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ストラテジック・タイ strategic ties〜「戦略的つながり」を〜

■「戦略なきつながり」の危険性
この頃僕は、NPOのネットワークの仕方に2つの危機感を持っている(ここでいう「ネットワーク」は、6/16記事「ネットワークではなくコラボレーション」で示した狭義のものではなく、より一般的な広義のネットワークを指す)。
それは、①「戦略なきつながり」という危険性、②NPOの社会からの乖離、という2つに分かれる。 いずれも、僕のNPO(淡路プラッツ)でも陥りつつある「甘い罠」でもある。 順にみていこう。
①戦略なきつながりとは、時代の変革期である(といわれる)今、社会変革の騎手であるところのNPOはまずは「つながる」必要がある、という動機から沸き起こっている動きを指す。 直接的には、当然ながら、東日本大震災後に日本全国で沸き起こった。震災から2年目の夏を迎えた今もそれは続いている。
その危機感や時代変革の節目であるという認識は、僕も共感する。ただ、その共感がどれほどの「事実」になるのかは、フロイトのトラウマ論ではないが、「事後的」に確かめられるのみだろう。 20年後くらいになって、「ああ、あのときは確かに時代の変革期でした」と、事後的歴史認識的に2010年代が語られる。 その時になって初めて、いま(2010年代)が変革期であったと確定されるだろう。
動乱期(これは個人の歴史〜個人史で「動乱」は「トラウマ」と言い換えられる〜も同じ)は、事が終わったあとになって初めてそれが「動乱だった」と語られる。現在進行形で「今が時代の節目だ」とは誰も語ることはできない。 語ることは自由だが、歴史的「事実」にそれはなれないということだ。なぜなら、同語反復的で申し訳ないが、歴史とは事後的に設定されるものだから。
■NPOは弱小企業
だから時代が変革期かどうかは、それは今はわかりようがない。そうした時だからこそ、「つながり方」には工夫が必要になってくると僕は思う。 むやみやたらに「おもしろいから」「ちょっと今の時代っぽいから」と短期的に動いていてはそれはすぐに忘れ去られるだろう。
②の「NPOの社会からの乖離」も①と深くつながっており、時代の変革期だからとむやみに繋がり続けていては、その時代や社会そのものから逆に離れていってしまうのではないかという危険性だ。 NPOは言葉自体は流行しているが、単体のNPOそれぞれは経営基盤が激弱の「一弱小(非営利)企業」にすぎない。
「企業」と書くと弱小企…

西成区長に説明した〜「となりカフェ」事業と政策アドボカシー〜

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■「高校中退」予防事業

のんびりした盆休みが終わっていきなり忙しくなり、残暑の厳しいなか、外に出歩くことが妙に多い一週間だった。
そのなかでも、8/24(金)に、大阪市西成区の臣永(とみなが)区長に当法人の事業を説明する機会を得たので、その内容と意味について報告しておこう。

もう少しするとホームページにもきちんとアップする予定だが(ホームページ自体も、そろそろプロにデザインしてもらおうとも思っています……)、淡路プラッツでは「となりカフェ」という事業をこの夏から始める。
同事業の正式名は「高校中退・不登校フォローアップ事業」といい、その事業名通り、日本の青少年問題の中でもその潜在的重要性においては最大の問題だと僕が思っている「高校中退」の防止について、真正面から取り組む事業だ。
いわゆる「新しい公共支援」事業の枠組みの中で、大阪府(青少年課)と組んで応募したものがこの夏採用された。

事業規模は残念ながら小さいものの、大阪府立西成高校という公立高校の生徒さんを中心とした高校生のみなさんに対して、「高校中退防止」を表看板にして支援できるというのは、僕にとって非常に感慨深い。
というのも、20代や30代になったひきこもりの青年たちの中には、高校中退以降、長期間に渡ってひきもってしまったという人たちが少なくはないからだ。

小・中学生の不登校に対する支援策は我が国でもかなりシステム化され(それでも不登校数は一向に減らないが)、淡路プラッツでも大阪市の「サテライト事業」を10年近くお手伝いしている(淡路プラッツの不登校支援)
が、高校生に関しては、今のところ地域若者サポートステーションによる「就労」の角度からの支援しかないようだ。

