2013年6月27日木曜日

変な大人増強計画〜イバショを社会のすみずみに撒くために〜 

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
NEW!!Yahoo!ブログ 子ども若者論のドーナツトーク「 僕が高校生だったらこんな授業を受けたい」
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」
Twitter(最近急に目覚めた!!)

■「変な大人」を社会にばらまく

最近、Twitterの意味がやっとわかり、毎日5本くらいはツイートするようにしている。
忙しい現代人は、エッセイ程度のブログでさえ読まない。それは本当のことなんだとなぜか突然僕は実感し、それならばと、徹底的に真面目なネタをツイートするようにしている(当GoogleのBloggerとは連動していないらしく、上にリンクしているのみですが……)。

これは、カツオのたたきではなくなぜかレタスを狙う変な猫、マーちゃん。
本当は、ネコが社会にもっと受け入れられるだけで「自由」は散種されるのだが……


Yahoo!ニュースブログも含めて、毎日鬼のように僕は言葉を排出しているものの、それほど苦ではない。
たくさん思いつくんだから仕方ないや、とこの頃は笑いながら書いている。そこそこアクセスもあるし。

で、昨日Twitterしていてあらためて気づいたのは、「変な大人」がたくさん社会に種のようにしてばらまかれれば、変な大人は「イバショ(自由な空間)の住人」なのだから、若者たちあるいは現代人全体にとって一時的ストレス軽減なるのでは、ということだ。

昨日、京都精華大学の授業が終わり、ドゥルーズの「出来事」というテーマ(「一般性」の反対の、単独性〈その出来事は世界で毎回「初回」だということ〉)を自分なりに一所懸命学生さんたちに伝えたあとだったので、かなり疲れていた帰り道だった。

そういえば、京都精華大学は非常に自由そうに見える大学で、おまけにS友先生(まあ住友剛先生ですが)を筆頭とした「変な先生」ばかりで(一人ひとりは知らないが、毎回とる授業後の学生アンケートに結構書かれてる)、プラス学生さんたちのなかには高校時代それなりに不登校等で苦労した人たちがかなり見られ、それら学生さんたちがアンケートで「大学に来て救われた」とはっきり書いている。

S友先生は研究室で鍋なども学生と囲み、研究室そのものが文字通り「イバショ」になっている。
僕は、このような大学が(イバショだけではなく、マンガ学科を創設する等、かなりの戦略性が背景にあるような……)もっと全国に増え、ここに行政や安全な奨学金等の経済的扶助も加えていけば、ある一定の若者層のセーフティーネットになるのでは、とツイートしてみた。

■「高専」の拡大化では、何かがズレている

が、行政や奨学金を待っていると、あっという間に時間がすぎていくし、現実の経済的扶助のかたちは何か「ちょっと違う」ものになると思う。

たとえば、高校段階の職業訓練について、現在「高専」の拡大化の議論が進められているようだが、いやいや、高専みたいな「できる」人たちのための「できる」職業訓練ではなく、もっと、コンビニとかヘルパーとか、現実的な職業訓練を受けられる高校が必要なのだ。

従来のようにバイト体験によって日本国内にある「高度なサービス業」を学ぶのはすでに限界で、サービス業の意味や作業内容のいわば「科学的」捉え方によって、学びとして体系的に伝えていく必要がある。
単なる経験主義では「高度なサービス業」のエッセンスまで学べない。

このように、行政や政治を待っていると、「サイレントメジャー(いまの大勢の若者たちの静かなる要望)」的ニーズをなかなか拾えない。
だから僕は、順序を逆転して考えることにした。

■ウォーキング・イバショ

つまり、イバショをシステム的に創設することも重要だが、それよりも、イバショの住人である「変(自由)な大人」を毎年毎年育成していき、変な大人を雇用してもいいと思う職場(NPOになるか株式会社になるか行政になるかわからないが、いずれにしろ体系的な人事戦略は描けていないところが多いだろうから案外潜り込める)にこっそり・ひっそりと入れ込んでいくのだ。

