2013年8月29日木曜日

3年ぶり、田中俊英による全3回フル講師!!「ニート・ひきこもりを持つ保護者のための、スモールステップ講座」❑おしらせ❑

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!


■3年ぶりにフル講師!!

僕が脳出血で倒れたのが、3年前の2010年8月19日。本当に死線をさまよったのですが、なぜか後遺症なく復活し、この4月には一般社団法人officeドーナツトークを立ち上げて日々奮闘中なのはご存知のとおりだと思います。

そんな僕が、自分で考案したものの全回を通して講演したのははるか3年以上前の、あの「ニート・ひきこもりをもつ保護者のための、スモールステップ講座」を全3回を通して講師します。

これは、「住吉区子ども・若者サポートシステム」の一環なのですが、中味はこれまで行なってきたものを2013年の話題もふんだんに盛り込んでご提示します。
内容をざっと書くと以下のとおりです。

ニート・ひきこもりをもつ保護者のための、スモールステップ講座
【日程・場所】
■ 9月14日(土)10:00~12:00@住吉図書館1F多目的室「スモールステップの見取り図」
■ 9月21日(土)10:00~12:00@住吉区民センター図書館棟集会室3「親が踏んではいけない“地雷”とはなにか」
■ 10月5日(土)10:00~12:00@住吉区民センター図書館棟集会室3「親離れと子離れ、具体的な社会参加のかたち」


会長地図はこちら
【参加費】無料
【対象】保護者の方
【定員】10名
【講師】田中俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表)
【内容】保護者が不登校・ひきこもり・ニートの若者を理解し、支えるためのスモールステップを学びます。スモールステップをじっくりと駆け上がることなしで、社会参加はなかなか困難なのが現実です。
「スモールステップ講座」考案者である田中俊英が全回にわたってお話する今回の講座を通して、子どもたちの具体的な社会参加のかたちを考えましょう!!

実施主体お問い合わせ先

NPO法人み・らいず・一般社団法人officeドーナツトーク共同企業体
※本事業では、子ども・若者問題に関して長く取り組むNPO法人と専門法人が事業体を形成して実施しております。

【NPO法人み・らいず】
〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋4-4-19
TEL:080-9129-6740 FAX:06-6683-5532
MAIL : sumiyoshi_young@me-rise.com

【一般社団法人officeドーナツトーク】
〒532-0023 大阪市十三東3-5-1ホワイトマンション1B
TEL:070-5663-8606
WEB : http://officedonutstalk.jimdo.com/
みなさま、どうぞよろしくお願いします。★

2013年8月24日土曜日

残された潜在性〜軽度知的障がい

■officeドーナツトーク・公式HPがついにオープン!!
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■行動指針「潜在性のアプローチ」

officeドーナツトークの行動指針のひとつめは「潜在性のアプローチ」だ。
その方針に基づき、ハイティーンのひきこもり予備軍に対応するため「高校中退予防事業」に取り組む。これは、主として年齢別にみた潜在性へのアプローチとなる。

また、地域的な潜在性もここには含まれ、生活保護受給率全国一位(4人に1人)といわれる大阪市西成区への問題に我々として取り組むため、府立西成高校で事業をさせていただいている。

地域的な潜在性は大阪市南部全体も指し、その点から大阪市住吉区の単独事業「住吉区子ども若者サポートシステム(通称)」を展開している。
住吉区では、補助金事業で「居場所」を行なうことにもなった(近々報告します)。

ほかにも地域的な潜在性の問題に対してアプローチするため、いくつか企画提案している。

これらはいずれも、すべてミッションの下位方針にあたる「行動指針」のひとつ「潜在性のアプローチ」に基いて行動している。
このように僕は、規模は小さくとも、「ビジョン→ミッション→行動指針→2〜3年戦略→当年度アクションプラン」という、ソーシャルセクターらしい動きを実践するためにofficeドーナツトークを設立した。