高校生の半分は大学に行く時代、専門学校を含めると「就労」に向かう生徒のほうが少数派となる時代、いかにサポステががんばっても「就労」の切り口から高校中退を防止することは限界がある。
そして、高校中退のほとんどは、「高校1年生」時に引き起こってしまうという事実があり、高校1年の生徒に「就労」を(いかにおもろしくいかに「使えるもの」として)語っても自ずと限界がある。

■となりカフェ

高校中退の予防は、「就労」という面はあくまで補助線だ(我が国のユース対策として「就労」がなぜ最初に出たのかという点については日本の青少年支援の歴史が背景にあるのだが、長く…

アドボカシーのために、私は「私」を語る

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■アドボカシーの厳密な定義

前回のアドボカシーネタの記事で語ったように、帰省先から戻ってきて、久しぶりに書店に行き、アドボカシー関連の本を探そうとした。
だがその前に目に入ってきたのが『世界を変える偉大なNPOの条件』(クラッチフィールド他/ダイヤモンド社)だった。この本、Facebookでずいぶん話題になっていたのだ。

パラパラっと立ち読みすると、2章で大々的にアドボカシーが取り上げられているではないか。迷うことなく即購入、2章はさらっと読み、他の章もパラパラ読んでいる。
同書で取り上げられているアドボカシーは、前回ブログで触れた2つのアドボカシーの意味(権利擁護と政策提言)のうち、政策提言のみに絞り込んでいる。

サービス受給者の「権利擁護」といっても、実際にNPOがそれに向けて動く時、現実には2つの動きが考えられる。
1つは、社会や行政に対しての政策提言(つまりふたつめのアドボカシー)、もう1つは社会に向けての幅広い広報活動だ。



だからアドボカシーの意味をより細かく定義すると、まずは「権利擁護=『当事者』の代弁」になる。
その大前提を受けて、「政策提言」や「社会広報活動」があげられるだろう。

辞書風に書くと、アドボカシーとは、→①権利擁護(社会的弱者の主張を第3者が代弁すること)、②その現実化に向けての行動(たとえば、行政に向けての政策提言、広く社会に対しての啓発広報活動等)
となる。

だからアドボカシーをより深く問う時、現実的な②のあり方を検討する(政策提言の仕方や効果的な広報活動のあり方の吟味)よりは、一義的な①に対する問いを行なうことがより問題の核心に迫ることができる。

■当事者は語れない

①に含まれる問題を、前回当ブログでは「ひきこもり」を例にあげて、「当事者」と「経験者」の問題、さらにその周囲にいる第三者、とりわけ「支援者」の問題としてあげた。

語ることができるようになった時点でその人は「当事者」ではなくなり「経験者」になる、ということは「当事者」そのものの問題は基本的には誰も語ることができない。
このことは「経験者」の言論を封殺するものではない。それはただ「経験者の言葉」になるだけだ。

言い換えると、「当事者」は自分の問題を自分で語ることができないということがその定義(だから「サバルタン〈当事者〉」は語ることができない)なのだから、永久にその問題…

「アドボカシー」は哲学りたくなる

■アドボカシーと臨床心理学

この頃、NPO経営や社会貢献議論の流れのなかで「アドボカシー」という言葉をよく聞くようになった。そうした一連の言葉ではほかに、ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)やスケールアウト/スケールアップ(水平/垂直展開)等をよく聞く。

僕は、2年前の脳出血発病までは、主として支援の仕事の傍らに経営っぽいことをしてきた。
中心はあくまでも現場/支援であり、その支援の仕事をもとに「哲学」もしてきた。僕の考えることのほとんどは、青少年支援について、心理学等では物足りない言葉を創出し、概念を創造し、支援システムを提案するということだった(そのひとつの結実がスモールステップスケールver.2.0)。

だから、アドボカシーやソーシャル・アントレプレナーやスケールアウト/アップ等の社会貢献系最新ワードにはかなり疎い。それでも、それら最新ワードを聞いたり読むにつけ、ものすごく共感を覚えるとともに、何か微妙な違和感も抱く。

その違和感は、昔、臨床心理学に対して抱いた違和感に若干似ている。「共感」や「受容」等、臨床心理学が自明のものとしている言語群に僕は強烈な違和感を抱いた。
共感や受容のより深い仕組みを僕は知りたかったが、残念ながら心理学にはそれは存在しなかった。
唯一、哲学にそれはあったのだった。

