支援者、やめます

当連載では何度も書いてしまうが、僕は20代は独立系出版社(さいろ社)を友人と創設し、30代は「支援者」として活動した。
30代半ばで阪大の臨床哲学を学び、40代は大阪の老舗NPOで代表業を10年務めた。


大雑把に言って、編集者として10年、支援者として20年の時間を過ごした。
そして51才になり、また転機を迎えたような気がしている。


20代の10年間は、ある意味「社会」のために生きた。過重労働の看護婦(師)さん、HIVで亡くなっていった人、予防接種の被害者、MRSA(黄色ブドウ球菌)の感染者、脳死臓器移植に巻き込まれた人等、あげはじめたらキリがないが、編集長の松本君とともに、潜在化された医療問題を僕は僕なりに追求した。


自分なりの「理想のジャーナリズム」を追求したいという欲望はあった。つまりは、超「青い」けれども、「理想の社会」を目指していたのだ。


30代から40代の20年間は、20代に広げた大風呂敷とは別に、ミニマムな実践を徹底してきた。また、心理学やソーシャルワークのような王道の「科学」はあえて学ばず、世の中の基本概念を追求する「哲学」をあえて選んだ。
タイムリーに、鷲田先生が現実とコミットする哲学、つまりは「臨床哲学」を創設した時期だった。


ここ20年間の僕は、ある意味「他者」のために生きてきた。


20代は社会のため、30代と40代は他者のために生きてきて、やっと今、50代になって、本当に「自分」のために生きていこうかなと思っている。
そして、他者のために生きる「支援者」はそろそろ卒業してもいいかな、と。

もちろん、マネジメントは行なうけれども(この項つづく。あるいは「無風状態」でも)。★