そして、そうした変な大人の活動によって、半年後から2年程度かけて、その職場を段階的に「イバショ」に変えていく。
もちろん、そうした職場全体がイバショになるわけないから、職場内に「イバショ」をこっそりひっそりとつくってしまうか、その変な大人の活動自体が自由な空気を生み出し、変な大人自体が「歩くイバショ」つまりは「ウォーキング・イバショ」になってしまう。

そんな感じで、ひっそりと日本に「自由」を植え付けていく。変な大人にはできるだけ子ども・若者が利用している施設で働いてもらうことが望ましいが、若者が働く職場でも別に構わない。

自由な価値観・何ごとからも開放された考え方をもつ「変な大人」が、ひっそりこっそりと日本全国に広がっていけば、その変な大人たちがいるまわりだけは「自由」が創出されているだろうから、子ども・若者たちは一時的にそこで和め、別の価値観を学ぶ。
いずれは、元の規範社会に戻っていくにしろ、変な大人とともに過ごす数年間が、子ども・若者にとって貴重な体験となっていくだろう。

■「変な大人増殖計画〜自由・権力・『出来事』・『聴くこと』」

ためしに、8/3(土)10:00に予定してる「NPOユースカフェ2」をその場としてみたい。
場所は前と違って「市民交流センターひがしよどがわ」を予定している。時間は、10時から。
内容は、上の変な大人増殖計画に加えて、僕が京都精華大学で学生さんたちに伝えているものをちょっとアレンジしてお届けします。

京都精華大学は、京都・宝ヶ池の国際会議場の近くにあり、「一度聴講してみたいけれど、なかなか時間がとれなくて……」という方も、実は何人かいらっしゃる。そうした方も是非、8/3のユースカフェ2(この名前も変えなきゃね)にお越しください。

いまのところのタイトルは、「変な大人増殖計画〜自由・権力・『出来事』・『聴くこと』」
つまりは、京都精華大学の講義の内容を凝縮したものでもあります。
8/3(土)10:00〜 市民交流センターひがしよどがわ(地図はhttp://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000064684.html)で!! またFacebookでも宣伝しますね。★




2013年6月19日水曜日

高校中退・不登校フォローアップ事業(「となりカフェ」ほか)、今年もやります!!

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■「となりカフェ」、今年も継続!!

府立西成高校での「となりカフェ」事業、今年も府の事業として継続して行なうことが決定した。詳しくは府のホームページにある「実施事業者が決定しました」をご参照願いたいが、昨年の「新しい公共」枠ではなく例の「緊急雇用創出基金事業」枠ではあるものの、かなりバージョンアップして再スタートを切ることができる。

かわいい〜、となりカフェのパネル@西成高校


昨年は西成高校1校だけの実験的事業だったのが、上ホームページにあるように(しかも我々が選定1位!!)、今年は4団体が各2校を担当する拡大バージョンとして展開される。
生まれたばかりの法人である我がofficeドーナツトークは、老舗NPOみらいずと協働して(住吉区の事業と同じですね〜住吉区で「子ども・若者育成支援事業」を始めます参照)、今年度は、西成高校に加え、府立桃谷高校(3部)で居場所を中心としたサービスを展開するつもりだ。

僕としては、20代後半から始めた不登校の子どもたちへの訪問活動のなかで、何人か「つないで」きた桃谷高校とともに仕事ができることもたいへんうれしい。
まさかあの頃は、このように、府と府立高校と民間が連携して、中退や不登校に対する支援サービスが行なえるようになるとは夢にも思わなかった。たぶんそれは、僕が老人になり現役を引退した頃に少しずつ展開されればいいなあと思っていた程度だ。

それが、2010年代になりはやくも現実化された。何ごとも粘り強くひとつのことを続けるものなんだなあと、しみじみ感じている次第です。

■潜在化の「水際」

これまでの西成高校の取り組みは、実は途切れることなく4月以降も継続させてもらえていた。
4月以降、「となりカフェ」を利用する生徒も増えた(ということは、学校の中での「居場所」的空間の意味を、教員を中心とした専門家間ででたえず共有していかなければいけない。それほど「居場所」の効果の意味は伝わりにくい)。

ドーナツトークスタッフ(同事業の担当は辻田事務局長)は、さまざまな理由で高校から離れつつある(言い換えると徐々に「潜在化」している)生徒たちを、「居場所」という不思議な力をもつ空間により、水際でくい止める。

