2012年7月30日月曜日

「告知」ではなく「提示 suggestion」〜発達障害支援〜


■「告知」と「実践」の二段階受容

この前香川県から戻ってきたと思っていたら、もう一週間たってしまった。この間さまざまなことがあったが、今回のブログは、土曜日にあった「発達障害と自立を考える研究会2012」で出た提案について報告しておこう。

この研究会も、僕の病気を挟みつつ、もう4年目となった。
今年は淡路プラッツ20周年で秋から冬にかけて3連続シンポジウムを企画しており、当研究会をベースにした発達障害をテーマとするシンポジウムも12/1(土)に予定している。
同種の勉強会もそれほど珍しくなくなったのではと思うこの頃、今年はひとつの節目となるだろう。

研究会自体は毎回10名前後の参加で小規模なものなのだが、行政機関や医療機関からも参加していただき、わりと多彩な顔ぶれが揃っている。
内容は、青少年支援NPOが主催ということもあり、発達障害的当事者と最初に接触する機会(アウトリーチ)も多いことから、毎年、「本人や家族に、障害をどう受け入れてもらうか」ということがテーマとなる。

たとえば、障害者就業・生活支援センター等の専門機関では、本人や家族の障害受容という最初の山場(障害の「告知」や「受容」)は多くの場合乗り越えていることが多い。
そこでは、苦労して取得した「手帳」をいかに使い、就労先にいかに定着していくかという、自立に関する本丸の段階の中で苦闘していくことになる。

だが、NPO等のアウトリーチ機関では、そうした自立段階の入口の部分で時間を要することになる。つまり、果たして自分の「生きづらさ」は「障害」なのかという、ある種哲学的実存的問題に直面する。

発達障害は、発達凸凹といった境界概念をつくらざるをえないほど幅広い障害定義のため、その障害受容に関しても大きく2段階に分かれてくる。
それは、①(プラッツのような)NPO機関で行なわれる「障害の『告知/受容』」段階と、②就業・生活支援センターのような専門機関で行なわれる「障害者としての実践を通した『告知/受容』」の二段階だ。

■告知ではなく「提示」

いずれも「告知」という医学用語を用いているが、これに関して、研究会では意見が分かれた。
その理由を整理すると、以下に絞り込まれる。

1.告知は医師にだけ許される単語、といった資格特権に関する議論。
2.簡単にラベリングしてしまうことで当事者の可能性を狭くしてしまう、といった支援の思想的議論。
3.本人にその必要性がない(困っていない)ことから、そもそもその必要性がない、といった入口論。
4.告知作業が逆に「支援の責任」を放棄することにつながる(自分の施設より他の施設のほうがふさわしいという安直な「つなぎ」支援)、といった現実論。
5.医師の診断との齟齬。つまりは「医師の誤診可能性」という厄介な問題に直面してしまうという、これまたすこぶる現実論。

このように、「告知」的作業にはさまざま問題がつきまとうが、NPOのようなアウトリーチ機関にとっては、「告知」的作業が欠かせないのも事実だ。
当事者によっては、障害的「特性」(見通しが必要・独特のこだわりがある・言語の多義性を使用できない等々)を理解しているだけでは、自立に向かって「ブレークスルー」できない。
ある意味、告知的「重い」作業により、自立に向けての次のステップを切り開くことができる。

だが、上記のような理由で「告知」にはさまざまな誤解がつきまとう。
そのため、「研究会」らしく、この際新しく言葉を作ってしまおうということになった。
で、研究員一同アイデアを振り絞ったのだが、ある参加者が言ったこの言葉がなぜか全員の腑に落ちた。
それは、

提示

という言葉だった。英語では、presentation,exhibit,suggest等々があるようだが、研究会では、suggest/suggestionが意味が近いのでは、という意見が出た。

以降、アウトリーチ段階における、障害受容に必要な告知的作業を淡路プラッツや当研究会員のなかでは、「提示」という言葉に言い換えていきたい。「広義の告知」といった二次的命名よりははるかにわかりやすいと思う。
前回のスモールステップスケールver.2.0と同様、この言葉もコピーフリーです(で、いいですよね? 研究会員のみなさん〜)。
読者のみなさんもどうぞご自由にお使いくださいね。これは使えると思いますよ。★





