2012年6月26日火曜日

ポスト「シェアNPO」の可能性〜6/25イベント「シェアNPOとオルタナティブNPO」報告


右から工藤さん・田中・加藤さん(古今堂さん撮影……古今堂さんのFacebook投稿写真より)
■シェアNPOとオルタナNPO

昨日(6/25)、育て上げネット理事長・工藤啓さん、経営コンサルタント・加藤徹生さんとともに、「シェアNPOとオルタナティブNPO」と題したイベントを、関西カウンセリングセンター理事長・古今堂靖さんの進行で行なった。
非常に有意義なイベントで、僕としては、このイベントに期待していた目的をほとんど果たすことができた。

3部構成のイベントで、1部は加藤さんの司会で僕が「シェアNPOとオルタナティブNPO」について語った。中身は当ブログのこの記事この記事に書いたとおりなので参照されたい。
要は、団塊世代が形成する「オルタナティブNPO」に対して、35才前後の団塊ジュニアが起業・経営する新しいかたちのNPOを「シェアNPO」とする。
オルタナNPOは「理念」を共有するが、シェアNPOは、互いの(期間限定の)利益と情報を共有する。そしてシェアNPOは、お互い無理ない範囲で連携していき「ウィンウィン」であることを是とする。


オルタナNPOは理念を共有し「ネットワーク」していくことに対して、シェアNPOは利益と情報を共有して「コラボレーション」していく。コラボは時間限定でもあるので、当初の目的を果たし時間が過ぎるとそのコラボを解体し、次のコラボを形成する。
NPOなので大きな理念(子どもの幸福等)は共有しているものの、どちらかというと「利益の共有」でつながっている。


■育て上げネットの斬新さ


こうしたことを説明したあと、2部は工藤さんが、「育て上げネット」による様々な画期的事業の報告(それらにはいろいろなかたちの「シェア」が見られる)を行なった。
詳しくは育て上げネットHPを参照いただきたいが、あらためてそれら多重的な試みを聞くと、その斬新さ・普遍性に驚く。

少子高齢化社会において、「若者・女性・高齢者」の社会参画は必須のテーマだが、このうち最も重要な「若者の社会参画」に関して、「シェア」(大手企業・NPO・行政などシシェアのパートナーも幅広い)の手法を縦横無尽に駆使する同法人は、若者(特にニート)支援において日本ナンバーワンだと僕は思う。

■問題が「近い」

3部は、それらを受けてこれからの展望を3人で語った。
僕としては、工藤さん世代のNPOの、次の世代(現在25才前後)のNPO、またはその次の世代(現在15才前後)がやがて創業するであろうNPOがどのようなかたちになるかが最も興味があった。

だからあえて過激な調子で、昨日参加していた25才〜30才のNPOの代表の方々に質問してみた。あなたたちは、何を求めてNPOを経営・運営しているのか、と。

失礼なツッコミも多々あったと思うが、それにも負けずに彼らが答えてくれたことから見えてきたのは、ある種の「問題への近接性」「ポジティブな当事者性」といったことだった。

昨日お答えいただいたお二人とも、10代の頃は苦労されていた。けれども、現在NPOの前線で活躍しておられる。
少し前であれば、そうした「当事者経験」は起業や社会貢献には結びつかず、どちらかといえば「自分探し」に結びついた。

半径3メートルの問題意識

だが現在は、表現を恐れず書いてしまうと、すべての「問題」は我々のすぐそば(工藤さんはそれを「半径3メートルの問題意識」と表現した)にある。
不登校・ひきこもり・非行・虐待・ニート、あげ始めたらきりがないが、それら問題の一つひとつは当然深刻だが、それら問題の一つひとつに我々は(そして若い人達は)より近くなっている。
それらは「向こう岸の問題」ではなく、足元にある問題なのだ。

それは「海外」も同じだ。世代が若くなればなるほど、「海の向こう」は近い。ということは、海の向こうで起こっている問題は他人ごとではないということでもある。一つひとつ例は挙げないものの、その「近さ」は世代が若いほどリアルだということだ。

これらは、「当事者性」という哲学的通俗的俗称で呼ぶにはふさわしくない。だがかわりの言葉がまだ僕は思いつかない。
だが、工藤さん世代の「次の世代」に関して、非常に明るい展望を僕は抱くことができたのであった。
そういう意味で、いいイベントだった。★

