2012年11月27日火曜日

死と生命の渚〜初めてのハワイ〜


■もうひとつの顔をもつハワイ

みなさん、アロハ!! 日本では秋も深まり多くの方々は仕事に忙殺されていると思うが、僕はこの5日間のんびりハワイに行ってきた。
そこで、ここ最近の当ブログのテーマでもある「死と生」について、の〜んびり考えたので、簡単にブログっておこう。

下のyoutube動画でも僕が語っている通り、ハワイという土地は、日本で一般的に流通しているイメージとは違うもう一つの顔を明らかにもっていて、それは一言でいうと、「生と死のあいだ」にある領域だということだ。

陽気なVサインとともに、ハワイを語る。1分半と短いです。帰りのリムジンの車中で。リムジン、最高〜

これは沖縄にも共通する。海や水平線や半永久的に押し寄せる波にぐるっと囲まれている沖縄やハワイでは、現代社会が提供する「リゾート」的なものを超えた、生命の渚のような空気が時々漂う。
僕は特定の宗教を信じているわけではないものの、あえていうと、宗教(言語や文化)が成立するもっとずっと前からそうした「生命の渚」は我々地球の生命体を取り囲んでいると僕は想像している。

オアフ島北西部の景勝地。
こうした土地の地名は、土地が発するものを逆に邪魔すると僕は思う。

ハワイのフラ(ダンス)は、そうした「渚」において石器時代から延々と伝わるある種の「トーク」だとも思う。ゆっくりと身体全体を使って、身体の斜め上辺りに手を差し出す、そのポーズが印象的だ。

■生のサイドでポジティブに

こうした空気は、前回当ブログでとりあげた「エヴァQ」とは対極的な位置にあると僕は思う。
エヴァQは今も思春期に囚われ続け、それはある種の「自意識の奴隷」であり続けている。「エヴァ破」において、そうした思春期/自意識の奴隷から一歩抜け出し、エンタメ/他者の世界に踏み出そうとしたものの、数年たって結局元の思春期の奴隷に戻ってしまった。

思春期の奴隷状態から抜け出すには、エンタメという近現代的「他者」の世界という手がある。
どうせこの世界は自分が自意識でごちゃごちゃ悩む前にそもそも「他者ベース」なのだから、初めからそれを引き受け、他者の快楽の最大公約数的な作品を作ってしまおう、というわけだ。エヴァ破はその線の傑作だった。

だがもうひとつ手がある。それが、ハワイに表象される「生と死の渚」から始めるという手だ。そのエリアをとことん意識した上で、生のサイドでポジティブに生きていく(ことを提案する)方法だ。

アメリカドラマ「ロスト」の舞台。あの作品も「生と死の渚」がテーマだった。
評価は微妙だが、今回僕がハワイに行こうと思ったのは同作品の影響大。


■脳出血以来、ずっと

振り返ってみると、アメリカドラマ「ロスト」にはまったり、村上春樹作品をまた読み始めたり(たとえば『羊をめぐる冒険』があったhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/10/blog-post_28.html)、ここ数ヶ月北海道や沖縄でこのような思索をしたり、ハワイに飛行機で9時間かけて行ったりと、最近の僕は、どうも「思春期の奴隷」でもなく「『他者』の世界」でもなく、もっともっと根源的な領域での人間の生き方について探求しているようだ。

その根源的領域、「生命と死の渚」の領域の代表がハワイなのであるが、これは振り返れば、2年前の夏に脳出血で倒れ、何とか生き延びることができて以来、ずっと探し求めていることなのだと思う。

オアフ島北側にウミガメの生息地があり、毎日野生のウミガメがヒトのそばで日光浴している。

そこに、僕の長年のテーマである、「人間と『他(者)』のコミュニケーション」が重なり、臨床哲学を学び終えた時点での結論的コミュニケーション論(僕の修論のテーマでもありました)だった「自我の前にそもそも『他』の領域があるのだからそこから始めよう」を超えた場所に僕はやってきつつあるのかもしれない。

