折り合わなくなった

前回の続きでもあるのだが、50才を過ぎて何かを「諦めた」と同時に、何かが吹っ切れてしまったところもある。


これでも僕は、多くのことにずいぶん「折り合い」をつけて生きてきた。たとえば、日常的慣習や規範、仕事における人間関係の調整、原稿仕事におけるテーマの選び方や語り方など。


日常の日本人的慣習・規範・ルールは、そのすべてから自由になることは難しい。が、窮屈で仕方がないものはできるだけ参加しない。それでも、どんなにそこからすり抜けようとしても、それらはついてくる。


仕事における人間関係の調整も、それを行なうと仕事内での不要な行き違いを避けられるため、最低限のことはいまだにしてしまう。
また、原稿仕事(今はネット中心だが)についても、かたちとして後々まで残る分野のため、ギリギリのテーマや表現は避ける。


これら一つひとつが、51才になり、日々バカバカしくなっている。
だからといってすべてを投げ出すわけではないが、そこに囚われている若い人たちや、僕より年上だけれどもきちんと折り合って生きているように見える先輩方が、僕からはどうも「遠い」。


嫌いとかそんなではなく、なんというか、(僕にとっては、です)魅力がない。
やはり魅力があるのは、そのラインを飛び出そうでもがく人たち。
おもしろいことに、そのラインから完全に抜け出た人々は(あまり知らないが)、実際に会った時の素晴らしい印象とは反比例するように、突き抜けすぎて噛み合わないこともある。


そんな、「突き抜けすぎ」に、自分が日々近づいている実感はある。★