■ひきこもりやニートとして扱われ、さらに発見が遅れる

その「潜在性」の、残された対象領域があると僕は考え、そこにどう切り込むか、本格的に考え始めた。
それは、「軽度知的障がい」の方に対する、社会参加に向けてのロードマップづくりだ。

もしも、ロードマップがすでにあるとしたら(あることを願う)、それを参考にし紹介していきたいので、教えてほしい。
この頃僕は、子ども若者支援論についてはサボり気味なので、そうであることを願う。

が、いろいろな仕事で出会う、軽度知的障がいの方への専門家の姿勢をみていると、まだまだそれは焦点化できていないようにも思う。
それは、10代前半までに顕在化のチャンスにめぐりあうものの、専門家も含む大人たちの未対応から、10代後半には潜在化していき、なかにはひきこもりやニートとして扱われ、当事者が抱く苦しみは放置されたまま、人によっては軽犯罪を繰り返しているのでは? と僕は考える。

当事者は、知的にわずかなハンデがあるが外見的には判別しにくいことも合わせて、普通の大人(教師やカウンセラー含む)からは、単に「やっかいなやつ」「トラブルメーカー」として扱われる。

これが、中学まではなんとか学校や専門機関でフォローされる場合もあるが、年齢を重ねるにつれ、当事者をめぐる「網の目」が徐々に荒くなってくる。
また、人とも合わなくなるため(逆にいうとひきこもりやニートになるため)、目立ったトラブルも起こさない。
が、当事者の「社会への理解のされなさ」はなんら変化することなく潜在化して継続し、人によっては軽度の犯罪(窃盗等)や性犯罪(これも窃盗等)を繰り返すことになる。

報道等では(たとえばこんな記事参照http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/bookreview/12/index1.html)目にするものの、普通の人からすると、実際に目の前から彼ら彼女らは消えていく(潜在化していく)ため、正面から取り上げなくなる。
臭いものに蓋をする文化である日本の場合、なおさらだ。

■「発見のセンス」

こうした問題は、専門家のなかにも深刻に横たわる。特に、臨床心理学の上辺だけを学んだ若手の人々にそれはあるかもしれない。
資格的には専門職かもしれないが、発達障がいの知見があまりない若手のカウンセラーは全国的に少なくないだろう。

ベテランの臨床心理士(福祉的観点ももつ)や福祉職は、これら経験と知識が浅い若手専門職をやさしく指導していかなければいけない。

また、これは、もしかすると、学問的問題というよりは「発見のセンス」の問題かもしれない、と僕は思う。
トラブルを頻発して周りに迷惑をかけるがその内面では異常なほどの孤独をかかえる「潜在化していく当事者(軽度知的障がい者)」に対して、どれだけの想像力を働かせることが我々にはできるのか。

僕もできているとは胸は張れない。けれども、10代のうちのはやめの「発見」と対応が、軽犯罪を繰り返すかもしれないその後の当事者の人生を別のものに変えることはできる。

特に、現在全国に展開される若者支援において、ニートの自立支援と称しながら「発見」を遅らせることには注意しなければいけない。★












2013年8月16日金曜日

ベビーブーマーが産んだ「ロック」



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❑5つのテーマに収束

今日は8月16日でofficeドーナツトークもまだ夏休み。僕も、恒例の香川県への帰省でのんびりしている。
そういうゆる〜い雰囲気のなか、昨日Twitterに衝動書きしたことをまとめてみよう。

ロジー、教えてロジー
(ルースターズ)


あと、当ブログほかで書いてきた僕の諸テーマは、たぶん以下の5つに分かれるんだろうなあと思いいたったので、しばらくタイトルの横にその5つのテーマを書いておくことにします。それらは以下の5つ。

①自由と権力
②階級社会
③NPOマネジメント
④子ども若者支援
⑤死と生の渚
今回は①の「自由と権力」論につながる話です。

❑「ロック」史

大学時代の友人や僕の弟は、あれほど好きだったはずの「ロック・ミュージックの最前線」そのものに背を向け、自分が好きだったアーティスト、たとえばジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリンやキング・クリムゾン、新しくてもクラッシュあたりをいまだに聴き続けている。

