戦争は「国民的トラウマ」

■戦争=国民的トラウマ

理想的平和主義の根っこは、やはり日本の人々に深く刻まれたトラウマ(心的外傷)だと思う。

原爆に大空襲に特攻に虐殺に性暴力に南方諸島飢餓と、加害被害合わせてそれらはあまりに悲惨だった。
それらの「応答責任」としての語り継がれは、国民的トラウマを形成したのだと思う。それは「身体レベル」での問いだ。

これに対して、「理性レベル」でいくら集団的自衛権の合理性を説いても、それは身体レベルには届かない。
「戦争」は100年前にフロイトが語ったように、ここでもPTSDの一大原因となっている(他に、性暴力・児童虐待・自然災害がある)。それも、「国民的PTSD」の原因として。

集団的自衛権派が真剣であれば、まずはこの国民的PTSDを「治療」すべきだ。

この70年は、治療に代わる妥協点として、個別的自衛権(そして「
片務条約」あるいは日本が後方支援のみの日米安保条約)が静かに存在した。このままでは時代にそぐわないと真剣に集団的自衛権派が思うのであれば、まずは国民の過半数をセラピーする必要がある。

■『はだしのゲン』体験

そして、当事者責任や応答責任としての語り継ぎは、当事者が生存中は行なわれる。
この再生産は我々に刻み付けられた「国民的トラウマ」(それはトラウマではあるがポジティブ)を常にバージョンアップさせ、その結果として理想的平和主義が発動し続けている。

繰り返しになるが、これに、国際情勢を吟味した上での現実的で保守的な一つの防衛策(集団的自衛権に基づいた平和主義)を提示しても、トラウマレベルには届かない。

トラウマ=心的外傷とは、被爆者が75才になっても5才時のエピソードを生々しく語るように、リアルなフラッシュバックを伴うからだ。

被曝のような直接的フラッシュバックがなくとも、たとえば僕であれば、小学生の頃にリアルタイムで読んだ『はだしのゲン』体験がある。
あの被爆描写と、最終回のゲンの笑顔は一生忘れられない。戦争忌避の深いレベルでの刻みつけ(心的外傷レベルでの)は、各自このような体験として持つ。

保守派はここを押さえないと、永久に議論の平行線が続くだろう。

一方で、理想的平和主義派は、当事者がほぼ全員没する20年後以降の応答責任をどう作っていくか。

当事者の語りが消える20年後に、集団的自衛権は完全発動するという悲観的観測を僕は持っている。その対抗を僕(ら)は考えよう。★