また、その目的を共有する教員集団とのポジティブな話し合い、卒業生との地道なふれあい(たとえば僕は、昨年となりカフェを利用した卒業生と、辻田と僕が夕食をとっていたファミレスですれ違った。その際、「久しぶり!! 先生」と声かけする場面に遭遇した←「あの子、覚えてくれていた」と辻田)なども含めて、「居場所」事業は展開されていく。
この積み重ねが、潜在化の「水際」にいる若者たちをつなぎとめ、人生の次のステップへとなんとか歩み出す補助線となっていく。

■潜在性と単独性、マイナー

それにしても僕は、「潜在性」の魅力にとりつかれている。
Yahoo!ブログを毎週書きながら感じているのだが、あれは基本的に「ニュース」に対するコラムを書く場だから、テーマは一般性を持ち問題は顕在化し、登場人物は個性的ではあるけれどもある種「一般化」している人々だ。

つまりは、誰もが共有できる「一般性」と「普遍性」があってこそ、ニュースのテーマとなりえる。たとえば、政治・経済・教育……、とりあげられる事件や話題は当然「個別性」からスタートしているが、それがYahoo!という大媒体になった途端(そして書き手とは「直接」関係ない話題になった途端)、問題は一般的になり普遍性を持つ。
僕はそのことに対して、なぜか激しい「寂しさ」「つまらなさ」を感じてしまう。

だから、5月始めに「発達障害とニュータイプ」というテーマ(発達障がいはあの「ニュータイプ」かもしれない)で90万アクセス(!!)に到達したあとは、ひたすら「潜在性」と「単独性(その出来事と人物は世界で唯一の出来事と人物だということ)」を意識した記事に変えた。
当然アクセス数は毎回数百に激減したものの、書いていてそっちのほうが楽しいんだからしかたがない。

このことを(一般性ではなく単独性、顕在性ではなく潜在性、そしてメジャーではなくマイナーを、なぜ僕は「欲する」のか)しばらく考えていくことも、僕の「自由な臨床哲学」(そろそろ僕の「臨床哲学」を参照)の大テーマになりそうだ。

いずれにしろ、高校中退・不登校フォローアップ事業と「となりカフェ」、そしてこれから展開するであろういくつかの「◯◯カフェ」(ドーナツトークが直接運営するものだけではなく、ドーナツトークスタッフが何らかのかたちで協力するほかの「◯◯カフェ」も徐々に紹介していきます)をよろしくお願いします!!★

2013年6月12日水曜日

代表病〜①ついスピーチしてしまう

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!

■「代表病」

最近、officeドーナツトークの仕事のペースがやっとつかめてきて、1週間の動きも固定し始めた。
ドーナツトーク事務所での支援の仕事や大学非常勤講師の仕事とは別に、いくつかのNPOをお手伝いする仕事も行なっている。

その仕事は、いわばNPO等のソーシャルセクターを支援する仕事でもあるので当然守秘義務が生じるから、具体的なことは書けない。が、そうした仕事を通じて僕自身に関するテーマに関して気づいたことであれば、一般性に話題を広げつつ、差し支えない範囲であれば書いてもいいだろう。

「哲学者になる」ではさすがにスピーチはセーブできた。
写真は、哲学者になる@広島。


新しく自分の事務所を立ち上げ仕事の内容も微妙に変化してきたなかで気づいたことのひとつに、なんというか「代表病」みたいなものがある。
僕は、10年間、老舗青少年支援NPOの代表業をめちゃくちゃな多忙ペースでこなしてきたせいか、自分で予想していたよりも「NPO代表」的仕草が染み付いてしまっている。

そのひとつに「すぐスピーチしてしまう」というものがあり、この癖が、現在の「ソーシャルセクター支援」が円滑に展開していくことを押しとどめてしまう。
具体的には、ソーシャルセクターの人たちの自主性の芽を、僕のスピーチが摘んでしまうのだ。

■スピーチを求められた

特にこの2年ほどは、僕の仕事は外向けのアドボカシー(当事者の権利擁護と関係事業の獲得)仕事が増えていた。同時に大阪府が委託運営する大きめの仕事を通して、たとえばFM番組に出演したり、普通のホールでのイベントに出演したりと、お声がかかるままにそうした仕事をこなしてきた。