そのこと自体を尊敬はしながらも、僕は「自分だけは最先端のロックを聞き続けるぞ」と言い聞かせ、がんばってフジロックに行ったり流行りのクラブ・ミュージックをチェックしたりしてはきた。

けれども、ついに僕も白旗を揚げる時がやってきた。
大病後に音楽そのものから遠くなったこと、ジャズやクラシック等のほうが楽しめること等、年齢や身体の変化もその一因なのだが、この前突然、「あ、ロックって結局、ベビーブーマー世代が若い時に世代的集団で作り上げた一種の『世代文化』なのかなあ」と思いついたことだった。

1970年前後、主にアメリカを中心としたベビーブーマー世代(日本では団塊世代)が20才前後の頃、世代的集団でさまざまな権力やシステムに反旗を翻した動きがあった。
68年をピークとするらしい運動(パリのそれは「革命」とまで言われる)を始めとして、70年代前半から中盤にかけての反動(新左翼のテロ・内ゲバやパンクムーブメントも含め)くらいまで、「青春の反抗」は6〜7年続いた。

それらのムーブメントを裏で支えたのが「カウンターカルチャー」で、アート・広告・思想(ここに「ポストモダン」も含まれるだろう)等、様々な動きを飲み込んでいったが、その代表が「ロック」だった。

❑ディシプリン権力から監視権力・グローバリゼーション、「敵」がいない

まあそんなことはいろんな雑誌に書いてるからさらっと飛ばすとして、そのカウンターカルチャーを形成したのが、若きベビーブーマー世代/団塊世代であったことが重要だ。

とにかくベビーブーマー世代は数として多かった。言い換えると大きな人口ボリュームだった。大きな人口ボリューム世代を精神的に支えたものがロックであり、そこには豊かな表現を備えた作品群が大量に生産された。

音楽性自体は、「ディシプリン権力(たとえば、田中のYahoo!ブログ「給食」ディシプリン権力とは?参照)」への反抗という単純なものだったが、単純な「カウンター/対抗」文化のゆえ、そこには今日まで通用するすべての要素が注ぎ込まれていたのではないかと思うのですね。

ディシプリン権力への反抗→単純な(そして普遍的な)カウンターカルチャーとしての音楽=ロック→その時点でロックという形式で表現できることはほとんど出し尽くされた→その再生産がいまもまだ続く、という構図がまずはある。

これに加えて、現代の「権力」が単純なディシプリン権力だけではなく、街中のカメラ配置、クレジットカードによる「欲望」の分類、外食産業や教育施設の中の座席配置等々、権力主体が見えない網の目のように広がった「監視権力・生権力」の要素も加わったため、70年ころのような単純なカウンターテーゼができない。

また、ロック的な「敵」をあえて設定すると、そうした監視権力のほかに「グローバリゼーション」も設定しなければいけないが、皮肉なことに、世界的音楽(商品)となった(あるいは世界音楽を目指す)ロックは、グローバリゼーションの立派な販売戦略の一員に取り組まれているから、よほど「内部から崩壊させる」的戦略がない限り、それは単なる「ロックという名のグローバリゼーション」になってしまう。

つまり、シンプルなディシプリン権力へのカウンターだけでは、現代の反抗は現実化できない。敵は、①監視(生)権力と②グローバリゼーション(自らも「ロック商品」にさせられる)という、ものすご〜くあいまいだけれども強力なシステムだからだ。

❑抜け穴

だから人は、「あの頃」に戻る。あの頃とは、権力といえばほぼディシプリン権力を指していた頃、つまりは1970年あたりだ。
その頃、人口ボリュームとして、「若者」が大量生産されていたということもあり、「ロック」は成り立った。

あの頃は、今と比べると遥かにシンプルでわかりやすい。権力と自由、敵と味方、大人と若者等々、すべてのものが単純でクリアだった。

といいつつ、グローバリゼーションと生権力からこぼれおちるものはこの時代にも生産されるのではと、再結成したルースターズの映像を見てぼんやり思ったりした。
精神的病から20年かけて帰ってきたように見える大江慎也の表情は、グローバリゼーションと生権力の「抜け穴」を教えてくれそうなのだ。★