2012年6月24日日曜日

20年NPOを覆う「空気」


■オルタナとシェアを共存させた人

淡路プラッツは今年で20周年になるが、ここまで何とか生き延びてこられたのは、たくさんの方のご支援が一義的にはあるものの、それはなんというかやはりタテマエであって、その一番の理由は、やはり初代塾長だった故・蓮井学さんのスピリットあるいは亡霊に取り憑かれていたためだったと思う。

蓮井さんが存命中は、そのスピリットがプラッツを引っ張っていった。亡くなってからは、その意志を残された人々が引き継ぎ、そしてその意志はあるときからなぜか亡霊のようなものに変わっていった。

蓮井さんのスピリットとは、まずは「子ども・若者に寄り添い、彼ら彼女らを支援し自立させたい」ということだった。
そのためであれば、蓮井さんが若い頃は嫌いだった「権力」だろうが(そうした意味で蓮井さんは基本的には「オルタナティブ」な人だった)同業のライバルだろうが気にせずどんどんネットワークしていき、互いの情報や支援のノウハウを「シェア」していくことができた。

5月6日ブログ「「オルタナティブNPOと「シェアNPO」に書いたとおり、蓮井さんとは、オルタナティブとシェアの2つの要素を持ち合わせた稀有な人だった。

そうした蓮井さんのスピリットが、彼が亡くなってからもプラッツには綿々と引き継がれ、いい意味でも悪い意味でも、蓮井さんの90年代のエピソードや、それを一時的に引き継いだ井村良英君(現NPO育て上げネット)や金城隆一君(現NPOちゅらゆい)の話はいまだにあちこちでよく出てくる。
それもこれも、蓮井さんが持っていた、「オルタナティブでありながらシェアできる人/団体」というイメージが、ポジティブに残存しているおかげだろう。

■理念と責任

その一方で、経営的に見ると、淡路プラッツの20年の歴史はほとんどが「ボランティア系団体」の歴史だったともいえる(ここでは、理念の指標として「オルタナティブ/シェア」、経営組織の指標として「ボランティア/事業」という対比を用いている)。
10年代になり経営規模がやっと小さな会社並み(社員5名+年間契約社員数名+アルバイトたくさん)になってきたものの、その「ボランティア」系団体の本質はそれほど変わってはいない。


ボランティア系団体にはいくつかの特徴がある。
長所のひとつは、思想や価値の実現化という側面に多くあり、理念が実体化しやすいということだ(たとえば「自己決定の尊重」という理念であれば、その理念の実現を団体の行動指針の一番目に持ってくることができる)。
従業員の経済的利害が絡んでいない分、純粋に理念を現実化できる。


短所は、責任の所在が曖昧になるということだ。
同時に、責任はすべてトップに集中するため、塾長や代表は著しく疲労・摩耗する。そのため、蓮井さんは体調を崩して49才で亡くなり、僕は46才で脳出血になった(僕は無事復帰できたが)。


このボランティア系団体としての長短所(理念の純粋化と無責任体質)を持ち合わせた団体が淡路プラッツでもある。


■「空気」の形成


ここに、日本人独特の「空気」も関与している。
「空気」分析の本はたくさんあるが、最近売れている『超入門「失敗の本質」』(鈴木博毅/ダイヤモンド社)によれば、「空気」は、何よりも日本人が「和」を大切にすることから始まっている。

そうした「和」をもとに、日本人は「体験的学習(の成功体験)」を何よりも重視する(たとえば偶然にホンダのスーパーカブが売れた等)。
それと同時に「一点突破」の正論で全体を覆う(ひとつの作戦が成功すれば全体が成功すると信じる……「一点突破全面展開」)。

プラッツの場合は、理念(オルタナティブであると同時にシェア)の現実化という成功体験が組織を覆っている。同時に、ボランティア系故の無責任体質も共存する。
組織が20年続くということは、このような「空気」が形成されていくということでもある。歴史が積み上がるということは、よいことばかりでもないのだ。

■別の「空気」

東日本大震災後、日本は確実に変わってきた。多くの論者が言うように、おそらくこの150年間のうち今が第3の転換点(明治維新・敗戦に次ぎ)というのは事実だろう。
だからこそいま、NPOはその第3の転換点においてカギを握る組織だと思う。

