「変な大人」とは「クィアな人」のこと〜「変な大人」論13


■ジェンダー・トラブル

最近「クィア理論」との絡みから、また「変な大人」論で新展開をひらめいたので(まあそんなたいしたことでもないが)、忘れないうちにブログっておこう。
その前に、これまでの「変な大人」話のいくつかを下に貼り付けておく。

ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』
デリダ理論を背景とする文章は難解だが、基本的に実践書なのでおもしろい。
「クィア」は確か最終章に登場するので、そこだけ立ち読みもオッケー。
本の写真ではなくここをクリックするとアマゾンに飛べる(はず……)


「クィア」とは通常ジェンダー・セクシュアリティ問題のなかで語られる用語で、通常の性規範から意識的に逸脱することで、性的マジョリティ(ヘテロセクシュアル)が無意識的に抱き振舞っている意識や行動を、クィアのパフォーマンスそのもので問いかけていくものだ。

具体的には、マツコやミッツ等の「おねぇ」の芸能人の方々を思い浮かべていただきたい。彼女らは最初は仕方なくだったのだろうが、ある時点からあえて「変」を戦略的に使うようになったと推察する。

その戦略的「変さ」は確信的なゆえに、ヘテロの人々の何かを根底から揺さぶる。
ヘテロを自認する僕も揺さぶれ、時々自分自身を問うこともあるが、僕はジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』がフェイバリット本(同書がクィア理論のバイブルだと思う)だったりするから、そんなに揺さぶられることはない。

が、マツコもミッツも、性規範に関してはラディカルではあるが、その他社会規範に関してはいたって普通、いや普通どころか極めて保守的だったりする。
単に「性逸脱者」という視点から思い切ったことをずばっと言うから聞いてるこちらはスッとするものの、言ってる中身は単なるオヤジの説教と変わりないという話題も結構ある(たとえば「そりゃ人間は働いてナンボよ!!」とか言ってると思う)。

性に関しては「クィア」であっても、「働く」や「学校に行く」に関してはそれほどクィアではない(ただそれら概念と隣接する「結婚する」「家族を持つ」等に関してはいたってラディカルだから、僕は彼女らを信頼している)。

■「プレイ」ギャルソン

「変な大人」は、一般の規範から若干ずれており、それを不登校・ひきこもり・ニートの子ども若者たちに言葉や行動で提示することで、子ども若者を一時的に「癒やす」ことができるというのは、これまでの変な大人論の中でしつこいほど述べてきた。

そして、子ども若者が徐々に「社会参加」できるようになると、変な大人の効力は逆に効力ではなく邪魔になり(変な大人は社会に戻る人々を混乱させてしまう)、子どもは変な大人からゆっくりと離れていく。その、離れていくことが「支援の成功」になるということも、これまで繰り返し述べてきた。

そして「変な大人」とは、上の言葉を使うと、社会規範的に「クィアな人」だといってもいいかもしれない、と最近僕は思いつき、そう考えると、自分自身のふるまいが一つひとつ意味付けされ、おもしろくなってきた。

たとえば「服装」ひとつとっても、僕は意識的にコム・デ・ギャルソンの「プレイ」ロゴが入ったTシャツを着るようにしている。
まあお金がないからギャルソンのちゃんとしたTシャツは買えないので(2万円くらいはする)「プレイ」ギャルソンは仕方なく(それでも1万円する……)という側面もあるのだが、「プレイ」でも一定の「撹乱」効果はあげることができる。

たとえばこの写真を見ていただきたい。


かなりピントがボケているのが残念なのだが、これは財務省地下にあるレストランでの一枚だ。内閣府「困難を有する子ども・若者及び家族に対する支援の在り方に関する調査研究 企画分析会議」に出席したあと、簡単な交流会で撮影したもの。
ちなみに両側には「内閣府参事官」のKさんと某サポートステーション事業マネージャーのMさんがいらっしゃる(お二人を紹介するのが目的ではないので、写真はカットしています)。

僕が着ているドットTシャツが「プレイ」ギャルソンで、これはドットで目立つもののロゴ自体は小さいため僕としては不満の一着だ。
もっと、大きくて赤いハートマークと、大きな「コム・デ・ギャルソン」というロゴがあったほうがかっこ悪くておもしろいと僕は思っている(夏場はそんなTシャツばかり着ている)。

最近は官庁でもカジュアルな格好が目立たないものの、さすがに霞ヶ関はあまりというかギャルソンはゼロだったので僕としては痛快だった。

ギャルソンスタイルは元々、阪大・臨床哲学の鷲田先生や本間先生の格好をパクったもので、臨床哲学の人はギャルソン好きが結構多かった。
ここに、ニーチェの「遊び」の思想とかぶっているように見える「プレイ」ロゴが重なり、こりゃ「変な大人」を実践するにはちょうどいいやと思って僕は実践している(といっても、本間先生に比べると、まだまだ「変」度は足りないが〈すみません!!〉)。

■クィアなユーモア

服装はパフォーマティブに「変な大人」が実践できて便利だが、「言葉」や「思想」だといくらでもそれを演出することができる。
その裏付けとして、当ブログで述べているような「グローバリゼーション」や「階級社会」等の僕としては真面目な議論があるのだが、変な大人/クィアな人としては真正面から真面目にそれらの議論を語ってしまってはそれは「クィア」ではないため、若干のユーモアを交えて語ることになる。

それが、ある種の真面目な人たちの琴線に触れることがあり、時々(というかしょっちゅう)トラブルになって怒らせてしまうのだが、そうしたトラブルも込みでの規範の「撹乱」だからしょうがない(そうした意味で「ジェンダー・トラブル」というタイトルはおもしろい)。
すみませんとしか言いようがないものの、クィアな人は規範逸脱者であり、マジョリティに巣食うマイノリティだから、どうしても局面によってはすれ違ってしまう。

だからこそ、本人の意志とは別に行動として規範から逸脱してしまったひきこもりや不登校の子ども若者たちから直感的に好感を抱かれるというメリットもある。★