、というか便利にしてしまう、これがつまりはアップルのイノベーションだろう。

2.イノベーションの「集積」とリジットなタコツボ社会

イノベーションが一新製品の制作だけにとどまらないことは、最近その手の論文には共通して書かれている。
アップルのような技術革新と価値創造にとどまらず、たとえばブルーオーシャン的新市場の創造や、新しい組織のあり方もイノベーションに含め、さらにはこれまで行政が行なってきた仕事を民間が効率的に行なうこともイノベーションにしてしまう議論もある。
それらのなかには「社会貢献」のような従来は福祉や行政が担っていたジャンルが含まれ、利他主義といった資本主義とは真逆の価値がそこには含まれている。

社会貢献〜ソーシャルイノベーション〜利他主義〜新しい資本主義といった価値と理論の提案には、その「ソーシャル」に含まれている二重の意味(利他主義と利己主義)をよく考える必要はあると僕は思う。
利己主義、つまり強欲資本主義といった面も「ソーシャル」はしっかり含んでいるということは押さえておく必要がある(まあ「ソーシャル」の脱構築ということでしょうか)が、今回はそこには触れない。

今回僕が思ったのは、「日本は、このような『ソーシャル・イノベーション』を各地で“集積”していくことで、現在の危機をチャンスに切り替えることができるのではないか」ということだ。

このブログを始める以前から僕は、「臭いものに蓋をし出る杭を叩き、かつ決定できず、過剰なコンセンサスに縛られる」日本社会を根底的に問わずして、今から70年以上は続く超少子高齢社会(その社会になってしまったので「高齢化」の「化」をとって表記することにした)は乗り切れないと思ってきた。
だが、現在溢れる諸論文には、イノベーティブな提言は腐るほどあるが、肝心の「で、その提言は日本で可能なの?」という僕の根底的問いには答えてくれなかった。あのラディカルな池田信夫さんでさえ、そうだ(「池田信夫さんだったらもっと別のやり方ができるだろうに」http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/03/blog-post_06.html)。

どんなにすぐれた提案でも、「臭いものに蓋をし出る杭を叩き、かつ決定できず、過剰なコンセンサスに縛られる」日本社会は決して崩れない。これが僕の確信なのだ。
ここを問わずして、勇ましい提言を並べても、わがタコツボ社会(丸山真男)は容易にそれら提言を吸収してしまう。
自分だけはそうじゃないと思っていたとしても、実はあなたもその社会の一員であり、当然僕もその社会の一員だ。

だからこれは、他人事ではなく、「なぜここまで気づいている僕でも(これはこの社会に適応している人であれば誰でもそうだが)この社会に吸収されてしまうのか」という深刻な問いでもある。

3.青少年支援への応用〜ワールドモデルの構築へ

このように僕はかなりの悲観論者&現実論者なのだが、それを「ソーシャル・イノベーションの『集積』」という概念が打破してくれるのでは、と思い始めた。
つまりは、レッドオーシャン(超競争市場)だろうがブルーオーシャン(新市場)だろうが、それぞれの市場と分野において、民間はオリジナリティ溢れるイノベーションを切り開いていく。製品づくりは単なる「窓」の創作であって入り口にしか過ぎず、いくつかのサービスが有機的に連動する新サービスの構築が、イノベーションの核心である。

ソーシャル・イノベーションは、社会的ミッションを掲げるNPOや企業(「強欲さ」を脱構築した企業群)がその主役になる。いくつかのサービスは、まるでアップルのitunes〜iCloud等の流れ(ソフトの内容ではなくソフトの連関という意味)のようなサービスを描くだろう。

たとえば青少年支援では、支援サービスのスモールステップは大きく分けて「アウトリーチ」「生活支援」「就労支援」に分かれる。また、サービスを受ける対象も、保護者と若者当事者の2つの層がある。
青少年分野というさらに大きな枠組みから考えると、問題の「予防(ひきこもり予防等)」「支援」「社会参加(働き方や家族のあり方の提案等)」などがある。

現在、これらはすべてバラバラに展開されている。分野によってはほとんど手つかずのものもある。
イノベーションは、これら一つひとつををどう開発し、これら一つひとつをどうつなげて魅力的にサービスにしていくかということがテーマになる。
たとえば、アウトリーチの代表である「訪問」と、その先の「生活支援」「就労支援」をどう魅力的なサービスとしてつなげるか。
たとえば、大学中退「予防」と学校や社会のあり方とひきこもり支援をどう魅力的(という言い方がふさわしくなければ、どう「使いやすく便利なサービスとして」)なサービスとして構築できるか。