2012年7月23日月曜日

コピーフリー!! スモールステップスケールver.2


■コピーフリーの新バージョン


ひきこもり・ニート/スモールステップスケールver.2.0©2012 NPO法人 淡路プラッツ)
支援のステップ
本人のステップ
スモールステップの指標

状態
スモールステップのタイプ
家族
外出
支援施設/
キーパーソン
就労  
A.アウトリーチ支援
1.ひきこもり
①親子間断絶
②外出不可
③外出可
B.生活支援
2.ニート
a心理面談/コミュニケーション
b心理面談/生活訓練
c心理面談/レクリェーション
C.就労支援
⑤就労面談タイプ
⑥短期就労実習タイプ
⑦長期就労実習タイプ
⑧短期アルバイト
⑨長期アルバイト
◎−
⑩正社員








昨日ブログを更新したばかりだが、実はいまは香川県に月一帰省中で時間があるので、ずっと気になっていた「ひきこもり・ニート/スモールステップスケール」をバージョンアップした。
これを今のところの決定版とする。

表タイトルに「©」とあるが、まあこれはかたちだけのもので、コピーフリーとします。
これは使えると思われた方は、どんどんコピーして使ってください〜。
以下、表を見る際のちょっとしたポイント。

■2-④a〜cの「支援施設/キーパーソン」が「★」印になっている

このキーパーソンこそが、当ブログでこのごろ触れている「変な大人」のことで、子ども・若者の内面に棲みつく内なる規範を、その変な大人の存在そのもので少し自由にしてあげることのできる存在、ということだ。
支援者の立場や有する価値や知識等の理由から、医師・教師・(普通の)カウンセラーがこうした変な大人になることはなかなか難しく(でも時々いらっしゃいますね〜)、NPOの職員やベテランワーカーのような今のところアウトサイド的ジャンルの職業に現れることが多い。

ただし、このキーパーソンは一時的に子ども・若者を癒すことはできるが、このキーパーソンのみで社会参加/自立の支援を行なうことは難しい。あくまでも子ども・若者の「時間の蝶番を外す」パーソン(変な大人論⑤)であり、支援そのものは、複数機関で取り組むことが望ましい(その際「司令塔」は必要)。

■従来の「心理面談型ニート」を、aコミュニケーション・b生活訓練・cレクリェーションの3段階にさらに分けた

親世代からすると当たり前の、こうした段階を体験していないことそのものが、ひきこもりやニート青年のコンプレックスを増幅し、社会参加をより困難にする。
この段階(生活支援)を丁寧にかつ一定期間内(半年〜数年)で体験していくことが、次の⑤就労面談にスムースにつながっていく。

ここは非常に重要で、これらを「そのうち、いつのまにか体験できる内容」だと軽く考えている保護者は、③の外出ができるようになると、いきなり⑤の就労面談につなげようとする。
うまくいく人も中にはいるが、ひきこもり期間が長ければ長いほど、容易に②に逆戻りしてしまう。
④の生活支援を、ステップを踏みしめるようにして一つひとつ体験することは、②や③への逆行の予防という点でも望ましい。

■バージョンアップ

2008年に出した『ひきこもりから家族を考える岩波ブックレット)の段階では、スモールステップは4ステップしかなかった。
あれから4年たち、僕自身脳出血という大病を経てなんとか復帰し、このようにスモールステップスケールが現実に見合うものにまでバージョンアップしてきた。

これまで講演活動ではこうした最新スケールをお伝えしていたのだが、きちんとまとめていなかった。
やっとまとめることができて、何となくすがすがしい。

この先も状況の変化に応えるために少しずつ変化していくだろうが、1年程度はこのスケールで間に合うと思う。★








2012年7月22日日曜日

子ども・若者は、「規律(学校)と監視(Facebook・Twitter)」社会で生きている〜変な大人/イバショ論⑥〜



■高校中退予防事業〜となりカフェ〜

春頃から淡路プラッツがのんびりと準備してきたもののひとつに高校中退予防事業があり、先月末から今月にかけてプレゼンやらなんやらがあって、8月からいよいよ事業開始することになった。
正式には、大阪府新しい公共の場づくりのためのモデル事業の枠内での「高校中退・不登校フォローアップ事業」なのであるが、通称は「となりカフェ」という。

提携先の高校の名称も含めて詳しくは当ブログやホームページで随時報告していく予定だが、僕としては、以前よりず〜っと気になっていた、「ハイティーンひきこもり」の問題というか、高校中退以降の青少年の生活のあり方にやっととりかかることができて、ものすごくうれしい。
去年、僕が病気療養中につくったプラッツの行動指針のひとつに「潜在性へのアプローチ」というのがあって、これがその高校中退問題にぴったり当てはまるテーマなのだ。


