2014年2月21日金曜日

Facebookとブログには「サードプレイスとしての癒し」があるか

今は東京行きの(内閣府会議)新幹線の中。
MacBook Air11inch画面の、右Yahoo!ニュース個人、左Facebook。

■サードプレイスとワークライフバランス

この前、某男性向け総合雑誌から簡単な取材を受けた。
それは「サードプレイスとワークライフバランス」に関するもので、どうやらこのYahoo!ニュース個人のこの記事(新しいワークライフバランス)やこの記事(ブログはサードプレイス)を読んでいただいての依頼だったらしい。


僕としては、こうして波及効果が生まれるとは、ブロガー冥利に尽きるなあと思ったのだが、特に2本目の記事の主張点「ブログを書くこともサードプレイスになる」について、いまいち説明しきれなかったのが少し歯がゆかった。

ブログは基本的に1人で行なう行為だ。が、サードプレイスとは、1人で過ごす場ではない。
特定の「誰か」に会うことが目的ではなく、サードプレイスという「場」そのものに行くことが目的だということが、そのポイントなのだ。

「誰か」に会いにその場所に行く(あるいは帰る)のは、ファーストプレイス(家庭、この場合は「家族に会うために帰る」)やセカンドプレイス(職場、この場合は仕事相手に会うために行く)の特徴だ。

けれどもサードプレイスは、まずは「コミュニケーションの場」として機能する。
結果として誰かに会うかもしれないが(そして「誰か特定のあの人に会えるかもしれない」と期待しつつ行くことも確かであるが)、まずは「場」の存在が先行する。

たとえばこれまで僕にとってのサードプレイスだったもの〜大学時代の文芸部等〜は、明らかにそうだった。そこに行けば「誰か」(尊敬できる先輩や気の合う同級生)はいるかもしれない。けれども、先輩や同級生はバイト等でいないかもしれない。だが、とりあえずそこに行ってみる。
なぜなら、そこに行くと、まずは「安心できるコミュニケーション」があるから。安心してリラックスできる空間と人々がいるから。

■コミュニケーションの先行性

この場合の「人々」は特定の誰かではなく、いわば「他者」一般を指す。特定の誰かではないけれども、安心できる他者がいる場、サードプレイスとはそういうものであり、なにはともあれ、「コミュニケーション」の存在の先行が保証されている場だ。

ブログに戻ると、ブログとは基本的に1人で書くものだ。誰かとの共同作業ではない。しかし、ネット時代のブログという作業は、書いて終わりではなく、書いた後すぐにアップロードしてそれを読む人々にそのブログ記事を紹介することができるものだ。
言い換えると、読む(読んでいただける)人と、その記事を「シェア」できるものだ。

そういう意味では、現代のブログは1人で行なうだけのものではなく、瞬時のシェアもセットで含まれるものだから、ある意味「コミュニケーション」はブログという行為の中に含まれている。

■個人的返信の前にオープンなコミュニケーションの場がある

また、同じネット内の作業として、Facebook等のSNSを考えてみると、これはブログ以上に「コミュニケーション」が前提となっている。

短いコメントを書き、アップする。また、誰かのコメントに「いいね!」する。誰かのコメントを「シェア」する。誰かの紹介記事をシェアしていくなかでさらに自分なりのコメントを書く。

これら一連の行ないがすべて「コミュニケーション」を前提としている。特定の「誰か」に向けたコメントもあるが、それはメッセージ(メール)機能を使わない限りはオープンであり、誰かにコメントしながらもそれはすべての人が読むことができる。

僕は、メールやメーリングリストに慣れていたため、最初Facebookでのこうしたオープン性に警戒していた。が、慣れてくると、誰かへのコメントを装いつつも、Facebookでそのコメントを見る人すべてに「開かれている」このシステムが居心地よくなってきた。
誰かへの個人的返信でありながらも、そのクローズドな行為に「先行」するものとして、「Facebookというオープンなコミュニケーションの場」そのものがある。