すべてはこれからにかかっている。僕がこの仕事を始めた15年以上前よりは、各々の「部分としての」サービスは整っている。
僕は病気もして少し弱ってしまった。まだまだ大阪でがんばる気ではいるが、中心は、40才前後より下の若い世代に任せたい。

また、行政や政治は、イノベーションの集積は民間に任せ、やはり大きなシステムの変革を目指してもらいたいと思う。

それら、イノベーティブな「ソーシャルシステム」の集積と変革が、10年後のアジア(おそらく中国の中流から上の3〜4億人社会では、日本と同じような問題が起きると思う)や世界に向けた大きな「ソフト」力として商品になっていくだろう。★
iPadホーム画面拡大(ちょいピンぼけ)




2012年3月15日木曜日

「NPOコーポレート哲学」は可能か

昨日僕は48才になった。確かにこの年になると誕生日にはまったく興味ないが、Facebookの「友だち」のみなさんからおめでとうメッセージをたくさんいただくと、何となくうれしい気分になってくるから不思議だ。
あと、四国の母親と僕は誕生日が同じで、しかもそれがホワイトデーの3月14日だから、その点もだいぶ気に入っている。病気後、僕は母親との時間を大切にしようと思っており、4月からは月何日かは在宅勤務ならぬ「実家勤務」を実行しようと思っているほどだ。

「病気」と書いたが、 僕が脳出血で倒れてからはや1年半たった(詳しくは右欄「200号を転換点として」参照)。当ブログを開始してからも1年が過ぎている。
しばらくはこのブログが僕にとっての最大の仕事だったから、アクセス数をあげようと思ってさまざまな工夫(「橋下知事」や「スティーブ・ジョブズ」のような話題の言葉をタイトルにしたり、立て続けに書評したり)をしたが、この前、なぜかヤフーニュースとリンクされ瞬間風速で1日4000アクセスまでいったあとは気分的にも落ち着いてしまい、アクセス数にもこだわらなくなった。

毎日の仕事がだいぶ忙しくなってきたこともあるが、第一は、僕の身体が本当に「健康」になってきたことで、頭の中がだいぶすっきりしてきたこともある。
そうなると(つまり健康になり頭が冴え始めると)、元々の僕が現れ始めた。
でも心配しないでくださいね。食生活や働きすぎにはかなり気をつけているので、おそらく10年あるいは20年程度はこのままの生活が続くような気がしている。
頭の中が冴え始めたということはつまり、本格的に「哲学スイッチ」が入り始めたということだ。

その哲学スイッチのターゲットはいま、「NPO経営」に向かっている。
思い起こせば15年前、日々の青少年への支援仕事に行き詰まりを感じ、臨床心理学でもない、ソーシャルワークでもない、かなり迷ったが精神分析でもない、とさまよった挙句たどり着いたのが、大阪大学「臨床哲学」だった。

当時はまだ鷲田清一先生が現場で指導されていて、そこに中岡成文先生や若き本間直樹先生ががっちり脇を固めているという、僕にとっては最強布陣の教師陣だった。
加えて、臨床哲学黎明期の当時は社会人院生が半分以上を占めていて、医療や教育の最前線で奮闘する「学生」さんたちのエネルギッシュな議論を毎週聞くことができた。

そのような議論に参加したり、20代の頃からずっと気になりながらも途中で投げていたポストモダン哲学(ドゥルーズやフーコー) を読む読書会に参加したり、フロイトやラカンを哲学的に吟味・精査する小規模勉強会に参加したりするなかで、僕の現場での迷いは徐々に溶けていった。
何よりも、ドゥルーズやフロイトの精読(社会人院生の僕なりには精一杯がんばった)をもとに、PTSDの仕組みを解明しようと奮闘した修士論文の作業を通して、ひとつの区切りを迎えることができた。

修論に熱中しすぎて博士課程申込書類提出を忘れてしまったくらいだから(当時はショックだったけれども、今から思うと現場に早く完全復帰できてよかった)、あの作業は僕の人生の中では最も勉強した1年なのであった。

そんな、30代半ばからの遅れてきた哲学マニアの僕が、大きな病気のあと青少年支援の現場に復帰し、NPO経営の仕事を主にするようになってから1年半がたった。
この間、読んだ本の半分以上は経営関係のものだった。基本的に病気療養生活だったからトータルでも30冊くらいしか読んでいないものの、昔、心理学の本を読んでいて感じた「違和感」を経営学にも感じるようになっている(まあ実は初めから抱いていたのだが)。