高校中退の問題は、ひきこもり・ニートの問題が生じる最大の源泉だと僕は思う。
大学中退も大きな問題だとは思うが、高校中退は潜在化の深刻度がより重い。
大学中退は「就労支援」というフィルターにまだ絡めとりやすいが(そのフィルターにたどり着いてもらうまで紆余曲折は当然ある)、高校中退はそもそも「支援」の網から抜け落ちている。


公的支援のあまりの少なさから、現代の日本では、高校を中退すると即ブラックボックス化してしまう。かといって、年齢面からすぐには就労には結びつきにくいため、就労支援の網の目からも抜け落ちている(その結果、長期のひきこもりになる)。
現在、若者サポートステーションが高校生支援に取り組んでいるものの、サポステの性格からどうしても「就労」という切り口になってしまうため、そこに拒否反応を示す生徒/保護者はなかなか網の中に入れない。そうなると、サポステの能力の優劣が反映されるから、仕組みとして平均的支援が提供しにくい。


就労からの切り口だけではなく、生徒の生活面すべてを考慮するような予防的支援が求められているのだ。


■子ども・若者世界には、「規律」だけではなく「監視」もある


そこで、「となりカフェ」のようなものが求められていると思うのだが、詳しくは次回以降。
今回は、あらためて現在の日本の10代がいかに生きにくくなっているのかを簡単に考えてみる。


学校は「規律社会」の典型である。この言葉は哲学者のフーコーが元ネタではあるが、フーコーの議論(『監獄の誕生』等)を紹介するまでもなく、誰にでも想像できるだろう。パノプティコンと呼ばれる刑務所の建物構造に見られるように、近代以降の社会では、建物の構造そのものから、集団に規律を与えるシステムが採用されている。
その背景にあるさらに大きな意味は、近代ヨーロッパ諸国が、子どもや若者を、システムとして「産業と軍隊」に組み込むためだったと言われる。


日本も明治維新以降、必死に近代ヨーロッパを真似してきたから、このような規律社会を目指してきた。加えて、そのおとなしい国民性と、「空気」偏重で「決定できない」独特な内向き文化から、それ(規律社会化)がわりと成功してきた。
まあこれも今や常識の枠内にあると思う。
フーコーの中では読みやすい


ポイントは、最近になって、こうした規律社会に加えて「監視社会」の要素も本格的に加わってきたということだ。
これもまたフーコーを参照してほしいが(30年も前に提唱しているわけだから、やっぱりフーコーってすごいなあ)、いつもこのブログに登場する哲学者ドゥルーズもフーコーの議論を少し補足した。


これまた詳しく知りたい人はフーコー(『性の歴史Ⅰ』)やドゥルーズ(『記号と事件』だったかな)にあたってほしいが、ひとことでいうと、学校や刑務所のような中心的管理機構を置くことなく、現代では環境それ自体において、人が互いを監視しあうようになったということだ。
解説本などでは、たとえばマクドナルドの小さな椅子(わざと小さくして長居できないようにしている)や街のあちこちにある警備カメラなどがあげられる。
中心的な組織(学校や刑務所や会社)が統治することなく、現代社会では、街の構造そのものによって互いが互いをチェックしているということだ。


僕などは、現代の最大の監視装置は、やはりインターネットにあると思う。特に、FacebookやTwitterなどのSNSがその役割を果たしているだろう。
ネットでざっと検索したところでは、現代の高校生や大学生は、オフィシャルな自分はFacebookで、極私的自分はTwitterでと使い分けているようだが(まだTwitterの利用率が高いようだ。Twitterは5割、Facebookは2割程度とのこと)、いずれにしろ生活すべてに張り巡らされたネットによって、自分のほとんどすべてを周囲に知られていることには変わりはない。


■監視=コミュニケーション


そうした環境に3才の頃から(つまり「人間」として覚醒し始めたその時から)囲まれていると、人はどうなっていくのだろう。
そうした人たちが今、着々と年齢を重ねている。すぐに小学校を終えることだろう。