最近僕は、アドボカシー等のNPO関係の言葉群に、以前臨床心理学の諸概念に抱いたのと同じものを感じている。足りているようで足りない、届きそうで届かない、あの感じだ。

■「当事者」と「経験者」

アドボカシーをWikipediaで引くと(今帰省中なので本屋がまわりにないんです〜)、①権利擁護、②政策提言のふたつが主たる意味として書かれている。
①は、自己意思を明確に表明できない当事者(終末期患者・アルツハイマー患者・重度の障害者等)を「代弁」することを指し、②は①をもとにした(広義の)政治活動を指すようだ。

今回は①をみてみよう。
当事者の代弁(ルプレザンタシオン)については、僕の10年以上のテーマでもある。それは、「ひきこもり当事者は語ることができるか」という問いかけで始まった。
当時は、「語ることのできる」ひきこもり青年が現れた頃だった。彼らは、自分の経験や苦しみを自分の言葉で必死に絞り出していた。

彼らに対して僕は、語れる存在となった者は「ひきこもり経験者」…

「友だち」 GANTZとFacebookに関する考察2本

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友だちが多すぎて〜『GANTZ』『ワンピース』、Facebook(5.2)

マンガ好きだけでは友だちはできない〜『GANTZ』『進撃の巨人』(11.9.4)

香川県でのお盆休みも4日目になると、気づけば仕事のようなことをしていた。 これはマズイ、というわけで、これまでのブログをまた再編集してみた。仕事のようでこれは僕にとっては楽しい作業。
いずれも『GANTZ』を取り上げたものだが、「友だち」について考える内容だ。 生活へのネットの本格流入と、ネット文化を背景にした趣味の多角化が、「友だち」づくりを困難にする。
小学時代は、ネットに対する大人の干渉と本人の力量不足のためリアル友達に向かいやすいが、思春期移行はとたんに「友だち」の質が変わり始める。 こうしたことを肉感的に知っている35才以下の社会人の役割はここでも大きい。★
映画は登場人物が少ないから(たぶん)わかりやすい

ベスト「シェアNPO」

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オルタナティブNPOとシェアNPO〜2世代のNPOはつながるか(5/6)

ネットワークではなくNPOコラボレーション(6/15)

ポスト「シェアNPO」の可能性(6/25)

前回のブログ(「変な大人」は“複数”になる)の最後に、最近書いてきた「変な大人論」をまとめたものを貼り付けてみた。
このように、「代表の考えをより読みやすく提示する」ということも、「2012年のNPOの発信力」に含まれると僕は思う。

そういえば、この頃のミュージシャンは、ベストものばかり出している。
あれは、単なる営業スピリットだけでもなく、ネタ切れでもなく、たぶん最大の要因は、「何回も何回もベストものを出さなければ作品が消費者に届きにくい」時代だから、ということなんだろう。


誰もが簡単に制作・発信できるようになっただけに、大量にあふれるそうした作品たちに埋もれてしまって、自分の制作物をなかなか見てもらえない。
だから、同じようなベストものが繰り返し発表される。それくらいして初めて、一般消費者はそうした作品に気づく。作品の出来不出来の前に、作品の出現そのものを知らせていく時代になった。

今回は、「変な大人」論とともに今年上半期の代表論考「シェアNPO」について書いたものをまとめてみた。
この続き、今年の冬あたりに開こうと思っています。お楽しみに〜★

「変な大人」は“複数”になる〜淡路プラッツ・スタッフサマー宿泊研修〜変な大人論⑦

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■スタッフ研修!!

8月10日と11日、琵琶湖湖畔の落ち着いた雰囲気の研修施設/ホテルで、淡路プラッツ20年の歴史で初めての、スタッフ宿泊研修を行なった。
スタッフが宿泊するのは初代塾長の故・蓮井学さん時代以来プラッツのお家芸ではあるが、「スタッフ研修」に特化して泊まりこむのは初めてだ。

思い起こせば25年前のバブリーな時代、大卒新入社員として京都にある某出版社に入社した僕は、1ヶ月にわたる新人宿泊研修を受けたのであった。
そこでは、営業業務を中心に、社会人としての基本を徹底的に叩き込まれた。あの時はいやでいやでたまらなかったものの、結局そこで学んださまざまな「常識」は僕の社会人としての基礎になっている。