心理学ではたとえば「共感」や「受容」は、当たり前の基本的な言葉として解説なしに使われる。僕はそもそも、このような言語群が自明の言葉として流通する世界に疑問を持った。
同じように経営学の一般的テキストには、たとえば「目標」「評価」「組織」「リーダーシップ」「戦略」等が自明の基本的言葉として使われる。僕は、これらの言葉が実はいちいちひっかかる。

経営学は何よりも実践の学問であり、要は「カネを稼いでなんぼ」のための「理屈」なのだから、自明の言葉にはこだわらない世界であることは百も承知の上で、このようなことを書いている。

僕が所属する世界はNPO経営の世界だ。NPO経営にはおそらく、「一般企業と同じスタイルを目指す経営」と、「NPOならではの新しいかたちを目指す経営」の二種類があるだろう。
僕は、せっかくのNPOなのだから、後者の「NPOならではの新しいかたち」を模索していきたい。
そのために、 「NPOコーポレート哲学」があると思う(さっき思いついた造語です……)。これから、当ブログで(もちろん毎回ではないが)展開していきたい。働き過ぎに気をつけながら、ね。★


2012年3月10日土曜日

日本での「ソーシャルシフト」〜『ソーシャルシフト』斉藤徹/日経新聞出版

この本でいう「ソーシャル」は、ソーシャルメディアのソーシャルのことで、具体的にはFacebookの拡大に伴う「シェア(情報共有)」の文化を指す。
ソーシャルメディアを活用した口コミ情報が今以上に威力を持ち、発信側からの一方的な情報コントロールはできなくなる。その(口コミ等の)市民パワーを意識するため、発信側(主として企業)には、社会貢献等の「誠実さ」が求められる。

アメリカではFacebookの拡大とともにこのような「ソーシャルシフト」が起こっているのだろうが、日本ではもうひとつの「ソーシャルシフト」が起こっていると僕は思う。
それは当然、東日本大震災後に訪れた、「ソーシャル」を尊重する雰囲気・空気・エートスを指す。このソーシャルは「絆」という言葉でも表され、またNPOを中心とした「社会貢献」が注目されていることにもつながる。
企業レベルでは、たとえばトヨタが「アクア」のこんなホームページ(http://aquafes.jp/top/)を提供していることにもつながる。

東日本大震災以降、日本では、ソーシャルという言葉を中心に、ソーシャルメディア、社会貢献、ボランティア、情報のオープン化等が速いスピードで展開されている。
欧米(あるいは世界全体)が主としてソーシャルメディアを中心に展開されている「ソーシャル」ムーブメントに対し、日本では時代の転換点のキーワードとして「ソーシャル」はあり、その現実化のひとつとして「ソーシャルメディア」や「社会貢献」はある。

NPOの発展(たとえば認定NPO等)も、そうしたパラダイムシフトとしてのソーシャル化の流れのひとつに位置づけられる。
1990年前後にひとつのピークを迎えた「個人/ポストモダン/バブル/高度資本主義」等の意味の連鎖はすっかり影を潜め、現在は「ソーシャル」を核とした一連の意味連鎖(社会貢献、オープン、フリー、NPO等)が時代の「空気」をかたちづくっているように僕には感じられる。

ただ、「社会」や「ソーシャル」には、本来さまざまな意味が含まれる。
人によっては、「持続可能な」社会や「社会民主主義の」社会等を思い起こすだろう。現在用いられているソーシャルは、どちらかというとこのような「持続可能」的な比較的暖かい意味を指していると思う。

僕は、社会というと時に「強欲」とまで形容される資本主義社会のことをすぐにイメージする。またドゥルーズが『ミルプラトー』や『アンチオイディプス』などで描いた「戦争機会」「リゾーム」「器官なき身体」等の錯綜・複合するコミュニケーション母体のようなものをイメージする人もいるだろう。

現在日本で展開する「ソーシャル」は、かなり暖かみをもったイメージをともなう。当分はそうしたイメージが主流だろうが、そのイメージは常に「強欲」や「複合」などの暴走的・暴力的内実も持つ。
その意味で、日本での「ソーシャル」がどこに実際にシフトすることになるのか、慎重に見守りたい。★