ミクシーを先駆者としてTwitterやFacebookが日本で爆発的に広がり始めたのはここ数年のことではあるが、子どもの数年は大人の何倍もの密度がある。
現在の高校生がFacebookを知ったのはおそらく中学生時だろうが、それでも最も多感な時期に、学校という規律社会に加え、監視社会の中で過ごしている。


監視というとネガティブな印象を与えるかもしれない。これを少しポジティブに、「コミュニケーション社会」と言い換えてもいい。現代の子ども・若者たちは、近代的規律に加えて、常にコミュニケーションという網の中に入っている。


そう考えてくると、不登校やひきこもりは、近代的規律社会からの逃走に加え、脱近代的監視社会からの離脱でもあるとも言える。
だが切なくも尊重したいのは、子ども・若者たちが、そうした逃走や離脱をあくまでも一時的なものにしたいと考えているということだ(変な大人論1や2を参照)。


つまりは、不登校やひきこもりを一刻も早くやめ、元の規律・監視(コミュニケーション)社会に戻りたいと思っている。
支援者であるのであれば、そこを尊重しなければいけない(いやなら学者かジャーナリストを目指せばいい)。僕は支援者の道を選んだので、そうした子ども・若者のニーズを尊重し、満たしたいと思う。


最近取り上げている「変な大人/イバショ」も、大きな枠組みで考えれば、現代の「規律/監視社会の補完装置」だとも言える。
つまり、規律と監視から成り立つ社会は、変な大人とイバショのフォローを得ながら維持され続ける、ということだ。★










2012年7月16日月曜日

the time is out of jointの、イバショ〜変な大人/イバショ論⑤


■イバショ(居場所)=生活支援

僕はもうこの頃はすっかり経営の人になってしまって、淡路プラッツの1階の代表席に偉そうに座り、時々3階の応接室みたいなところでスタッフやお客様と話し合うことだけで1日が過ぎ、あっという間に1週間が過ぎている。

2階にはいわゆる「居場所」があり、そこで青年たちがいわゆる「生活(体験)支援」を受けている。
詳しくはこのひきこもり/ニート・スモールステップ支援スケールver.1を参照していただきたいが、スケール中「ステップ④心理面談型ニート」が受ける支援が、生活支援であり、ひきこもり青年が社会参加していく際には欠かせないステップだ。

スケール欄外にある通り(パッとわかりにくいので、そろそろver.2をつくらないと)、生活支援はさらに、a.コミュニケーション(会話)、b.生活訓練(清掃・調理等)、c.レクリェーション(買物・カラオケ・旅行等)の三段階に分かれる。
「会話して料理してカラオケしてなんて、それって支援?」と言うなかれ。フツーの方々からは若者として当たり前と捉えられるこのような諸行為群こそ、長らくひきこもっている青少年にとって未体験であり、かつ同世代への最大のコンプレックス要因なのだ。


またこれら「当たり前の」生活体験は、それらが世間一般には当たり前すぎて、わざわざ他人に聞いて回ることも恥ずかしくてできない。
親に聞いても、親の価値観からすると「そんなの若者だったら誰でもやってること」の一言で片付けることができるため、そうした親の醸し出す空気が苦痛で若者は頼ることができない。


結果、人によっては5〜10年、そうした体験を積めないまま時間が過ぎていく。
このような空白期間が長くなればなるほど、スケール⑤以降の「就労(体験)支援/⑤就労面談」へと進むことができない。
正確には、⑤に進むことができてもそこで簡単に挫折し、再び②(外出不可型ひきこもり)あたりに戻ることになる。

③から⑤へのステップ飛ばしは最も危険で、就労体験を地道に積み重ねるためにも、④段階を半年から2年程度積むのが結果的に着実な社会参加ができることになる。

■イバショと変な大人

で、そうした生活体験が2階の居場所では展開されているのだが、そこは、僕が居場所のスタッフとして働いていた10年前からあまり変わることのない雰囲気をもつ。
そこは、居場所という漢字で書くよりはむしろ、イバショというカタカナ的な表記で示したほうが意味を伝えやすい空間なのだ。

イバショには会話がある(コミュニケーション)。が、その会話は、たとえばアニメ「エヴァンゲリオン」の話題のみで充満している。そこで語られるエヴァは、第5話ラストシーンのシンジのモノマネだったり、21話「ネルフ誕生」のマニアックなエピソードだったりする。
また、そのような趣味の話題だけではなく、たとえば「価値」をテーマにした話題もある。僕などはよく自分の「変な」価値をテーマにしていた。そこには当然「家族」や「仕事」に関する、若者たちにとってはかなり触れてほしくない話題もある。