2013年8月9日金曜日

なぜマネジメントの話にたどりつけないのか 

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■Twitterで事業マネジメントの話

昨日(8/8)、NPO法人しゃらく小嶋さんのコーディネートで「神戸の社会起業家育成シリーズ/子ども・若者の自立サポートを仕事にする」(http://ikisapo.com/next/2013/06/11/kobe-sb2/)というイベント(NPO法人・神戸オレンジの会代表の藤本圭光さんも登壇)が行なわれ、平日夜にもかかわらず30人ほどの方が集まり、子ども若者支援や社会企業等について熱いトークが交わされた。



藤本さん(左)、しゃらく小嶋さん(右)
また、先週あたりから僕は、Twitterで「NPO等のソーシャルセクターは『事業マネージャー』を育成しなければいけない」という点について語り始めている。
書き込みはFacebookとも連動させており、「いいね!」数はそれほど伸びていないものの、会う人ごとに「読んでますよ! マネジメント論」と話しかけられるので、だんだんやりがいがでてきた。

ここでは、これまでの書き込みやイベントで話したことをまとめ、タイトルにあるように、「マネジメントがテーマのはずなのに、なぜか『支援の現場』話に引き摺られてしまうこと」についてメモしておきたい。

■マネジメントの3オーダー

NPO等のソーシャルセクターのマネジメントを、僕は以下の3オーダー(階層)に区別する。

①法人マネジメント
  |
②機能別マネジメント
  |
③事業マネジメント

①はその法人をすべて統括する視点で、普通は法人の代表理事が行なう。外部理事や法人内「参謀」が力を持っている場合はそれらの見解も反映されるが、僕は、NPOといえども民間なのだから、できるだけ代表理事に権限を集中することがある意味資本主義らしいと思う(経営に失敗すれば数年で交代すればいい)。

②は、人事、財務、広報等がある。財務は「会計事務」ではなく、財務戦略と年間アクションプランの財務面からのチェックを行なう。日本の場合は、日々の事務的会計事務や事業内会計を財務のメイン仕事だと位置づけているようだが、会計事務は、財務マネジメントの一セクションにすぎない。

③がNPO等のソーシャルセクターが「現場」で行なう本来業務であり、a.自主事業、b.行政委託事業と助成金事業、c.寄付事業の三本柱に分かれる。けれども、寄付事業は日本ではなかなか根付かないと僕は諦めている(あと、外国人労働者も難しいだろう。これはビジネスの問題ではなく文化と歴史の問題だ)。

そして、この3番目の事業マネジメントを統括する「事業マネージャー」をいかに育成していくかということが、これからのソーシャルセクターのカギを握ると僕は思う。

■広大な範囲のマネジメント

ブログをあまり長く書いても誰も読んでくれないから手短に書くと、事業マネージャーの養成は実際に事業を任せるのが手っ取り早い。
事業は、予算規模で言うと、100万円、300万円、500万円、1000万円、1500万円、3000万円、5000万円と広がっていくだろうが、はじめは100万円くらいの事業を任せるといいと思う。

予算規模100万円でもやることは多い。それは、利用者管理(サービス受益者〜ニート支援であれば当事者と保護者の支援と顧客管理)、スタッフ管理、会計事務、広報、アドボカシー(①同業他社・他ジャンルだが有望団体の2種類のお付き合い、②来年度に向けての事業獲得活動、がある)等々がある。

100万円規模でも、きちんとやり始めるとそれぞれ奥が深く、事業マネージャーはへとへとになるのだが、これに加え、普通は「現場(青少年ジャンルであれば支援活動)」の仕事も同時に行なっている。
だから、事業マネージャーへのケアをその上のマネージャー(人事マネージャーや法人マネージャー〈代表理事〉)が行なわないと、事業マネージャーは鬱になるか「下」のスタッフがとばっちりを受ける(怒鳴られたりいじめられる)。