現実に、これまで予算的にはゼロだったひきこもり関連のジャンルにまだ額は少ないもののお金がつき始めた。
ひきこもり問題とは、既存の行政組織では対応が難しい。また、ひきこもり問題は、潜在的ではあるがマイノリティの問題ではなく、社会の中心を占める問題(労働力確保の問題)だ。

だからこそ、20年続いている淡路プラッツのような団体は、そのノウハウを次世代につないでいくため時代に見合った組織に変化していく必要がある。
そのためには、別の「空気」を醸成する必要(日本の団体なので「空気」文化からは逃れられない)があり、今がその時だと思う。★




シェア型NPOの雄「育て上げネット」理事長の工藤啓さんと僕とで対談イベントを行ないます。
タイトルはズバリ、「シェアNPOとオルタナティブNPO」
6月25日(月)14〜17時、関西カウンセリングセンター 06-6881-0300
詳しくは、関西カウンセリングセンターホームページ
ご関心のある方は同センターにお問い合わせくださいね。




2012年6月16日土曜日

ネットワークではなく、NPOコラボレーション


■ネットワークとコラボレーション

オルタナティブNPOとシェアNPOというこの5月6日のブログで僕は以下のことを書いた。
現在、35才前後の団塊ジュニア世代が次々と創設するNPOはいわば「シェア型」であり、ゆるやかなつながり(ウィークタイ)のなかで情報や価値をシェアしつつ、互いに「ウィンウィン」であることを目指している。
これは、ジュニアの親世代(団塊世代)のスタイルである「オルタナティブ型」(メインストリームとは「別の」価値を提案する)とは対称的であり、この両者がいかにつながっていくかを現実的に検討することも、これからの我が国の社会のかたちを決定するだろう、と。

これら「シェア」と「オルタナティブ」は一つひとつのNPOのあり方を表す言葉だが、ここに、それらNPO同士が「つながっていくかたち」を示すことができれば、さらに一歩議論をすすめることができる。
僕は、この「つながっていくかたち」を検討する際、「ネットワーク」と「コラボレーション」というふたつのつながり方を比較検討すれば、より「いま」が理解できるのではないかと思う。

■ネットワークは空虚

ネットワークもコラボレーションもいずれも使い古された陳腐な表現ではあるが、逆にいうと、いずれの英単語も日本語として十分根づいているということでもあるから、今回のような概念比較する際には逆に使える。

どちらかというと、ネットワークのほうが外来語としては古いだろう。25年ほど前に友人の松本君と僕で「さいろ社」という出版社を起業した頃、ネットワークという言葉は大流行で、どこに取材に行っても誰に原稿を書いてもらってもそこに「ネットワーク」という言葉が踊っていた。
「市民ネットワークを形成し医療システムを監視しよう」「専門家の垣根を超えてネットワークすることが必要」等々、「締め」の言葉として必ずネットワークは登場していた。

当時僕はそうした原稿を毎日のように校正していて(さいろ社だけでははじめは食べていけなかったので大手の医療系出版社で校正のバイトもしていたがそこでも「ネットワーク」は頻出していた)、その出現の多さに辟易としていたものだ。

つまりは、「ネットワーク」はとりあえずの「締めの言葉」として登場するが、それはウィーン会議のように「踊る」ばかりで一向に現実化しない空虚な言葉だったのだ。
とりあえずネットワークと書いたり言っておけば何となくみんながその気になることができる。
けれども、何ヵ月たっても状況の厳しさは一向に変化しない。数ヵ月前のあの「ネットワークの必要性」というスローガンと熱気はどこに行ったんだ? と思いながら何かの論文を読んだり集会に行ってみると、また「ネットワーク」という言葉が踊っている……。

■コラボは利益を生む

これに対して、コラボレーションという言葉は共同作業や協働という意味で、「コラボ」という表現で00年代以降頻繁に登場するようになった。これに関しては説明は不要だろうが、例の「コラボ」という表現は、僕は個人的にはものすご〜く苦手だった。

単にちょっと恥ずかしいという意味で僕は「コラボ」には近づいていなかったのだけれども、世の中には、ミュージシャンとミュージシャン、アートとアート、商品と商品、企業と企業を「つなぐ」言葉として普通の日本語になっている。
業界・人・商品の「意外な組み合わせ」がコラボのポイントのように言われることが多いが、一番のポイントは「利益」の創出だろう。