そこはどうやら、「死を見つめつつ徹底的にポジティブである領域」のようだ。
何のためらいもない、ベタ〜な表現ではあるが、この領域を押さえきってしまうことが、青少年支援や、それだけに留まらないもっと幅広く仕事をしていくであろう50才以降の僕にとっては重要になっていくのだろうと直感している。

早朝のワイキキビーチ。ホテルから徒歩1分。


自意識でもなく、他者でもなく、それらすべてを包んだ「死と生の渚」。既成の学問も宗教も、ある意味「死」を一度通過した今の僕には響いてこない。すべてが小手先のように思えてならないから。

今こそ、自分が現実に見て出会って会話する、そうした日常の中から、自分の力で僕は生を切り開いていけるような気がしている。いやあ、病気から復活してよかったです。
ちょっと恥ずかしいけど、ハワイに行って以上のようなことをしみじみ感じたため、あえて記録しておきます。★

定番、ワイキキの夕日。これも宿泊ホテルの窓から。

わりと傑作のような気がする、パノラマ撮影したワイキキと僕。うまくこの迫力が伝わるかなあ。

2012年11月22日木曜日

よりハードにそのセカイにひきこもった〜エヴァンゲリオンQ〜


■永遠の思春期ループワールド

『エヴァンゲリオンQ』がついに公開された。僕は3日目に見に行ったが、平日のマイカル・シネコンだったため、客の入りはガラガラ、のんびりゆっくりと見ることができた。のんびりゆっくり、子どもの声や若者の雑談に気を取られることなく、映画にのみ意識を集中できる環境だったのだが……。

残念ながら、開始30分くらいから僕の意識は映画を離れ始めた。そのあまりの古さ、世界の固定化、作家性の枯渇に唖然としながら。

話題の冒頭6分バージョン。この迫力に騙されるとあとでしんどい。

2ちゃんねる等ですでに様々な議論があるが、僕はこの『エヴァQ』は駄作だと思う。前作の『エヴァ破』がエンタメ作品としては優れものだっただけに(詳しくは当ブログ記事「エヴァQ」は駄作だろうhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/09/q2.html参照)、この2本の格差は驚愕ものと書いてしまってもいいと思う。

庵野監督は、やはりエンタメに徹することはできなかった。それどころか、90年代のセカイ系の泥沼に囚われたままだということをこの『エヴァQ』で露呈してしまった。「本当の死」を『千と千尋』で描いた宮崎駿とは異なり、永遠の思春期のループワールドを庵野は生きている。それがあまりに痛々しい。

■究極のセカイ系

ストーリーはあってないようなものだ。地球どころか、たぶん全宇宙と全次元の生成と滅亡に、2人の人間(シンジ・アスカ)と1人の「使徒」っぽい存在(カヲル)と1人のクローン(レイ)と謎の生命体(マリ)が関与するという話。
物語の後半はこの傾向が徹底され、特にはじめの4人(シンジ・アスカ・カヲル・レイ)のアングラ劇を見せられているような気になる。これは大学の演劇研究会か? と突っ込みながら僕は見ていた。

エンタメに徹しない庵野が寄ってたつ物語構成パターンは、例の「セカイ系」で、主人公の日常のあり方が全世界と全宇宙の運命を決めていくというものだ(詳しくは当ブログ記事決断主義と若者http://toroo4ever.blogspot.jp/2011/08/22.htmlなどを参照)。

が、セカイ系はセカイ系でも、ここまでスケールが大きなセカイを、ここまで少人数の人々がすべて握っているという話はかつてあっただろうか。そりゃまあ、たとえば「ぼくらの……」や「グレンラガン」などもかなり大きめのセカイ(宇宙)ではあったが、まだセカイ系としては恥ずかしがっていたというか、奥ゆかしかった。言い換えると、それらのセカイ系作品そのものが、パロディ作品でもあったのだ。

■「スモールステップ」の揺り戻し

しかし『エヴァQ』はパロディどころか、直球でセカイ系している。まるでそれ以外に世界がないごとく、セカイ系で推し進めてしまった。まるでこれは、ひきこもり青年が外に出ていくどころかよりハードにひきこもりはじめた状況に似ている。