2012年3月6日火曜日

池田信夫さんだったらもっと別のやり方ができるだろうに



今日の午前中は香川県の実家で過ごし、午後から大阪へ移動する。
1年半前の大病(脳出血)をきっかけに、実家での「在宅勤務」(月4日ほど)を4月から取り入れる予定で、いまはその根回し&実験中。いまの僕の立場だと、iPhoneとMacbookairとSkypeがあれば問題なく移行できると思っているのだが、それも4月末になればわかるだろう。

ところで昨日はブログも書かず、下のようなショートエッセイをFacebookに書いてみた。23才でさいろ社(http://www.sairosha.com/index.html)という小出版社を友人の松本君と立ち上げて以来、47才のいま(NPO代表&支援者になってしまったが)にいたるまで、僕は一貫してこんな思いを抱き続けている。


池田信夫さんのブログを見てたら、またこんなある意味「正論」が。
「エネルギー政策を語るビルゲイツ」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51777428.html
このブログには4,600人が「いいね!」してるが、これを「日本人も変わってきたなあ」とみるか、「なんでこんなにも『議論できる』人がいるというのに、日本は日本のままなのか」と嘆くか。僕は後者。
池田さんは丸山真男の本をしきりに書評していたりして、そうした「タコツボ日本文化/エートス」をことさら意識しているというのに、書くものはいつもこうしてとんがっている。
とんがってる人を支持してるが4,600人もいて「これで日本は変わっていくのかなあ」(脱原発の是非ではなく、「議論の積み重ねで根本的な制度/大システムを変えていくことが我が国では可能か」ということです)と思わせながら、実はたった4,600人だったりする。
だから池田さんみたいな人にはこんな「直球」議論じゃなくて、もっと戦略的に日本を変えていくワザを期待しているんだけど。やっぱ、めんどくさいのかな。★


このように、タコツボ社会/過剰なコンセンサス社会/大きな決定ができない社会の世界代表である日本に対して、「決定できる国にしよう」と言ってきたのが、ここ50年の日本のあり方だった。
論者レベルでは丸山真男から池田信夫まで(というか論者すべて)、経営レベルでは盛田昭夫から柳井正まで(というか日本の先端企業経営者のすべて)、市民レベルではこのようなことに関心がある僕のような末端市民も含むほぼすべてがあちこちで文句を言っている。

僕にとっていちばん身近なところでは、さっき実家の70才の母親と長い朝食を終えたのだが、朝から彼女も「決定できない我が国」を嘆いていた。
僕も一緒になって嘆きまくったので二人とも血圧が上がり(母も6年前に同じ病気で倒れている→これまた奇跡的に後遺症がほとんどない)、これは脳血管的にやばいと思ったので、僕はこうして一人静かにパソコンに向かうことにしたのだった。

このように、至極まっとうなことをあらゆる人々があらゆるレベルで嘆き告発してきたというのに変わらない(黒船と敗戦でしか「大決定」できない)国、それが我が国であって、僕にとってはこれが本当に不思議でならない。
僕が記憶している範囲では、ここ35年でまともに議論して決定できたのは「消費税導入」だけなのではないだろうか(あれもよく考えれば竹下流「根回し」かな)。その他、介護保険にしろPKOにしろ小選挙区制度にしろ、全部、「全体的にそんな雰囲気/空気になってきたので何となくそうしよう/そうなった」システム改革だったような気がする。

これがまさに「空気尊重社会」ということなのだろうが、その割にはいつも「決定できる国にしよう」という反対の提案がなされている。
僕などは、自分が「日本語が異常に上手な外国人」なのだと思って生きているので、今回のようなこともたまには書くものの、基本的には「過剰なコンセンサス社会」ニッポンに対して諦めている。

だから、たとえば、4月末からの月3日の在宅勤務導入でも、いまから地味に根回ししたりする。たぶん、丸山真男も盛田昭夫も小沢一郎も柳井正も(男ばかりだなあ)、僕とは全然規模が違うものの、このように「言うことは言うけど、実際はコンセンサスにも目配りする」みたいに振舞ってきたのではないだろうか。

Facebookにも書いたように、池田信夫さんみたいなある意味「覚悟を決めた人」で同時にすごく頭のいい人は、池田ブログにあるような直球タコツボ社会批判をしてほしくない。
もっと戦略的な、過剰なコンセンサス社会ニッポンを切り崩す見本を見せてほしい。

デリダの「脱構築」ではないが、「(多数派の)相手の懐に飛び込み、相手自身が持つ矛盾のキーワードを探り出し、それを相手の文脈の中で暴いていく」方法みたいなものはないだろうか。