「コミュニケーションの場」がまず先行し、誰かとの個人的交流はそのあとからついてくる。
そして、コミュニケーションの場は、そもそもオープンになっている。
これは、ブログ執筆後のアップロード〜シェアよりも、「コミュニケーションの先行性」が明確だ。そういう意味では、Facebookは明らかにサードプレイスだと言える。

■癒やしと傷つき

が、理由はまだ言語化できないものの、ブログはもちろんFacebookも、サードプレイスとしては効果が弱いように感じられる。
これは僕だけの感覚だろうか。そうであればたいした問題でもないのだが、やはり「リアルな場としてのサードプレイス」のほうが、ネットの中のサードプレイスよりも「リアル」だということが一般的なのだとすれば、それはなぜなんだろう。

僕は、そこにある種の「癒し」を加えて考えることがポイントとなるのでは、と思い始めた。
「コミュニケーションの先行性」としてサードプレイスはある。それは、リアル・サードプレイスもネット・サードプレイスも変わらない。が、リアル・サードプレイスには、ネット・サードプレイスに何かが加わっている。
それが、「癒し」要素ではないかということだ。

その「癒し」要素は、同時に「傷つき」可能性も秘めているようにも感じる。その「コミュニケーションの先行性」としてのリアル・サードプレイスは、時に癒しになるが、時に傷つき(トラウマ)にもなる。
もちろんFacebook(ネットでのコミュニケーション全般に拡大してもいい)でも傷つきはあるが、それはいつでも「撤退」できる。場そのものから逃走することができる。

けれども、リアル・サードプレイスで傷つきが生じた時、それはあとに残る。リアル空間で、お互いが気まずい思いをしながら再開することがありうる。
逆に、リアル・サードプレイスで「癒し」が生まれた時、それもあとに残る。こちらは、「またあの空間・あのコミュニケーション・あの人と出会いたい」という欲望を生む。

これは僕だけの感覚だろうか。もし、もう少し一般的に語れるものだとすれば、「簡単に回線を切れない」ということが、「コミュニケーション」を考えるときの重用な要素なのかもしれない。★




2014年2月12日水曜日

3年目以降のスタッフがマネジメントを求められる理由


■3年目から「マネジメント」が求められる

先週は某委託事業の企画書を気合入れて書いてたり、その反動からか企画提案書を提出したあとは2日連続して「Yahoo!ニュース個人」に投稿したりと、ついついこちらのGoogleブログをあとまわしにしてしまった。

が、最近やっとこのGoogleブログと「Yahoo!ニュース個人」の差異化ができるようになったのでそれほど焦ってはいない。
ややこしいのは、このGoogleブログも、一般向けする内容だとBLOGOSのほうにも転載されることがあるので(たとえば前回のブログも転載された)、ちょい「色気」みたいなのが出てしまうことだが、このGoogleブログはよりマニアックな内容をつきつめていくことにしよう。

前回、黒田官兵衛を語ることでNPOマネジメントにおける参謀論を考えてみたのだが、今回はそうした参謀の下の下、入社3年目以降のスタッフあたりが「なぜマネジメントをやらざるをえないのか」ということを考えてみたい。

そのために、前回の組織図を少し整理して(言葉も加えて)書いてみる。

事業組織図

事業統括マネージャー(全事業)
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□事業マネージャーA事業、B事業、C事業……)
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□ユニット統括マネージャー(a施設〈A事業内α館〉、b施設〈A事業内β館〉、c施設〈A事業内γ館〉……)
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□ユニットマネージャー(a〈b,c…〉施設内での、「居場所」、面談、セミナー、バックオフィス〈財務・総務・広報・企画等〉)

ex.A,B,C事業とは、具体的には「サポステ」「サテライト」「高校中退」事業等を指す。



■組織の4段階

一般的例も交えて少し解説すると、あるビジネス型NPO法人が「子ども若者事業」を手がけていたとする。一番上の「事業統括マネージャー」はその子ども若者事業すべてをマネジメントしている人を指す。
通常ここまで大きくなると、子ども若者事業以外にも、障害者福祉や寄付事業なども手がけているが、ここでは子ども若者事業だけに絞り込む。