また、自分の法人内においても、僕の仕事はどちらかといえば、スタッフの方々向けのスピーチや仕事の意味付け等が増えていった。
これに加えて、従来の委託事業プレゼン等も加わり、仕事の半分以上は「ここぞという場面でのスピーチ」を求められることが常態化していた。

元々僕は、阪大の臨床哲学を学ぶ以前から、「司会業」がどちらかといえば得意だった。テーマを提示し、話があまり散漫にならないように統御し、かといってそれなりに発言者の個性を演出し、それなりの結論に至る。
このような演出が求められる局面はわりあい多く、田原総一朗級に司会者の個性を出すことは抑えつつも、それなりの演出をしながら発言者たちに目立ってもらう……こうした仕事に僕はずいぶん快を感じていたものだ。

が、脳出血からの生還後、所属NPOの経営規模が拡大したことと同時進行するように、司会業的仕事が減っていった。代わりに求められたのが、「気のきいたスピーチ」系の仕事だった。言い換えると、ザッツ代表スピーチだった。

■「主体的快」の前にある、「コミュニケーションの快」

はじめは恥ずかしかった。が、慣れてしまうと元々目立ちたがりやのため、楽しくなってきた。FMラジオに出演した頃になると、まったく緊張もしなくなり、好き勝手なことを言ってもそれほどチェックもされないし、徐々に「ひとり語りの愉悦」のようなものに目覚めていった。

これに加えて、4月から始めている、大学非常勤講師の仕事も「スピーチの愉悦」を後押ししたのかもしれない。なにしろ、90分延々しゃべってなんぼの仕事なんだから。

けれども、一方的に語ること、教えることには、当然「権力構造」がつきまとう。ひとことで言って、「スピーチや教えること=権力」なのだ(フーコーのいうように、「一方的に聞くこと」も権力なのであるが、教えることの権力性は単純でわかりやすい)。

教えることを引き受けた時からその権力性とのつきあいの仕方を僕はずっと考えているが、その大学非常勤講師の仕事も前期のみのためあと5〜6回で終わる。

が、「スピーチ」は気をつけないとこれからも頻繁に顔を出すだろう。そして、officeドーナツトークの仕事では、毎回毎回僕のスピーチは求められない。むしろスピーチが、クライエントのみなさんの自主性を摘んでしまうことになる。

先日のコンサル仕事では、そのことに途中で気づき、がんばって方針転換して、昔の「司会業」を取り戻すことができた。
やはり、司会をこなしながら、参加者が自主的に自分の言葉で話しだすのを見ることは楽しい。スピーチの「主体的楽しさ」に対して、司会業には「コミュニケーション(他者とのやりとり)の楽しさ」がある。

そもそも僕は、そのような他者とのやりとりに秘められている根源的楽しさ・快を明らかにするために阪大の臨床哲学に入ったのだった。そのことを、最近はよく思い出す。
「主体的快」の前に、「コミュニケーションの快」がある。これを実践すべく、ここ数年のスピーチ癖をやめようと思う(またスピーチしてると気づいた方は、容赦なくご指摘を!!)★



2013年6月2日日曜日

すべては自由のために〜そろそろ僕の「臨床哲学」を〜 

一般社団法人officeドーナツトーク・公式HP
Yahoo!ニュース個人子ども若者論のドーナツトーク12「教室という未成熟な空気」
officeドーナツトークブログ「まのまトーク」

■「哲学すること」と「哲学研究すること」

最近、どうも僕は、「そろそろ自分オリジナルの『臨床哲学』をつくってもいいんじゃないか」と思い始めている。
臨床哲学とは、鷲田清一・前大阪大学総長が教授時代に提案された授業の名前で、『聴くことの力』などにその意図は詳しく書かれているのでご参照を。

もう14年も前の本です。
いろいろ評価は分かれますが、僕は名著だと思います。


現場のなかから生まれるナマの声・言葉・思考をまず第一にしていくというその姿勢に15年前の僕も惹かれ、結局、臨床心理士等の資格には流れず、社会人大学院生として大阪大学に入り込むことになった。

