投稿

7月, 2013の投稿を表示しています

「支援おたく」から「支援部門担当者」への、名誉ある降格 

イメージ
■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
Yahoo!ブログ 子ども若者論のドーナツトーク
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」
Twitter(最近急に目覚めた!!)

■僕も「支援おたく」だった

最近、「育てあげ」ネットの工藤啓さんのブログ(「歴史的積み上げのない若者支援の現在地は、職人と専門家が混在、混乱の状態」http://blogos.com/article/66883/?axis=b:17593)を読んでいて、僕は、いまこそ諦めず「子ども若者支援に(工藤さんを応援しつつ)マネジメントを本格導入しなければいけない」と考え込んだのであった。

今回のタイトルにもあるように、不登校やひきこもり、そしてニート支援は、長年、ある意味「マニアック」な領域であり、それは「職人」やあるいは「おたく」の世界と言ってもいいほど、細かい支援論が延々と議論されてきた。

何を隠そう、僕もその「おたく」の一員であり、いや、おたくどころか「超おたく」の領域に踏み込んでいたといっても過言ではないほど、ひきこもりやニート支援についての詳細な議論を展開してきた。



あれはあれでよかったし、議論の中身自体は今もそれでもいいと思っている。
が、現在必要なのは、そうした「支援おたく」的な議論が行なわれている「場所」をきちんと特定すべきなのでは、ということだ。
言い換えると、支援団体(多くはNPO)の「組織」の中で、そうした支援議論が行なわれている「場所」を特定することで、そのNPOの経営がより安定するのでは、と思うのだ。

さらに言い換えると、「支援おたく」的な議論が子ども若者議論の中心にあったままでは、これから本格的にNPO経営が難しくなっていくと予想される現在、経営の生き残りに乗り遅れるNPOがどんどん現れてくる、と僕は思う。

つまりは、支援論を熱く議論してきた「支援おたく」は、団体の中で「支援部門担当者」へと位置づけ(あるいは「降格」し)、その上に事業マネージャーやあるいは(機能別マネージャーのひとつである)企画マネージャーの傘下に収まるべきだということだ。

■3つのマネジメント

哲学は少し知っているものの経営の素人である僕がいうのも恥ずかしいが、誰もやさしく解説してくれないので、僕なりにNPOの組織形態について簡単に解説してみよう。

まず、NPO等のソーシャルセク…

日本の社会構造は変わった? 

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
Yahoo!ブログ 子ども若者論のドーナツトーク
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」
Twitter(最近急に目覚めた!!)

■広島事件と生活保護、自殺数

この頃僕はTwitterに目覚め、気が向いたときは連続ツィートをわりと熱く書くようにしている。
書く前はネタはまったくないのだが、他の人のツィートを見ているうちにむくむくと書く気が起こる。

この頃は特に、ネットのニュースに反応してしまう。
それはたとえばこんな記事。
広島・呉の少女遺棄 逮捕の少女、虐待受け生活保護、1Kで共同生活また、たとえばこんな記事。就活自殺は5年で3倍増http://togetter.com/li/536069
これらは一見つながっていないように見えるが、最近の僕には、日本の社会構造の激変とダイレクトにつながっているように感じられる。 広島の事件は、犯罪の内容の前に少女の「虐待」の背景を想像し、就活自殺は、自殺の前に自殺に導いてしまったこの国の経済状況を想像する。
また、そのような犯罪や自殺と結びついてしまった、ある種の余裕の無さ(これを湯浅誠さんであれば「ため」のなさと表現するか)、あるいは価値観の堅さにいきついてしまう。
そもそも、貧困や就活の失敗と、殺人や自殺といった命のやりとりは、時代が変わればそんなにダイレクトに結びつかない。 なぜなら、貧困や就活が原因でお金がなくなったとしても、死を想像する前に、そこにはまず「他者」がいたから。
他者をどう頼り、他者にどう迷惑をかけながらもその迷惑をいつかは返すことを約束し、なんとかかんとか日々を凌ぐ、そうした生き方こそが、ながらく人間の「人生」そのものだったと思う。
が、なぜか、我々は他者を頼らなく、あるいは、なぜか頼れなくなってしまった。
■アンテナ
こうした、他者性のない、生死とお金がダイレクトにつながってしまう諸事件こそ、日本の社会構造が根本から変わってしまったことの象徴のような気がしている。
社会は、これこれの理由で変わったと、社会そのものから説明してくれることはほとんどない。 それは、家族の問題がひきこもりという事象を通して現れるように、なんらかの現象を通して現れる。
その事象とは、殺人や自殺などの生死にまつわる諸事件だ。 僕は元来、このような事件を扱うことは苦手だった。…

50才のコミュニケーション〜「スピーチ」でもなく「脱自我」でもなく、「パレーシア」でもなく 

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
Yahoo!ブログ 子ども若者論のドーナツトーク「 発達障がいは生き残るか」
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」
Twitter(最近急に目覚めた!!)

