2013年11月27日水曜日

若手の臨床心理士さんが苦手です


■ずっと尊敬してきた

11月は結局ずっと忙しく、せっかくBLOGOS(BLOGOS田中俊英)とリンクできたというのに(実は当ブログ開始時からの目標だった)、新しい記事を書く時間がなく、焦っていた。
このままではどんどん更新日時が空いてしまう。ショートブログでもいいので書いてみることにする。

臨床心理士といえば僕は、精神分析とリンクして考えてしまい、フロイトやユングやメラニー・クラインや河合隼雄等、その評価はさておき、若い頃にずいぶん読んだ記憶もありそれなりに影響も受けたことから、若干の憧れをもってこれまで接してきた。

フロイトだったらなんでもいいが、この新訳全集には「症例ドラ」や「性理論3編」が収録されている。
いずれも、今もいろいろな意味で考察できる画期的な論考だ。


たとえば僕がいちばん読んだフロイトでいうと、その臨床家的保守性(なんでも精神的な病気にしてしまう)を打ち消してしまうほどの、無意識の構造や「欲動」や「欲望」等、挙げだしたらきりがないたくさんの根源的考察を行なっている。
その考察を、現代思想のドゥルーズやデリダも自分の理論に取り入れているほとで、規範的には保守的なものの、人間存在のあり方の考察に関しては、過激な現代思想に影響を与えるほど根源的だ。

だから僕は、フロイト等を底流にした臨床心理学と、それが元になっている臨床心理士を尊敬してきた。

が、最近仕事で若い臨床心理士たち(その卵を含む)と接するたびに、「あれ?」と思うことが多くなった。
彼ら彼女ら若手の臨床心理士たちは、フロイトが持っていた人間存在に対するラディカルな考察はまったくなく、フロイトたちがもつある種の(19世紀的といってもいい古くて既存の)価値だけはフロイト以上に強力に持つ。

■教師よりも保守的

強いていうと、生徒に規範を伝えるのが仕事であるであろう教師たちよりも強固な社会的規範に包まれているように感じるのだ。

教師は、規範やルールを伝えることが自分の仕事に含まれていることをアイロニカルに表現される方も多く、そうした苦笑いの中に僕はプロとしての共感を抱く。
先生である以上、仕方ないけれどもこの社会の取り組みを伝える義務が我々にはある、というある種の清さだ。

これに対して臨床心理士は自らの保守性に無自覚な方が多い。無自覚的に、社会の中心的な規範に乗っている。その無自覚な価値を抱いたまま、規範から一時的にずれる生徒たち若者たちと接していく。
その無自覚な保守性が、傷つきの最底辺にいる子ども若者をさらに追い込むような気が僕などはするのだが、臨床心理士のみなさんはたくさん勉強されているので、あからさまなミスをすることはないだろう。

が、わかりやすいミスというのではなく、なんとなくの「壁」を子どもや若者は臨床心理士に感じるのではないだろうか。

■若い心理士が苦手

当然、激しいトラウマを軽減する心理療法や、施設から求められる心理検査等、臨床心理士は支援現場で大いに役に立っている。
皮肉めいた言い方をすると、「専門家1名」として、支援機関にとっては「支援者数」の一人にカウントすることもできる。

それらトータルすると、臨床心理士は現在の支援現場には欠かせない専門家の一人だ。
が、なんとなく、僕は苦手。

特に、若手の20代の臨床心理士が苦手だったりする。
理由はわからないが、若手の臨床心理士のほとんどが説教っぽく、「自由」があまりないように感じられるからだ。
あくまで僕の感覚論です、今回は。的外れだったら多忙さに免じてご勘弁を。★