「セット」と「光」


■住吉区フォーラムの成功と「新しい孤独」

11/15に開いた、住吉区子ども若者サポートシステムづくりのフォーラム「子ども若者の『ホーム』レスとは?」は、なんと180名弱の方にお越しいただき、キックオフイベントらしい議論の拡散はさておき、その規模において予想以上の成功となった。
その報告はこのYahoo!ブログ「新しい孤独」にも書いた。

Yahoo!ブログのタイトルにもあるように、「新しい孤独」という新概念に辿り着いたことも、僕にとってはある種の達成感があり、高校生支援を中心とした毎日のありようとは別レベルで、なんとなく今週の僕はぼんやりしている。

まあ、こんなぼんやり回があってもいいか。前のNPOをやめて半年、僕なりにがんばってきたし、今回くらいは大目に見てくださいね。

■『サードプレイス』はおもしろい

そんなわけで、思いつくまま。
いずれきちんと書評を書くつもりだが、訳されたばかりのオルデンバーグ『サードプレイス』(みすず書房)は、かなりおもしろい。みすずの本なので4200円と高価だが、「居場所」や「若者カフェ」等に関心ある方はたくさんのヒントをもらえると思う。

おそらく、これまで感覚的に語られてきた「居場所」について理論化した初めての本なのではないだろうか(あとがきにあるように、老男性学者にありがちなジェンダーバイアス等は我慢して読まなければいけないが)。
高いみすず本だからこそ、逆に「居場所/サードプレイス」が権威づけできるのかも。
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1〜4章の理論編は、理論のようでエッセイ調の構成だから読みやすく、この部分が本書の白眉だろう。
「居場所」的支援メニューを検討されている施設は、公民関係なく参考になる。

哲学好きの僕は、サードプレイスでの人間関係が、「個人」対象ではなく(これはファーストプレイス=家庭やセカンドプレイス=職場・学校での人間関係)、「セット」として、つまり複数の「人間たち」と自分、というコミュニケーションが基板になっているという説明がおもしろかった。

かたまり、つまり「群れ」のような人間の集まり全体に出会うために、サードプレイスを人は訪れる。
そこでは、家庭や職場のような「個人」中心に出会っていくのではなく、サードプレイスにいる人々全員との交流がまずは先にある。
だから、具体的な個人が1時間の中で次々に入れ替わったとしても、それは自分を避けたのではなく、1時間の中で「セット」の構成要素が次々と変化している、と捉えることができる。

家庭や職場ではあえていうと「近代的個人」と我々は出会い、サードプレイスではそうした個人ではなく「セット」としての人間たちと出会う。
この2つのコミュニケーション(個とセット)を並立してもつと、我々にはなぜか余裕が生じてくるようだ。

■光

最後に。
僕は3年前の脳出血以来、あれほど好きだった音楽がなぜかどうでもよくなり、BGMでスティーリー・ダン等は流すものの(BGMとしては最高)、ロックはもちろん、ジャズやクラシックも積極的に聞く気がなくなった。
時々YouTubeは見たりするものの、日常的存在として音楽は消えていた。

それが、この頃なぜかこの曲が頭をぐるぐるまわる。
それは佐野元春の「光」で、佐野の音楽らしく妙にしっとりしているのではあるが、これが911後に作られたという制作話はさておき、この曲がきっかけで音楽に再び向かえそうだ。


佐野らしい二重録音による甘い囁きもご愛嬌。よく考えると、人間は50才を過ぎた頃から「死」を意識し始め、それと比例するように「制作物」も充実していく。文学然り哲学然り。プルーストもデリダも、代表作は50才前後から作り始めている。

あの佐野元春もたぶん50才後半頃なのかな。この曲は40代後半に作ったものだろう。
いずれにしろ、再び音楽に臨むことができて嬉しい。★