ネットワークと違ってコラボレーションは利益を生む。その利益が互いをウィンウィンにする。ネットワークは思想的な価値を共有するが、コラボレーションは結果としての利益を共有する。
コラボレーションは、ネットワーク的な価値(思想)の共有がないことに意味がある。違う価値を有した業界・人・商品が、共通の利益(経済・広報等)を求めて一時的に集まり活動する。

■コラボという形態に複数のシェア型NPOが集まる

オルタナティブ型NPOはネットワーク好きなところが多い。逆に、シェア型NPOはおそらくこれからどんどんコラボレートしていくことだろう。
主としてオルタナNPOが集う「ネットワーク」は、基本的価値を深く共有するせいか逆に離合集散を繰り返す。そのためそれぞれのネットワークの「歴史」やエピソードが積み重なっていく。が、それは「踊る」ばかりでなかなか実質的結果につながらない。

対して、シェア型NPOが進めるであろう「コラボレーション」は、コラボという性格上それぞれ長くは続かないだろうが、利益という結果は生み出すだろう。
通常のコラボとNPOコラボが違うところは、ミッションという思想性に縛られるNPOが行なうこのコラボレーションは若干ネットワークの匂いが混入することだ。
ネットワークの匂いとは、つまりは思想性や価値ということだ。

だが僕は、こうした若干の思想・価値・社会的目的等は人をつなげる紐帯(ties)にもなると考えるので、まずコラボが先にあり、その背景にこうした「ゆるやかな価値の共有」があることはそのコラボレーションの動きを強める要素になると考える。

具体例をあげると、4つのNPO等が協働で展開するハタチ基金などはNPOコラボレーションの見本だ。
これとは性格が違うが、そういえば淡路プラッツもこれまで、委託事業の中で複数のNPO(NOLA 、フェルマータ)とニート支援を行なってきた。
またプラッツは、近々発表する予定だが、大阪府の委託事業の中で、NPOみ・らいずと協働で事業展開する予定だ。また、別の委託事業では、いくつかのNPOと「高校中退予防」事業に応募したりしている。
また、これも具体的には近々発表する予定だが、同じくNPOみ・らいずとNPOブレーンヒューマニティーとも協働して事業を行なおうと思っている。

プラッツ周辺だけでもこれだけの動きがある。結果がなかなか現れない「ネットワーク」よりは、期間限定ではあるもののしっかり結果の出る「コラボレーション」がこれからはより展開されていくだろう。
このコラボという形態に、シェア型NPOを中心とした複数のNPOが寄り集う。これからの日本社会は、期間限定の利益を目的にシェア型NPOが組織する「NPOコラボレーション」によって動かされていく局面が多くなるだろう。
現実的には、オルタナティブ型NPOもこの動きに吸収されていくと思う。★



シェア型NPOの雄「育て上げネット」理事長の工藤啓さんと僕とで対談イベントを行ないます。
タイトルはズバリ、「シェアNPOとオルタナティブNPO」
6月25日(月)14〜17時、関西カウンセリングセンター 06-6881-0300
詳しくは、関西カウンセリングセンターホームページ
ご関心のある方は同センターにお問い合わせくださいね。


2012年6月10日日曜日

「中退」は、管理社会からの静かな撤退


■「管理社会」の一現象

昨日、お世話になっている大学教員の方お二人と「大学中退」について議論した。
いろいろな可能性が論じられたが、話は徐々に「現代の学生の人間関係」へと収斂していった。

僕としては、大学中退について、学生の学力の問題や大学のカリキュラムの問題等も検討しなければいけないのかなあとこの頃は思ってただけに、話が「学生の人間関係」のあり方に絞りこまれたことは、いわば「淡路プラッツお得意のジャンル」でもあるから、少し安心した(変な言い方だが)。

だが、話はそう単純なものではない。いま騒がれている「大学中退(広義では不登校/高校中退も含む)」の問題とは、すぐれて現代的な問題であり、現代社会の最も象徴的テーマであることが徐々に明らかになってきたからだ。
それは、「管理社会」の具体化に伴うネガティブな一現象ということでもある。

■セーフティネットではなく監視する「友だち」

お二人との対話では、このようなことが話された。
現在の大学では、まずは「元気な人達」が目立っている。同時に、欠席学生はすぐにマイノリティ(少数派)化される傾向がある。そして、自分の悩みを欠席学生は相談する相手がいない。