その出版社は出版不況に耐え切れず倒産してしまったけれども、またその時いた新入社員たちの半数以上は退社したけれども、退社組の中には、プロの作家になったり(結構な売れっ子ミステリー作家もいる)、大学教授になったり、出版社経営兼ライターになったり(さいろ社の松本君のこと……)、NPO代表になったり(僕のこと……)といろんな人達がいるから、まあおもしろい会社ではあった。

そんなわけで僕は、20代前半に会社で徹底的に研修を受けるということは、それ以降のその人の人生を決定するほど重要なことだという確信をなぜか抱いている。
だからプラッツでも、きちんとした社会人研修をずっと前から開いてみたかった。今年になってやっとそれが実践できる余裕が生まれてきたと判断したので、小規模ではあるが若手社員中心の研修を行なったというわけだ。

■「沈黙」の原因と問い

10日の日中、滋賀県にある発達障害専門自立支援施設である話題の「ジョブカレ」で講演したあとに集合したせいか若干僕は疲れていたが、参加者のモチベーションが高かったせいか初日から白熱したトークとなった。

今回の研修のテーマは「プラッツスタッフとして“発信力”“提案力”を磨く」。
僕が発信得意なため日頃から誤解を受けがちだが、淡路プラッツスタッフのほとんどは(というか僕以外の全員は)、どちらかというとマジメで奥ゆかしく発言も慎重だ。
が、それなりの「事業型NPO」となり、僕も慢性疾患(高血圧ほか)を抱えてしまった今、病がある程度癒えこれから再び僕に集中するであろう広報/発信仕事を、スタッフが幅広く行なえるようにならなければいけない。

それ…

日本では「戦略」はムリ?〜なでしこ・スーパーカブ・東日本大震災〜

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■なでしこ戦略への批判

オリンピックが始まって1週間くらいたつのかな、新聞もテレビもオリンピック一色なので僕も興味深く見ているが、この間、「日本人」を考えるのに適した出来事が2つあった。
ひとつは、なでしこジャパンの監督が予選3戦目で引き分け戦術を選択したことに対する批判が予想外にあったこと、もうひとつは400メートルハードル男子予選で、怪我をしているのにもかからず「最後まで走り抜いた」日本人選手がいたこと、だった。

いずれの事例も、「中長期的な勝敗よりも、短期決戦の中で『潔く』戦うことを重視する」日本の特質が典型的にあらわれたものだ。
怪我をしているのに走りぬく選手に対して、テレビ中継では批判を聞かなかった。日本以外の国であれば、たとえば「他の選手に譲るべき」「将来の選手寿命を考えるべき」等の批判のほうが多いだろう。

なでしこ監督のひきわけ戦術に関しても、どちらかというと批判的トーンのほうが多いように感じた(擁護議論もあるのだろうがそこまでチェックしていない)。
今回の大会のテーマ(ミッション)はおそらく、「ポテンシャルの落ちた澤をいかしながら、大野・川澄・宮間等の中核選手の集団リーダーシップのもと、どう優勝するか」というものだっただろう。

そのために監督は、今回の大会の戦略を「できるだけリスクを回避して効率的に戦う」というものにしたのではないかと推察する。
その戦略のもと、「優勝候補の中でも日本が勝つ確率の高いブラジル」を準々決勝の相手に選び、「移動距離の負担を減らす」ことも考慮したのではないか。

なでしこの戦いは、戦略性のない日本人としては珍しく戦略的であり(監督が会見でその戦略を漏らしたのは迂闊だったのか、戦略性のない日本人に対する皮肉か)、非常に見習うべきものだったのではないかと僕は思う。
けれども、単に「潔くない」という点から(つまりは何となくの「空気」から)批判されている。
これ(負傷ハードル選手への無批判と、なでしこ監督の戦略優先主義への批判)こそが、僕は「日本」、そして「日本人」そのものだと思う。


■「偶然の成功体験」が戦略になってしまう

最近売れている『「超」入門 失敗の本質』(鈴木博毅/ダイヤモンド社)によると、戦略が苦手な日本企業は「一点突破・全面展開」を好み、その戦略性も偶然に獲得することが多いという(ホンダのスーパーカブは、スーパーカ…