■マネジメントトークが、現場トークに変化する

事業は、事業マネージャーと法人マネージャー/代表理事がいっしょになって「事業のコンセプト」づくりから始めるのが望ましい。
そのできあがったコンセプトを、他の機能別マネージャー(広報や財務等)に説明し、他の法人内にある既存の事業マネージャーに説明し、新事業に予定するスタッフに説明・シェァしていくことも、事業マネージャーの訓練となる。

このとき、「事業コンセプト」がしっかりしていればスタッフもついてきてくれる。つまり事業のコンセプトは、法人のミッションと同じくらい重要なのだ。

僕がいま関心あるのは、以上のようなことをディスカッションしていても、多くの場合「現場」の諸関心に焦点が移ってしまうということだ。
言い換えると、「マネジメント」トークが、いつのまにか「支援論」や「スーパーバイズ」や「支援の仕組みづくり」に移行してしまう。

マネジメントは上に書いたように幅広い。俯瞰的であり、常に「メタレベル」であることを求められる。
ところが、ソーシャルセクターのスタッフと話していると、俯瞰的高みからすぐに降りてきて、法人内の一セクションの話になってしまう。
一セクションの話題とはほとんどの場合、上に書いたように、「支援論」「スーパーバイズ」「支援の仕組みづくり」だ。

■現場トークが勝つ理由〜目の前の課題解決型NPOばかりのため

事業マネジメントの仕事からすると、これら支援に関する事柄は、「利用者管理」のなかの「支援の方法論」であり、「スタッフ管理」の中の「専門職の位置づけ」にしかすぎない。

上に書いたように、事業マネジメントはそれらも含んだ広大な分野を統括していく必要がある。支援の方法論や専門職の位置づけは重要ではあるが、それはたとえば一般の製造業でたとえると、商品開発と制作現場の組み換えの話題だ。

当然であるが、よい商品をつくっても売れるわけはなく、社員の労務管理・広報・会計事務等々、すべてを統括してこそ、売上アップにつながる(ソーシャルセクターの場合、法人に対する好評価と次年度事業の継続)。

が、なぜかソーシャルセクターでは、「現場」トークが事業マネジメントトークに混入し、現場トークのほうが勝ってしまう。
なぜだろうか。

僕はいまのところは、日本のソーシャルセクターは「ミッション」「戦略」が極端に弱く、以前のこのブログ(①目の前の課題解決型、②社会起業家型、③社会変革型、④仕方なく型〜4つのNPOタイプ )で書いた「目の前の課題解決型」NPOが圧倒的に多いから、という点がその理由なのだと思っている。
この場合、ソーシャルセクターにこだわる必要はなく、むしろ混乱を避けるために既存の社会福祉法人や医療法人に特化したほうがいい(その意味で、これからの日本では、47000にまで拡大したNPO数が減少するかもしれない)。

また、②の社会起業家型の存在もあなどれず、社会的問題がちょっとでもかぶっていればジャンルはなんでもいいというのでは、やはりミッションは弱い(戦略は強いかもしれない)。
この場合、目の前の課題解決型とは異なり、目の前の課題(たとえばニート支援)は他に置き換え可能だから、先ほどの民間企業の例で言うと、逆に商品開発や制作現場のくふうが弱くなってしまう。
②は、15年前ならば、IT分野に行っていてもおかしくない人たちだと僕は思う。

ありゃ〜、結局長くなった。ここまで読んでいただいた人には感謝します。機会をみて、継続的にこのテーマは論じるつもり。ページトップにある、僕のTwitterもチェックしていただければ幸いです。★




2013年8月5日月曜日

「居場所のイマージュ」が居場所を出たあとも人を支える 

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■支援者と権力

8/2、NPOユースカフェ2「支援者と権力」がマニアックな内容にもかかわらず15名ほどの人が参加してとりおこなわれた。
内容はFacebookでも報告したとおり、以下のようなものだった。
京都精華大学で非常勤講師をしたとはいえ、基本、教師稼業は素人だから必死だ。
★8/2 NPOユースカフェ「支援者と権力」