だが僕は、これら価値の話題をあくまでも自分の話題として提供する。
そうすると、同じ「家族」の話題でも「家族とは近代社会の一装置」だとか、同じ「仕事」でも「仕事と労働は違い、労働はクソで、仕事は瞬間ごとの完全燃焼」みたいな、世間的には「超変な」価値観として若者には提示される。

また、イバショには調理もある(生活訓練)。ここでは僕は、自分の開発したオリジナルイタリアンと、それに合う絶妙なワイン(安物)を紹介する(現場スタッフだった頃の話)。
イバショにはカラオケもある(レクリェーション)。ここでは僕は、当然「エヴァ(主題歌)」→「化物語」→「エヴァ(タナトス」)」→「少女革命ウテナ」→「エヴァ(魂のルフラン)」というふうに、アニメの連発を披露する。若者たちが歌っている間も拍手などはせず、ひたすら自分が歌う次のアニソンを探している。

イバショには旅行もあった。僕は遠いところでは、メキシコやソウルに若者たちといっしょに行った。海外では僕の「変な大人」ぶりは思わず倍増されてしまう。

■イバショはout of jointな時空間

スタッフがこんな調子だから、若者たちもゆっくりとではあるが、彼ら彼女らが持つ「時間の蝶番(ちょうつがい=joint)」が外れていく。
時間の蝶番が外れてしまった、とは、シェイクスピア『ハムレット』のセリフであり、哲学者ドゥルーズが『差異と反復』第2章で引用している言葉だが、ドゥルーズが提示する正式な意味とは若干アバウトものの、現在と過去に縛られ続けるフツーの我々の暮らしから一時的にはみ出る表現としては意味をつかみやすい。

イバショとは、変な大人と若者たち自身で形成していくthe time is out of jointな空間なのだ。

ただしその蝶番の外れた時空間は永遠のものではなく、いつかは終わるし、正確に言うと、out of jointの間も通常の時間は流れている。
ひとつは、若者たち自身がフツーの規範に縛られどこかで元の社会に戻りたいと思っていること、もうひとつは、イバショのスタッフ自身も、徹底的に変な大人でい続けることはありえず、何らかの支援論・技法・情報に捕らわれていること、がその理由だ。

out of jointはあくまで一時的な状態にすぎない。それはこれまでの「変な大人」論1〜3でも述べてきたとおりだ。

だが、時間は奇妙なかたちで一時的に変更することはできる。その間、子ども・若者たちは癒され、そして体験したかったがそのチャンスに恵まれなかった生活のさまざまな事柄を体験し、やがては元の世界に戻っていく。
青少年支援を哲学的に見ると、以上のような捉え方になる。

通常の世界に戻っても時々out of jointするかどうかは、それは青少年次第。個人的には僕のサイドにも時々来てほしいが、支援者的には僕のサイドには寄り付かないほうがいい。out of jointを人為的に出現させるにははわりと修行も必要だから。★

★お知らせ……プラッツ20周年記念として、この秋3連発シンポジウムを予定しています。1回目は、10/6(土)で、テーマは「イバショ〜なぜ子ども・若者に必要なのか」です。詳しくは追々お知らせします〜

2012年7月9日月曜日

「動くこと」の意味〜変な大人論④〜


■中岡先生

昨日、大阪大学で第29回臨床哲学研究会があり、社会人院生時代にたいへんお世話になった中岡成文先生の新著『試練と成熟〜自己変容の哲学』大阪大学出版会の合評会に僕もスピーカーの一人として呼ばれたので、久しぶりに阪大を訪れ(去年あった鷲田清一先生の退官記念講演以来)、少しだけしゃべってきた。
僕の話の中身は、中岡先生に新著でもとりあげていただいている、僕が数年前に出した岩波ブックレット『ひきこもりから家族を考える〜動き出すことに意味がある〜』を細かく解説したものになった。

先生の本の合評会で自分の本の解説をするというのは何か心苦しかったのであるが、ブックレット出版から4年たち、例の「スモールステップ」に関する考察がさらに深まっており、先生の御本の中にはこのスモールステップ論について4ページに渡って触れられていたため(しかも新著の最後半部分でとりあげられている)、昨日の研究会であらためて表を用いて説明したほうがいいのでは、と思った次第だ。