『破』でせっかく自己の世界を破って他者の世界とつながり始めたというのに、数年たって出会ってみると、なぜかよりハードにひきこもっている。
『破』のエンタメワールド(他者が前提となった世界)が居心地悪かったのか怖かったのか、以前にもまして自分のセカイにひきこもってしまった。
ひきこもり青年が社会化していくときによく陥る、このような「スモールステップの揺り戻し」と『Q』が僕には重なって見えた。

だから「駄作」というのはやはり少しかわいそうで、「社会参加(エンタメ化)していく過程での揺り戻し作」という点から、「労作」あるいは「習作」といったほうが近いか。

だがこれは次に傑作が待っているという意味での習作ではなく、傑作を求めているがそこには届かず、永遠に作品を作り続けるのみという意味での習作に近い。
90年代で死滅したはずのセカイ系価値を結局は出ることができないその物語世界という点でも、その「永遠の思春期ループ」こそが『エヴァンゲリオン』の本質だったといえるだろう。

そもそも今回の新シリーズは反復やリフレインがテーマであると最初からわかっていたが、その反復は、やはり「思春期の反復」だったということだ。これは引き続き多くの人を捉えるが、僕のように離れていく人も多く出現する、メルクマールの作品となるだろう。★

ミサトさんの「サービス、サービス〜」も虚しく……


2012年11月18日日曜日

僕の残り人生の主題は「自由」のようだ〜あなたのテーマは?


■管理社会とは別の平面にある、「自由」

48才にして僕は、というか48才になったおかげで、といいったほうが正しいのだろうが、自分の残りの人生のテーマがはっきりした。それをこの頃明確に意識できるようになったので、ここに時々確認のために戻ってこれるように、ブログにも記しておこう。

それは、超ベタ〜だが、「自由」なのであった。

再確認したのは、前回の菊地・大北インタビューの中での大北さんのこの発言部分だった。重要な部分のみを1分30秒にカットしたので、以下に貼り付けてみる。


前回ブログ動画part2のうち、後半1分30秒部分を抽出。
僕の問いのあと、大北「自由」発言。1分半なので気軽です。

大北さんの「自由」は見てもらえればわかるが、「私が私で答えることが、自由であることのきっかけとなる」と説明している。この発言の前段として、現代社会での統計数字等を用いた「管理化」の強化に言及されており、これは大北さんの研究背景からも当然フーコーの議論が結びついてくる。

ただここでは哲学的背景はおいといて、管理社会とは別の(あるいは同時ではあるが別次元の)生き方として、「私が私で(実名で)語る」があり、そこにこそ「自由」が深く絡む、といった大北さんなりの生き方のマニフェストのようなものが提示されている。
自由の平面が、管理社会の平面とは別の場所に横たわっている、ということだ。そのために、大北さんの場合は「私で語ること」がある。

■ポジティブな「自由」

もうひとつ、9月13日の当ブログ記事「自由になるために」を引用しよう。
ここでは、僕の恩師である、大阪大学大学院「臨床哲学」准教授・本間直樹先生がインタビューに答えてくださっているのだが、このビデオ2の5分20秒すぎに、「自由」という言葉が出現する。


「自由」に関して長めの説明なので、あえて編集せず再録。
5:20すぎまで早送りすると、「自由」が出現します。

本間先生が提供する「ワークショップ(先生はこの表現は嫌うだろうが)」の2時間という枠組みの中で、参加者がその2時間の間「自由に生きる」ことは、「あらゆる意味で重要だ」とする。

その先はまだ先生は煮詰め切っていないものの、参加者の「顔」が明らかに違うと、そうしたワークショップの主催者は先生に指摘するのだそうだ。
そして、実はそれらワークショップの形式や道具(コミュニティボール)は二次的なものであり、最も重要な要素はワークショップをファシリテートする先生自身の存在なのだと最後の最後で先生は語る(そこまでの流れが重要なため、このビデオはカットできなかった)。

この発言の背景にも、先生なりの思想はあるのだろうが、ここではその思想の研究はたいした問題ではない。
ポイントは、先生が何気なく使った「自由」という言葉の、肯定性にある。上の大北さんと同じく、ここでも「自由」は限りなくポジティブな意味合いを持って使用されている。