その相談相手、つまり「元気な人達」はマジョリティ(多数派)だから、大学中退を防ぐためには、そうしたマジョリティ(つまり出席している学生)を変化させ、結果として大学の雰囲気を変化させていく必要もある。

中退の一歩手前の現象は「長期欠席」である。そうした長期欠席の原因は、何よりも「友情関係」の不安定さに起因する。
だが、大学では、長期欠席する学生に対して、「自己責任論」が強い。不思議なことに、学生の「貧困」問題には理解があるが、長期欠席に対しては、①「自己責任論(がんばれ主義)」と、②「病理化(精神障害)による対象外化」が働く。

現在の学生は「人間関係を維持すること」で精一杯である。
そして、「友だち」がセーフティネットになっていない。それどころか、むしろ「友だち」は監視機能をもっている。監視するものに対しては相談できず、学生のほうから撤退し、長期欠席へと移行する。

中退予防とは、中退の手前の現象、つまり長期欠席の段階でのアプローチのことである。その際、以下がポイントとなる。
①「ピア(仲間・同僚)」の可能性
②「多様な人達」との出会い
③マジョリティにアプローチし排除的態度を変更させる
④学校以外の「もうひとつの場所」の構築
⑤「情報ネットワーク」の絡まない友だちの存在

■「居場所」をつくるためには

①と②は淡路プラッツ(のようなフリースペースやNPO)の「居場所(=生活支援)」でのアプローチと重なる。
③は相当長い時間がかかるものの、大学内システムの変更として取り組む価値はある(大学経営者の英断が必要になってくるが、そうした「英断」こそが日本の大学や日本人の最も苦手な分野)。

④は、これまた淡路プラッツ(のようなフリースペースやNPO)のような居場所を指す。もちろんミッションや行動指針に縛られる既存のNPOを利用するよりは、大学が独自に「居場所」をつくればいいが、これはある意味大学の自己否定につながるため、これまた日本人が苦手な「英断」が必要になる。

また④は、大学内にある「居場所」、つまりクラブやサークルを改革・活性化させるという方法もある。これは僕が、5月14日のブログ「僕にとっては、『文芸部』が大学中退予防の砦になった」に書いたように、実際に中退予防の効果はある。

現実には、大学側がこれに気づいて学内改革に臨むことができるか、そして大学の意向を受けた、サークルに通うことのできる「元気な学生たち」がこうした学内改革に応じることができるか、が問われる。
僕は今の大学のことをほとんど知らないので、実際にこうした改革が行なわれているのかもしれない。

■仕事ツールだがプライベートツールではないFacebook

⑤の「情報ネットワーク」とは、通常のメール(スマートフォンによってすべてのメールが現在進行形でチェックできる)と合わせて、FacebookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のことを指す。
元々は日本ではミクシィ(や2ちゃんねる)等の匿名SNSが主流を占めていたが、実名SNSであるFacebookの拡大がこの流れを決定的にした。
有名人のメディア色が強いTwitterや、Facebookのフォロワーを狙うGoogle+などもここに加わり、ネットを主たる媒体にした「情報ネットワーク」によって、現代の子ども・若者は取り囲まれている。

Facebookは今のところ、仕事ツールとして30〜40代男性が主として使用するらしいが、僕が仮に学生としてFacebookと初めて出会っていれば、ネット上においてもある意味「キャラ」として振舞わなければいけないことに辟易としていたことだろう。

Facebookはあくまでも仕事ツールであって、プライベートツールではない。プライベートにFacebookを持ち込むと、それはたちまち互いが互いを監視する「管理社会」ツールとなってしまうだろう。

まだ十分整理されていないが、このように、現在起こっている大学中退の問題とは、現代の「管理社会」に特徴的な現象なのではないかと僕には思えてきた。現代哲学(主としてフーコーやドゥルーズ)が30年前に予言した現象が現実化しており、そこからある意味ネガティブに逃走しているあり方、それが「大学中退」なのではないかと思う。

こう考えると、臨床哲学を学んだ僕にも少しお手伝いできることがあるのでは、と思い始めた。★

2012年6月2日土曜日

「自由」は癒しツールだが自立ツールではない 「変な大人」論②


■「普通」が拡大すると、「変」も拡大する

前回からブログトップページのレイアウトを変えてみたところ、フラットかつ容易に過去のブログにも辿りつけるせいか、妙に閲覧数が上がっている。
僕としては読みにくいことこのうえないトップページ(グーグルの「動的ビュー」というサービス)なのですぐに元に戻そうと思っていたのだが、もうしばらく様子をみることにする。