昨日のコメント自体は、最近僕がとりあげている「変な大人」論も含めて当ブログでふだん書いていることなので説明しない。
ここでは、僕の発表が終わったあとに先生からいただいた質問によって、僕が心のなかで「はっ」とさせられたことについて簡単に書いておこう。


先生はだいたいこのようなことを聞かれたのであった。
「田中さんは、この『思想ならざる思想』ともいえる、『動くこと』や『スモールステップ』の考え方について、どのようなところから着想されたんですか」


いや、「着想」ではなかったのかもしれない。何か元ネタのようなものがあったら披露してといった意味の質問ではなく、「どのような経緯から」「どのような動機で」、スモールステップ論や「動くこと」の重要性を説いているのかと聞かれたのだと思う。


■「動く」の元ネタ

僕が知っている限り誠実さナンバーワンの教授であるところの中岡先生が、公の場でこうした質問をされたということはある意味大きなチャンスだった。

けれども僕はこんな感じで答えてしまった。
「実は元ネタはドゥルーズなんです」

ブックレットを書きながらも、書いたあとも、昨日先生に答えたあとも、僕は本気で「動くこと」の重要性を教わったのはドゥルーズの本からだと信じ込んでいた。だから先生に自信を持ってそう答えたわけであるが、やさしい先生はさらっとスルーしてくれたので問題は深まらなかったものの、もしかすると元ネタはドゥルーズではないのかもしれないぞ、と家に帰って考え始めた。

ひきこもりの青年やその家族が変わるためには、心理的カウンセリングで内面ばかり覗いていてもなかなか変化することはできない。まずは親が情報を取得すること、そして親自身の身体を動かして説明会や面談に出かけること。
次に本人も心の内面のことはとりあえず置いといてまずは身体を動かし、「誰か」に出会うこと。その「誰か」は「変な大人」であることが望ましく、そうした変な大人との出会いは必ずその後の青年たちの「動き」を「動かす」こと。

これらは、ドゥルーズの書物群にそのヒントが書かれており、ポストモダン哲学の雄ドゥルーズの忠実な下僕である僕は、それらドゥルーズのヒントを忠実に現実化しているにすぎないと昨日まで思い込んでいた。

でも待てよ。よーく思い出してみると、『差異と反復』にも『ニーチェと哲学』にも『アンチオイディプス』にも、そうした言葉遣いは直接出てきてなかったような。
しいて言うなら『ミル・プラトー』と『意味の論理学』にそれっぽい言葉はあるようにも記憶するが、ドゥルーズは「水で酔え!!」とは書くが、「とりあえず動け!!」とはなんぼなんでも書かないだろう、と冷静に考えたのであった。

まあつまりは、ドゥルーズテイストで何となく使った言葉が「動く」ことだったというわけだ。
この適当さが僕らしくて笑えてしまうが、ああ、修士論文に熱中しすぎて博士課程の願書を提出し忘れて(←実話……)ほんとよかったなあ(適当なやつは研究者になれない)と思うと同時に、まさに昨日の経緯自体が、「動く」ことの重要性をまた一つ僕に教えてくれたのであった。

■変な大人自身にも効く

僕はかたくなに自分の概念の元ネタがドゥルーズであると思い込んでいた。けれどもたぶんそれは違うということが、昨日の中岡先生の質問をきっかけとしてわかった。
それは久しぶりに阪大へと赴き、臨床哲学研究会に参加し、中岡先生の質問に答え、そして一人で阪大坂を下りながら「あれ、何か変だぞ」と考え始め、こうしていまブログを書きながら再確認した、これらすべての「動き」を総合して、何かがすっきりした、ということだ。

また、何かをつかんだような気にもなった。その何かはまだまだ時間がたたないとわからないけれども、なにか一つ階段を昇ったような気になった。
ひとつステップを上がったのだ。

つまりは、動くことの重要性を説く僕自身、阪大に出向き人前で喋り先生の質問に応えることでこれまでの考え方が変わりそうな気になってきた。
中岡先生は僕のような単なる「変な大人」ではなく、何カ国語も喋れてものすごくきちんとしてて(でも結構変な冗談ばかり言う)超変な大人だけれども、それら一連の「動き」のなかで僕自身が変わりそうなのだ。

変な大人理論は、変な大人自身にも効く。そんなことを考えた一日でした。
あと、変な大人論に加えて、今回がいいきっかけなので、「動くこと」の意味論も同時に進めていきます。★