■「自由」をテーマにしたyoutubeインタビュー集を

実は僕は、若い頃は経済学を少し学んだのだが、当時はマネタリズムやサプライサイドの経済学が流行っていたということもあり、そこでは「自由」は微妙にやっかいなものとして語られていた。
その一方で僕は、中学生の頃、アメリカンニューシネマの遅れてきた熱烈なファンだったということもあり(「イージーライダー」「マッシュ」「明日に向かって撃て」等)、「自由」を今この世界にはない理想的な価値として捉える癖を持っている。

大北さんも本間先生も、どちらかといえば自由をポジティブに捉えているけれども、お二人ともその使い方は微妙に異なる。
僕自身、「自由」を非常にポジティブなものとして捉えている。

が、10代の頃に抱いていた甘い理想のようなものではなく、50才を目前にし、死が近づいてきた一人の人間として「自由」をそれなりに位置づけたくなった。
同時にそれは、僕の仕事、つまり「フリースクール」や「イバショ」や「変な大人=自由な大人」などの一連の議論につながることにもなる。

とりあえずは、「自由」をキーワードにyoutubeインタビューシリーズを続けていき、ある程度集めて一つの作品にしたいと思います。

ところで、あなたのテーマは?★




2012年11月12日月曜日

発信力とは、応答と名乗り〜グループ「哲学者になる」(菊地建至さん+大北全俊さん+田中)インタビュー

■お知らせ■淡路プラッツ20周年シンポジウム③「発達障害を伝える責任〜告知と提示」http://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.htmlのご予約を受付中!! 
おかげさまで残り座席は少なくなってきました。お申込みは、電話(06-6324-7633)かメール(awajiplatz@gmail.com)で。


■あやしい「〜力」

NPOや社会貢献、それに類する「業界」では(経営学的なものにも多く見受けられるが)、この頃よく「発信力」という言葉が登場する。いわく、発信力を磨く必要がある、アドボカシーのためにも発信力は必要だ、等々。

基本的に僕は、こうした「発信力」的ネーミングはあやしいと思っている、というか、あまりに言葉が軽いと思っている。
発信力だけではなく「〜力」というのは数年前から大流行で、元々この〜力の「力」は、「聴くことの力」(鷲田清一先生)の「力」あたりから来たようにも感じているが、鷲田先生の言葉の意味から遠く離れ、巷の「力」はものすご〜く軽くなった。

が、こうした流行言葉にあえて乗っていくことも僕は楽しんだりする。今回は、哲学の友人である、菊地健至さんと大北全俊さんにインタビューするというかたちで、この「発信力」というのを少しだけ深く考えてみた。

ビデオ1(9分) 各々の自己紹介。左手前が大北さん、右奥が菊地さん。
最後に、「応答」と「名乗り」が出てくる。

ビデオ2(9分) 「応答」と「名乗り」がいかに発信力につながるかを説明。
最後のほうに「自由」という言葉がさらりと出てくるが、僕はこれにひそかに感動した。

ビデオ3(6分) ビデオ2の補足と、最後に「哲学者になる」の説明を田中から。
この3から見てもいいかもしれない。

■純粋な「発信力」など、ない

ビデオ1にもある通り、菊地さんは関西の10以上の大学で教える筋金入りの非常勤講師、大北さんは大阪大学「臨床哲学」の教員だ。お二人とも僕は尊敬していて、菊地さんには淡路プラッツが行なったこの夏のスタッフ研修で、2日間みっちり講師役をお願いしたし、大北さんには僕が臨床哲学の「モグリ院生」だった頃からお世話になっている。

ビデオは3本合わせると25分近くになるから、全部見るのはしんどいだろう。幸いにyoutube動画は軽くなっているようだから、早コマ送りでざっと流し見することもできる。

おふたりに興味がある方はビデオ1の自己紹介からじっくりどうぞ。「発信力」がテーマなのになぜ「応答」と「名乗り」なんだろうという、テーマ性に興味がある方は、ビデオ2から早コマ送りするのもよし。