子ども若者事業には、たとえば、不登校、就労、ひきこもり等の事業があるだろう。それは、不登校は○○事業(たとえば大阪市の委託事業では「サテライト事業」)として具体化しており、それらは、A事業、B事業、C事業……といった具体的事業名でまとめられていく。
この、各事業の責任者をこの図では「事業マネージャー」と呼ぶ。

さらにその各事業の下に、「ユニット統括マネージャー」がある。これが今回新たに加えたもので、この段階(とその下の各ユニット)を一般化すると、全体の組織図がより明確化するため加えてみた。
が、難しい意味はなく、たとえば、A事業(たとえばサテライト事業)がもついくつかの施設単位(たとえばサテライトであれば、「サテライト○○(施設の名前)」等)を指す。

さらに、その施設の中では、いくつかのユニットが存在する。そうしたユニットには、「居場所」「面談」「セミナー」「バックオフィス(事務・会計・広報等々)」があるだろう。
利用者のニーズに細かく寄り添っていこうとすると、こうした細かいユニットごとにチームを分け、それぞれ責任者を置くことが望ましい。この責任者をここでは「ユニット・マネージャー」とする。

このような4段階が明確化されている組織は、各段階のスタッフが入れ替わっても(辞めていっても)それほど混乱を招かない(通常のスキルアップは必要だが)。

よくあるのは、こうした組織化が不明瞭なため、仕事ができる人が何役も掛け持ちする「兼務」状態にさらされていることだ。
このような「兼務文化」が常態化している組織は、短期的にはスタッフのがんばりで乗り切れることができるが、長期的には疲弊化・縮小化していくだろう。

■「スタッフと飲んで語る」程度

入社3年が過ぎるようになると(NPOの場合、単年度契約社員も含む)、各ユニットの中で日々支援やバックオフィスの仕事をするだけでは通常は済まされなくなる。
なぜなら、契約社員(非常勤雇用ではあるが)も含めた常勤スタッフがそのユニットの「顔」となっていくようになり、そのユニットを代表する存在になるからだ。

そうすると、「自分は現場主義だから」や「事務専任だから」という個人的イデオロギーのようなものでこれまでの仕事の中にのみ逃げこむことはできなくなる。
そのため、多くは強制的にマネジメントを任されるようになる。

3〜5年目程度であれば図中下の「ユニット・マネージャー」レベルなのだが、このユニット・マネジメントにも、「組織」と「戦略の浸透」という2大マネジメントが求められる。

が、通常は「組織」といっても「スタッフと飲んで語る」程度、「戦略の浸透」といっても「代表の代弁」程度で終わるだろう。ユニット内の会計処理すら任せてもらっていない団体があるのかもしれない。

■「秘密」の共有化が必要

なぜなら、NPOマネジメント全体がまだ共有化されていないからだ。
一部NPOの中には企業以上のマネジメント力をもつ団体もあるだろうが、これは「秘密のベール」に包まれており、流行の断片的な事象(寄付やアドボカシー等)は時々表面化するものの、ソーシャルセクター全般のマネジメントを体系化し共有する「知」はまだないと思う。

ただ、マネジメントに対する軽視は何もNPOだけではなく、日本の企業風土全般にあるのかもしれない。
「現場の職人」は尊重されるが、それら各ユニットを統合して長期的に事業全体を推し進めていく「マネジメント」はいまだ文化として根付いていない。
これは「戦略」がいまだ文化になっていないのと同じで、日本の一大特徴だと思う。

はっきりいって、「現場で丁寧な仕事」が存在しつづけるためには、それらをどう配置するかを考える「経営のプロ」がいなければ、現場は現場だけで終わってしまう。
「経営のプロ」の存在感が認められるには、まだ相当の年月を要するだろう。★