前回、「変な人」が傷ついた子ども・若者を癒すと書いた。そしてその「変」は、「自由」に結びついているのでは、というところで終わった。

「変」は、この超高度情報管理社会においては「自由」と結びついている、というのはそれほど説明は不要だろう。情報が隅々にまでいきとどき何もかも便利になった代償として、我々は以前よりもタテマエ上「普通さ」を求められる。
これは矛盾するようだけれども、人間とはこんなものなのかもしれない。誰にでも自分の情報が漏れるかもしれないという可能性が前提にある場合、タテマエ上、我々は「普通」であろうとする。

とりあえず「普通」であれば揉め事は起こらないから、まずは「普通」からスタートするというわけだ。
情報がツーツーの社会ではすべてがトラブルになる。そんなトラブル発生を防止するには、「普通」であることが何よりも重要になるからだ。

そうなると「普通」が拡大していき、それは「社会規範」も拡大していくということだから、そうした社会規範からはみ出る「自由」は「変」ということになる。

関係ないが、アートの島・直島にあるアート銭湯。
アートはあまりにビジネスに取り込まれ、もはや自由とは対局概念。


■不登校の増大

社会規範のない社会はない。だから、そこからはみ出る「自由」は、どんな社会にもある。言い換えると、どんな社会にも「変な人」はいるということだ。
そしてその変な人は、通常の社会では、単なる変な人として終わる。そこには癒しも何もないだろう。

だが、超高度情報管理社会において無数の情報で縛られた人々(つまり我々)の周辺では、情報とともに、無数の社会規範が散りばめられている。
残念なことに、情報の拡大と拡散は自由の拡大をもたらさなかった。我々は、情報の拡大と同時に起こるトラブルから逃れるため、より「普通」であることを選ぶことにしたようだ。

言い換えると、トラブル防止のために、我々は規範という自己規制を「普通の拡大」というかたちで具体化している。そのため、ものすご〜く息苦しく生きにくい社会が形成された。

そうなると、基本「普通」の社会が、まずここにあることになる。普通が(というか「大」普通といっていいほど極端に普通を求める雰囲気が)基本になる。これは、ものすご〜く、息苦しい。
その結果として、不登校数の増大とその持続を招くことになった。現代の子どもは、僕の子ども時代と比べても、はるかに「普通」を強いられていると思う。かわいそうなほど(ちなみに、たとえばアスペルガー症候群の一般化という現象も、この「普通」の拡大の副産物だ。「普通」の拡大はそこからはみ出る人々を「障害」のカテゴリーへと押しやってしまうということでもある)。

■現代の「自立支援」は、規範社会に慣れさせる技術

そんな窮屈な世の中だからこそ(繰り返すが、超高度情報管理者会が超窮屈社会を産んだのは皮肉だ)、「自由」は癒しになる。
だから、その「自由」を体現する「変な人」は、子ども・若者の癒しや救いになる。超高度情報管理社会でがんじがらめになった子ども・若者は、「変な人」と出会うことで、リラックスできる。
淡路プラッツの初代塾長の故・蓮井学さんもそうだったし、たぶん僕自身もそうだ。自由を体現する「変な人」は、存在するだけで傷ついた子ども・若者を癒す。

だが、「変な人」は、「自立支援」まで行なうことはできない。
現代の自立支援とは、いわば規範社会に子ども・若者を慣れさせる技術であると言い換えることもできる。だから、仕事をすることや学校に行く(いずれも現代の典型的社会規範)ことが「自立支援」の成功の典型例となる。

「変な人」は、社会規範から外れることがセールスポイントのため、社会規範に戻すことは定義上苦手だ。蓮井さんも僕もなぜできたかというと、結局ふたりとも規範人間だったのかな。いや、柔軟な人、とも言えるか(自立支援を望んだ若者が結局プラッツに集まった、とも言える)。

このように考えると、いわゆる「フリースクール」が自立支援に躊躇してしまうのもよくわかる。
つまり、フリースクールは、規範からこぼれた子ども・若者を癒すことは得意だが、規範に戻していくのは苦手な機関なのだ。
なぜなら、それは「フリー」だから。

時代は、フリースクールさえも自立支援に向かわせているのだろうか。そういえば最近のフリースクールの動きを僕は知らないなあ。また研究しようっと。★