1.権力が嫌い

2.権力とは?〜フーコーの権力論
①告白
②ディシプリン権力〜ルールとパノプティコン
③監視権力(生権力)〜カメラとマクドナルド、統計・テータ

3.不可避の権力とどう共存するか
①居場所〜変な大人
②パレーシアを越えたところで
③鷲田先生の「軽さ」


4.なぜ権力がいやなのか〜対話〜

2は僕なりにフーコーを解釈したもの、3は当ブログでも言及してきた「変な大人」を中心に(これ等参照http://toroo4ever.blogspot.jp/2013/06/blog-post_27.html)、最近テーマになっている「パレーシア」(フーコー最晩年の重要概念)や鷲田清一先生の臨床哲学論に含まれる独自の「軽さ」「ユーモア」などを僕なりに紹介した。

そのあと4に移って参加者と簡単な対話を行なったのだが、その流れの中で重用な発見をしたのでここで簡単に紹介しておこう。

■乳房というイマージュ


参加者から「居場所を出たあと、子どもや若者たちはどのように過ごすのか」といったような(正確には忘れた)質問が出たときだと思う。
僕は少し黙っていたが、なぜだか10年前に大阪大学の臨床哲学で学んだフロイトのイマージュ論を思い出した。

フロイトは確か『性理論3編』のなかで、「乳房とおしゃぶり」について書いている。
乳房と乳の「快」を知った乳児は、そのイマージュを自分の親指のなかにつくり上げる。その「おしゃぶり」行為をすることで乳児は、本物の乳房が眼前になくともある意味「快」を得る。

その、「本物の乳房がなくともおしゃぶりという行為を通した連想」によって乳児は快のようなものを得る、この「連想」のことをフロイトあるいはフロイトを解説するドゥルーズは、「イマージュ」と呼ぶ。

そして乳児は、イマージュをもとに快のようなものを得る、これら一連の動作をフロイトは「欲望」と呼ぶ。
ちなみに、欲求(だったかな、正確な言葉を忘れましたが)は目の前にあるものに飛びつくことだ(たとえば目の前の乳を吸う)。
これに対して欲望は、「イマージュ」を元に快を得ることだ(もうひとつフロイト用語に「欲動」があるが今回は割愛)。

■「自由」という快・欲望

これを応用して、僕は、「居場所」に関しても、居場所が目の前になくともその代わりにイマージュが形成され、そのイマージュを元に「快」を得ることができるのでは、とNPOユースカフェ2の最後に語った。

つまり、居場所を子どもや若者が「卒業」したあとも、居場所で体験したある種の「快」がイマージュとして残り、目の前に実際の居場所がなくともその快のイマージュによって子どもや若者は支えられるのでは、ということだ。

居場所を出たあと、子どもや若者は「権力」にまみれた窮屈な社会に戻っていく。
その「権力」とは、①学校のような「ディシプリン(規律)権力」であったり、②街並みやテクノロジー(監視カメラやSNSやファーストフードの狭いテーブル)・現代の統計文化(ニートや非正規雇用の数を元に当事者の動きが決められていく)等の「監視=生権力」であったりする。

居場所でいかに癒されても、諸権力にまみれた現代社会の中では、子どもや若者はすぐに疲れ果ててしまうだろう。

そのとき、子どもや若者が体験した「居場所」のイマージュが彼ら彼女らを癒すのでは、と僕は語った。
もっと言うと、居場所で体験した「自由」の体験がイマージュとして彼ら彼女らの中に残り、そこでの「快」が盾となって、現代の権力社会の窮屈さを何とかしのいでいくのでは、ということだ。

その「自由の盾」というイマージュこそ、自由への欲望といってもいいだろう。

以上、単純な話ではあるが、僕が20年くらいふらふらとあちこちで(臨床哲学や出版社やNPOで)模索してきた事柄が、一点に収束してまとまった、記念碑的かつ不思議なセミナーだった。★