■気楽でありながら正直に
このところ「代表病」というタイトルで2回ばかり書いてきた(「いつのまにか『権力』になってる「ついスピーチしてしまう」)。 最近はofficeドーナツトークの仕事も忙しくなってきて、たとえば今この瞬間などは、住吉区の子ども若者支援システムづくり事業の会議を終えたばかりであり、当ブログでもいろいろ報告しなければいけないことはあるのに、どうも当ブログはこの頃内省的になっている。
住吉区や高校中退・不登校フォローアップ事業(府立西成高校と桃谷高校での「高校生カフェ=居場所」づくり)についての報告は来週からまた始めるとして、今週はもうちょっとだけ内省的に。
それは、50才を前にして、この頃の僕は、なんとなく「新しいコミュニケーション」を掴み始めたという話題だ。
それは何のことはない、「語りすぎず黙りすぎず、気楽でありながら正直にその場にあり続ける」という程度のことだ。 まあこの程度のことなのだが、なんと、この程度のことを獲得するまでに、僕は40年近くかかってしまった。
40年とは、思春期開始以降ということで、ずいぶんこの40年は苦労した。 はじめは、親や教師、おおざっぱに言って「大人」に反抗するため、自分の自我をひたすら肥大化させていった。 つぎに、その自我のもと、さまざまな自我ネタ(小説やマンガや映画や音楽や思想)の作品を漁った。そのことでさらに僕の自我は大きくなっていった。
これじゃあダメだと思い、またその頃「他者」との出会いも重なり、体験は格段に広がった。 でも実は、自我の肥大化は止まらず、なんか変な方向に進み始めた。
その途中、哲学と出会い、「他者」や「脱自我」の理論を知った。同時に、仕事の幅も深さも広がって、僕の世界はどんどん広がっていった。 哲学的言葉や方法を知ったことも大きい。そのことはずいぶん僕を楽にさせた。
が、それでも結局は、僕の巨大で歪んだ自我はそれほど変化しなかったのかもしれないなあ、とこの頃考えていた。
■「思いやり」「まごころ「きづかい」
そんなとき、前職場を退職して独立したのであるが、この3ヶ…

代表病②〜いつのまにか「権力」になっている 

イメージ
■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
Yahoo!ブログ 子ども若者論のドーナツトーク「 僕が高校生だったらこんな授業を受けたい」
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」
Twitter(最近急に目覚めた!!)
◼わからないからこそ、思いやる

昨日、京都精華大学の授業があり(あと3回だ!!)、ついに鷲田清一先生の『聴くことの力』(TBSブリタリカ)をとりあげた。
最終章のおもしろそうなところを学生さんにコピーして配り、同書を久しぶりに読み返したのだが、いくつかの発見というか再発見があった。
コピーして配ったのは以下のようなところだ。この部分を選んだのはそれほど意図はない。



「あくまでもみずからの存在の低さにあきれるそういう苦笑のなかで、ホスピタブルでありたいと思う。苦悩により『ゆたかな』意味を求めるような『苦しみ』の概念には、やはり抵抗がある」

「荷物が重くて喘いでいるひとの荷物を半分持ってあげるように、他者の苦しみをいわば半分分かち持つこと、ホスピタリティのこのような概念には、『なにかお手伝いできることがありますか?』can I help you?といった軽い言葉をむしろ対応させてみたい」

「他者の現在を思いやること、それはわからないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない」

苦悩しつつ「ゆたかな意味」を求めることには抵抗がある。
「軽い言葉(Can I help you?)をあえてホスピタリティに対応させたい。
他者がわからないからこそ、他者を思いやることができる。

これらはまさに「鷲田節」であって、僕は10年前の社会人院生時代にはイマイチぴんとこなかったが、今は(特にNPO代表を辞めた今は)、これらの「あえて重くならない」「軽い言葉の中に歓待がある」「わからないあなただからこそ、私はあなたを思いやることができる」という言葉たちがぐっとくる。

これらの言葉の中にこそ、NPO代表(あるいはNPOの中心カウンセラーでもいいが)という、「システムの中心」にとどまっていてはわからないニュアンスが含まれていると思う。

■やっと「聴くこと」ができる

また、僕は、カウンセリング(あるいは「面談」全般)のなかに含まれる「権力性」にもそろそろ嫌気が差してきた。
フーコーのいう「告白」に含まれる権力関係(聞いている側〈神父やカウンセラー〉…