ここまで書いてわかった。あ、そうか、脱構築の手法を使えばいいのか。それだったら僕でもできそう。

いまはたぶん、脱構築に使える象徴的言語/矛盾したキーワードは「ソーシャル」だと思う。★(池田さん写真はブログからhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/

2012年3月2日金曜日

青少年支援の「ブルーオーシャン」〜“潜在性”へのアプローチ〜



そういえば21日のイベント(ニート800人集会http://osaka1gan.jp/news/25.html)の出演体験レポートもしないまま、先月から今月にかけて怒涛の10日間が過ぎた。
ああ、忙しいってこういうことだったなあと思いながら僕は何とかすべてこなしたのだが、そうしてのんびりしていると、いきなり当ブログの閲覧数が4.,000を超えた日があった。

それは結局、ヤフーニュース経済版の大阪特集の中に当ブログがなぜかリンクされたことが原因だったのだが、いつもは多くて200くらいの閲覧数が、あれよあれよという間に4,000まで行ったのだから最初は訳がわからなかった(ここにヤフーのバックナンバーがあります→http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=7622656&e=retail)。

取り上げられたブログ記事も、橋下市長の本の書評にパリと大阪の大きさをからませたもの(http://toroo4ever.blogspot.com/2012/01/blog-post_09.html)だったから、いやー、世の中何がきっかけになるかわかりませんねー。

翌日からは見事にいつもの閲覧ペースに戻ったから、寂しくもありホッとした感もあるものの、このネット社会では、何かのきっかけで眠っている「潜在層」とネットワークできる可能性があるんだとまざまざと見せつけられたのであった。

この話題とは直接結びつかないものの、この頃僕は、前にもまして「青少年支援分野の『ブルーオーシャン(未開拓市場)』はどこにあるんだろうと考えている。
ブルーオーシャンは流行りの経営学用語らしく、当ブログの読者は青少年自立支援の現場に関わる人達が大半だと思うので、「市場」といったドライな語感には反感を抱かれるかもしれない(関心ある方は『「ブルーオーシャン戦略」がわかる本』中野明/秀和システム、等をご参照を)。

ブルーオーシャンは二種類あり、それは①まったく新しい市場の創造、②市場の「境界」を引き直すであり、考案者のキムらは②を主としてブルーオーシャン戦略だとする(たとえばスターバックスのような新しいコーヒーショップの「創造」)。

僕は、青少年支援においては、①の困難なブルーオーシャンのほうが有効性があると思っている。わざわざ新しく境界線を引いて市場を再創造しなくとも、青少年自立支援の分野には「手のつけられていない市場=第一の意味でのブルーオーシャン」がそのまま横たわっているからだ。

そうした「①ブルーオーシャン層」(当ブログ・スモールステップ表の①〜③〜スモールステップ支援スケールVer.1.0http://toroo4ever.blogspot.com/2011/12/ver10.html)は数十万人はいると思うが、「年金未払い」フリーターとその家族のニーズまで含めると、もしかすると数百万単位のブルーオーシャンがそこにはあるかもしれない。
ただ、プラッツとしては、真の意味での「潜在的な存在」=支援者とタッチしていないひきこもり層に焦点を絞り込みたいと思っている。年金未払いフリーター(といってもそれはニート層と相当クロスしている)の問題は既存の支援システムの拡大でもカバーできると思う。

「①ブルーオーシャン層」にアウトリーチしていくことは、ひきこもり問題の最大の課題の1つとして昔から位置づけられており、まずは「訪問活動」だろうということで多くの人がチャレンジしてきた。
僕も10年以上取り組んできたが、訪問とその先に続く支援機関といった一連の「アウトリーチシステム」の一環として訪問活動を位置づけないと、なかなか社会参加まで導くのは難しい。

そうしたアウトリーチシステム構築の中に、僕はやはり「保護者」をどう巻き込んでいくかがポイントだと思う。
その際の手法として、たとえば「カフェ」は有効だと思えてきた。哲学カフェやワールドカフェのはやりの流れに乗るように、プラッツも「おやカフェ」を開いてみようかな。

大規模な潜在的市場の存在と、その市場自身から「(潜在的ではあるが)ニーズ」があるという点で、やはりここに絞り込みたい。そのことで、プラッツ自身が、過酷なレッドオーシャン(たとえば地域若者サポートステーションの奪い合い等)から抜け出て、澄み切ったブルーオーシャンに行くことができるかもしれない。★