ポイントは、哲学を実生活でも徹底して実践しているおふたりらしく、「主体的に行なう純粋な発信力などそもそもない」という点を自明の理として出発しているところだろう(自明すぎてお二人はこの点は言及していません)。
ベタ〜ではあるが、主体が発信する際には、そこには常に「他者」が前提とされている。
そのことを、大北さんは「応答」、菊地さんは「名乗り」という一言で表したのだと思う(まあそれだけでもないでしょうが)。

■グループ「哲学者になる」

最後に僕から、このyoutube鼎談はシリーズ化し、だいたい3ヶ月に1度開いてみなさんにお届けすると宣言している。
そしてこのグループ名は「哲学者になる」ということも。僕も入れての3人組です。

毎日それに「なりつづける」という行為をもって、その人はそのものになる。
だから哲学研究者と哲学者は違い、哲学研究者ではあるが哲学者ではない人も世の中にはたくさんいる。もちろんその逆もたくさんおり(たとえば僕)、その両方であることも少ないがいる(たとえば菊地さんと大北さん、また当ブログに以前登場してもらった本間直樹先生などhttp://toroo4ever.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html)。

「応答」や「名乗り」等、当ブログの読者の方々には馴染みがなくまどろっこしい議論かもしれないが、こうした次元の議論がないとそれは「軽い」と我々は感じてしまう。
だから時々、こうした根源的なレベルを論じるインタビューも掲載していきますね。
次回(2月)は3人が広島に飛んで語ります〜。「ローカル性」あたりがテーマになるかなあ。★








2012年11月8日木曜日

「Z世代」とデザイン〜NPO法人co.to.hana.西川亮さんインタビュー


■閑話休題

20周年記念プラッツ連続シンポジウム、無事成功した2回目は前回報告したが、ラストは「発達障害」をテーマに開催する。
詳しくは、「発達障害を伝える責任〜告知と提示http://awajiplatz.web.fc2.com/seminar.sinpo.html」を参照願いたいが、今回は閑話休題で少し別の話題。

20周年を迎えた淡路プラッツ、この際CIも敢行しようということで、ロゴを一新する作業にとりかかっている。
一新というか、これまでいろんなかたちでとり散らかってきたロゴ/マーク/ブランドイメージを、この際ひとつに絞り込み、「プラッツといえばあのマークね」というものを創造しようということだ。

こんなこと、一般企業であれば当たり前の作業だが、NPO業界ではまだまだ目新しいジャンルだと思う。一部のNPOを除き、ほとんどのNPOは、「ブランドやロゴなんかにお金をかける余裕があれば、人件費にまわしたい」というのが本音だろう。

デザインに関するトークが「ポスト近代」に関するトークに気軽に結びつく(後半)。
こうしたことが、激動期の現代で「デザイン」が注目される理由だ。

だが、そうした広報に対する戦略性のなさが、各NPOの事業展開の狭さにつながり、結局は限られた範囲での社会貢献となってしまう。
社会貢献を社是とするNPOこそ、アップル並みに広告費のパーセンテージを拡大する必要があると、この頃の僕は思うようになった。

■Z世代

そんなわけで、淡路プラッツの新ロゴをお願いしているNPO法人コトハナhttp://cotohana.jp/の西川代表に「NPOとデザイン」をテーマに語ってもらったので、そのyoutube動画を貼り付けてみよう。

西川さんは86年生まれなので、26才。いわゆる「Z世代(あるいはプレZ世代〜団塊ジュニアがY世代なので、その次の最も新しい世代ということです)」に入る若者だが、映像を見ていただければおわかりになるように、「デザイン」を語り始めるととたんに熱くなる。

その雰囲気は、いかにも現代の若手起業家という感じ。
僕が友人の松本君と出版社「さいろ社」を創設した時も、80年代後半なりのあり方で我々はそんな「起業家」然としていたのだろう。

けれども、西川さんはいかにも現代の若者らしく、自然体だ。
デザインと社会貢献という硬っくるしく且つつながりにくい2つのテーマを、いかにも自然体でつなげて語る。現代教育は、このようなセンスも一方では産んでいる。★

2012年11月4日日曜日

高校こそが最大のセーフティネット〜11.3シンポジウム「潜在化する10代」より (youtube動画)