2012年7月2日月曜日

「変な大人」論 ③〜不登校版スモールステップスケール〜


■不登校版スモールステップスケール

先週は金・土とセミナー講師の補助役をし、昨日は、横浜のニート支援「バイターン」で知られる石井正宏さん・関西カウンセリングセンター理事長・古今堂靖さんと「ビートルズカラオケ」を堪能した。
そのふたつ(講師とビートルズカラオケ)を通して、5/27「変な大人」が子どもを癒す、6/2「自由」は癒しツールだが自立ツールではないのふたつのブログで書いた「変な大人」理論にさらに確信を抱いたので、少し書いてみよう。

金・土のセミナーは、主として不登校を扱ったものだった。
不登校は今、虐待や貧困といった00年代以降顕著になった問題も混入し、より複雑化している。それを受けて淡路プラッツでは、不登校問題にあらためて取り組み、高校中退の問題にも具体的に事業展開していく予定だ(これに関しては新たに行政委託事業を取得したので、次回以降報告していく)。

そのような動きのなかで、僕が考えたこのスモールステップ支援スケールVer.1をもとに、「不登校版スモールステップスケール」をプラッツスタッフが作成してくれた。それを表にしてみるとこうなる。



家族関係
外出
キーパーソンとの出会い
生活体験/学習支援
学校復帰/進路決定
①完全ひきこもり
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②外出不可
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③外出可
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④コミュニケーション訓練
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-
⑤学校復帰準備
-
⑥学校復帰/進路決定





元のスケールより、こちらの不登校版のほうがステップ数を絞り込んでいるため見やすく、またステップの中で最重要となる「キーパーソンとの出会い」を表に明記しているため、支援の意味を捉えやすい。

ここでいわれる「キーパソン」とは、僕がブログで書いた「変な大人」のことで、①〜③までのひきこもり状態を脱するためには欠かせない存在だともいえる。
家族関係と外出が可能になったあと、この変な大人との出会いを通過し、子ども/若者たちは再び学校/社会に還っていく。

■フツーが「変な大人」には通用しない

「変な大人」は子どもたちにとって普遍の存在ではなく、あくまでも一時的「癒し」の存在だ。

社会規範からある程度自由な「変な大人」は、社会規範や制度にがんじがらめになったこどもたちを、その存在のみで癒すことができる。
変な大人は、言葉で「学校なんて行かなくてもいい」と言うこともあるかもしれないが、もっと根源的な部分で社会規範から自由になっている。ここでいう社会規範とは、たとえば「学校」「就職」「結婚」「育児」等の、フツーの社会では「当たり前」のことだ。

変な大人は「コミュニケーション」規範からも自由だ。「友だちを大切に」「恋人をつくれ」等のフツーの格言が変な大人には通用しない。「友だちなんて別にいらない」「恋人なんて近代社会が捏造した幻想」など、変な大人は平気で言う。
このふたつの言葉(友だち・恋人)はいずれも僕の日常語だが、このような価値を日常の中で当たり前のように差し込む大人は、現代の監視社会ではほとんどいない。

■魔法を使う変な大人

ポイントは、子どもたちの中にもこのような社会規範やコミュニケーション規範がしっかり根付いているということだ。
で、子どもたちは、変な大人のように、完全にそうした規範から飛び出る気もない。子どもたちは、やがてはそのような規範の中に戻っていく。もっと言うと、子どもたち・若者たち自身、いつかは「こちら側(変な大人の側ではなく、フツーの世界=規範的マジョリティの側)」に戻りたいと思っている。

ただ、現在は、そうした規範が子どもには過剰すぎて適応できないだけなのだ。
子どもたちはいつかは元の世界に戻って行きたい。けれども今はどうしても身体が動かない。そのため、元の社会に適応できない。

そんなとき、「変な大人」は魔法のように子どもたちをリラックスさせることができる。嵐の中、一時的に寄港できる港のように、子どもたちには楽な存在として変な大人は目の前に現れる。
だが、いつかは(数ヶ月〜2年程度)その変な大人から子どもたちは離れる。そして、変な大人の世界でバージョンアップした子どもたち自身の身体と心をひっさげて元の世界に戻る。

これが、上の表では学校復帰と呼ばれ、広くは「自立(への第一歩)」と呼ばれる現象だ。★

暗い部屋の中、ビートルズで盛り上がる変な大人3人(左から古今堂・石井・田中)