それから15年、NPOの代表になったり脳出血になったりパリに遊びに行ったりメキシコに青年たちの付き添いで行ったりフジロックに行ったり岩波書店からブックレットを発行したり、そして最近はよりラディカル(根源的=つまり、子ども若者問題の最も潜在的な問題〜高校中退・貧困・複雑な家族問題・20才前後のひきこもり〜等に焦点化していく)な一般社団法人を設立したりと好き勝手に生きてきたが、基本的には、鷲田先生・本間先生・中岡先生や当時の大学院の先輩・同僚の方々と過ごした時間を、最もベーシックなものとして大切にしながら生活してきた。

時々僕は、デリダだドゥルーズだと知ったかぶりをして書いているが、それらの知識は10年前に阪大で短期集中的に得たものに過ぎない。
そんな中途半端な知識しかないのになぜ偉そうに哲学者の名前を語れるかというと、たとえば本間先生とドゥルーズについていろいろおしゃべりしたあの時間が圧倒的に濃密であり、ドゥルーズはよくわからないものの「ドゥルーズが提示しようとしていた諸問題(たとえば「潜在性」の問題)」について僕なりに一生懸命に考えたという自負があるからだ。

ドゥルーズの『差異と反復』などいまだによくわからない。けれども、ドゥルーズはそのなかで一生懸命「潜在性」について語っている。
その語り口の熱さにひかれて僕は何回も読み返したものだが全然わからず、それでも本間先生の解説というかトークを聴くうちに、「潜在性」という問題系が秘める重要性はひしひしと伝わってきた。その重要性の意味は、たぶん僕が死ぬまでよくわからないままだろう。

けれども、そのことについて延々考え続け、自分なりに発信・行動することはできる。
そのことこそ、「哲学研究」ではなくまさに「哲学すること」であり、だから僕は、開きなおってドゥルーズを語ることができる。ドゥルーズはわからない。けれども、ドゥルーズが提示し続けた問題系を考え続けることはできる。

そして僕は、「実践すること」もできる(それがofficeドーナツトークだ)。このことが臨床哲学だと僕は思っている。

■「自由」が残った

でもどこかで哲学研究者としては中途半端な自分についてずっと自信がなかった。
が、なぜかこの頃、そうしたこだわりもとれてしまった。やはり、生死をさまよった脳出血という病気になったことが大きかったと思うが、まあ原因はこれから考えてもいい。
とにかく、「そろそろ自分オリジナルの『臨床哲学』を提示しても許されるんじゃないか」と思い始めたのだ。

その時、僕の臨床哲学のテーマは、「自由」になる。主体的にこれを選びとったわけではなく、気づけばテーマとして「自由」がそこにあった。いや、「自由」だけがそこに残っていた。
いや、自由をめぐる問題系しか僕の関心は残されていなかったというのが正確だろうか。

ただ僕は哲学研究者ではないので、自由に関する思想史的探求はできないし興味がない。
また、その「哲学した」成果の発表の仕方については、ロビー活動・運・テーマの現代性等が必要な単行本制作というかたちでは、それほど興味がない。

現実の書籍は、僕も若い頃編集者だったからよくわかるのだが、とにかくたくさん制約(企画・推敲・草稿・校正・営業等)がついてまわる。もう僕も来年50才だから、それらの制約を我慢強くクリアして書籍化をすすめていくパワーがなくなってしまったのだ。

■動画も

だから、発表はウェブでしていくつもりだ。できれば、こことは別にサイトをつくり、製作過程をすべてオープンにしていこうと思っている。
また、文字だけではなく、iPhoneによるインタビュー動画も加え、多角的に構成したい。
たとえば、このような題材がすでにそろっている。

臨床哲学・本間直樹先生インタビュー「自由になるために」

さいろ社・松本康治さんインタビュー「自由」④

これはおまけ。最近の田中のつぶやき「自由」③


■自由と猫

いま考えてる目次は以下のようなもの。

・なぜ自由か
・自由と組織
・自由と支援
・自由とソーシャルセクター
・自由と居場所
・自由と戦略
・自由と教室
・自由と家族
・自由と猫

時々この路線が当ブログに現れ、それらをまとめて別のサイトを作っていこうと思っています。マニアックな方はお付き合いください〜★