■深まった議論

昨日11月3日、クレオ大阪北にて、淡路プラッツ主催20周年記念連続シンポジウム②「潜在化する10代〜高校中退予防の現場から」が開催され、無事満員御礼となった。お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。
また、ゲストの肥下彰男さん(府立西成高校)、白水崇真子さん(豊中パーソナルサポートセンター TPS)ありがとうございました。

ゲストお二人と「となりカフェ」事業責任者の辻田梨紗(淡路プラッツ)を加えた三人が、前半の1時間を使って発表した。肥下さんは、主として「貧困」「障害」という視点から困難を抱えた高校生の問題に言及し、白水さんは、TPSの実践に加え、豊中市内にある定時制高校での中退予防の取り組みについて発表された。

これに加え、今年度限りの事業(そのため予算的にも少額)というハンディは抱えながらも、多方面から注目されている「となりカフェ」の取り組みを辻田が報告した。
辻田の報告は、昨年彼女が行った内閣府主催の海外研修事業での見聞(ドイツ)も交えながら、現在の我が国にとって、いかに「高校中退予防」への取り組みが重要かということを強調したものになった。

part1 8分。大坂の高校中退の現状が簡潔にまとめられている。ちょっと手ブレ気味の撮影です……(撮影・田中+iPhone5)。

part2 9分。前半はドイツの報告、後半に「となりカフェ」の報告。

■ドイツと日本

後半は、前半の三氏の発表をもとに、論点を整理した上で、簡単なディスカッションを行なった。
今回の議論の最大のポイントは、「我が国では、高校がセーフティネットになった」ということだ。

今から30年前、つまり80年前後に高校生だった僕のような年齢層(社会の中角層)からすると、高校は「大学の前段階」あるいは「最後の学生生活」などのイメージがある。
いずれにしろ高校生活は苦くかつ甘酸っぱいものではあるが、そこには「生活を守る」といった悲壮な覚悟を持ち込む余地はまったくなかった。

ところが現在は違う。たとえばドイツのように社会参加する際の幾層ものクッションが用意されている社会では、それぞれのクッション(職業準備のための学校や青少年を支える青少年施設、さらにはそれらの背景にあるキリスト教文化等が幾重にも重なっている)が安全装置(つまりはセーフティネット)になり、結果として社会参加がしやすくなっている(当然諸問題はあるのだが)。

それに対して現代の日本では、10代後半に人生の大きな選択肢が待ち受けている。それは、「高校を卒業して次の進路に乗ることができる」か「高校を中退し『潜在化』してしまうか」の2つの選択肢だ。

■セーフティーネットとひきこもり

「潜在的存在」になる前後には、さまざまな問題が絡み合っていることが議論の中で判明した。それらは、(家庭の)貧困、ひきこもり・ニート、障がい、国籍等多様に渡る。
だが、風呂敷を広げたままでは議論が収束せず、会場を混乱させてしまうことにもなるので、司会役の僕を中心に、発表者たちが以下のように整理した。

★1.現代日本では、「高校」の存在自体が社会のセーフティネットになった。

★2.そのため「高校」は現代社会のキーポイントであり、これは大きく分けて2つの問題を含む。
 a.セーフティーネットの構築……「貧困(生活保護)」「障がい」等への対応
 b.ひきこもり・ニートの予防……少子高齢社会の重要な労働力である「60代・女性・若者」のうち、「若者」の層を分厚くしていく。

★3.高校中退には、①中学と高校の連携(ほとんどの中退は高1時のため)、②高校内での支援体制(居場所・面談等)、③通信制・単位制以降の「潜在化」防止の経時的な3つの段階がある(これを当ブログでは「流動体としての中退予防」としている)。

★4.以上について、残念ながら教育現場では議論が起きていない。

まだまだ諸問題を検討し、論点を整理していく必要はあるだろうが、「高校こそがセーフティーネット」ということを言語化・可視化できたことが昨日の最大の収穫だった。
この点に共感される方々は、それぞれの現場で議論を深め、具体的なシステム構築に邁進していただければうれしいです。★